プロローグ
先日事故死した姉の部屋は、静謐によって守られていた。
暁のように真新しく、泥のように傷のない安寧。
ある種、残された弟にとって姉の私室は神聖な場所であった。
恐れ多く、まるでこちらの微睡んだ生を呑み込んできそうな。優しくて、恐い場所。
おいそれとは向かえない世界の隅。
今、自分はそこへ足を踏み入れようとしている。
弟――白河 鳩は、無意識に己の心臓に手を当てた。
『Yu』。白河 佑。姉の名が書かれた看板が下げられた扉の前に立つ。
看板は母が作ったものだ。そっと周囲を見渡す。狭い二階の通路には隠れる場所がない。
自然と緊張して、意味もなく息を殺す。
梅雨に入ったからか、換気のために開けられた天窓から湿った匂いが入り込む。早朝の新鮮で草の匂いがただよう空気。
しっとりとした風がかろうじて脈拍を和らげ、胸の爆発を避けた。
「掃除はしてるらしいけれど、汚れてたらどうしよう」
半ば癖でこぼれた独り言に自嘲する。
部屋の前にいることを見つかってはいけないからだ。
何故か。その始まりは六月。姉が死んで四十九日も終わった後。
両親は部屋の家具を取り払ってしまうでもなくそのままにしている。
家族が出かけている間に母が掃除する時以外は決して開かれない。
部屋の時は、あの日より完全に停止していた。
感情すらも殺した虚無によって停滞を保たれている。
それはまごうことなき事実であり、不変の死であった。
「ちょっと緊張するな」
誰に話しかけるでもない。これは己への鼓舞だ。
入れないのは両親だけでなく自分もである。ただし、理由は違う。
鳩が入れないのは両親によって施錠されているからだ。しかも鍵は巧妙に隠されている。たとえ頼んでも入れてもらえないのは実証済み。
姉によくなついた弟であったから、何かしでかさないかと心配なのだろう。
佑はいじめられていた。事故死とは聞いているが、本当のところは誰もが疑っている。
もしかしたら部屋の中にはその証拠もあるかもしれない。
鳩は今年高校に入ったばかりで、その事実を最近になって知った。
遅いかもしれないが、せめて無念を晴らしたい。だというのに両親は許さない。
だから部屋の前にいることを見つかってはいけなかった。
「鳩ー? 朝ごはんよ、降りてらっしゃい!」
階下から母が呼ぶ声にひときわ大きな鼓動が血管を打つ。
反射的に出そうになる返事を抑え、棒立ちになってこらえる。
それにしても、まるで動物のエサやりに聞こえてしまう。姉はどうしてこんな名前をつけたのか。
「……寝てるのかしら」
「あいつは何をするにものんびりだからなあ。日曜ぐらい、寝かせてあげなさい」
「そうねえ」
しばらく黙っていると小さく夫婦の会話が聞こえてきた。父に感謝しながらドアノブに手を掛ける。
勿論、そこにはいつも通り鍵がかかっていた。
けれど、人ではない鳩にとって鍵はさして障害にならない。
意を決して、意図的に手を融解させる。
ほとんど日にも焼けず、生白い肌がすうっと透け、細い血管が丸見えになり、やがてそれも形を失う。
透明になった手は光を受け、きらきらと輝く。
固形でなくなった『手』は、流動する水となって鍵穴をすり抜けていく。
鍵の仕組みはよくわからない。とりあえず鍵穴を『手』で満たし、ぐるりと回す。水越しの鈍い開錠音が聞こえた。
焦る心そのままに、扉を開いて中に飛び込む。
内鍵をかけ、ようやく一息ついた。あとは出るときに見られないよう気をつければいい。
部屋を見渡す。カーテンが閉められて、朝だというのに暗い。電気をつけると内装がはっきり見えた。だが消さなくとも大して困らなかっただろう。
女性の部屋だというのに佑の部屋は物が少ない。
タンス、小さなクローゼット、勉強机。100円ショップで買ったプラスチックのケース棚。
それだけ。死んでしまう前からそうだった。
この部屋は静けさと空虚で満ちている。かろうじて死んでいなかっただけ。
姉の気配はあまりに不変で、てっきりそれ以上の沈黙とは無縁だと思っていた。
「相変わらず落ち着く部屋。落ち着くけれど……」
居心地が悪い。
ここは鳩が初めて『現れた』場所。つまりは生まれ故郷に近いところであって、落ち着くのは当然なのだが。
鳩は《天使》と呼ばれる存在である。
紀元前から人類と共生している、不思議な存在。似て非なるもの、非にして多くを同じくする者。人類の隣人。
彼らは突如、前触れもなく幼子の姿で現れる。それがまるで天から降りてきたようだから、《天使》。
そんな自分に生まれ故郷と呼べる場所があればここ。最初に出逢った人間は姉だった。
自分はまさに姉という存在から始まったのだ。
使い込まれてごわついたカーペットの上に体育座りしてみる。手で恐る恐る表面を撫でた。
何故か虚しい。
「姉さんに会った時、姉さんは六歳だったっけ」
指を折って数えてみる。あまり多くはない思い出があぶくのように蘇ってきた。
姉は今年で高校二年生だったから、自分は実質十歳か。身長は百六八センチメートル。
最近になってようやく肉体の成長がゆるやかになってきた。
そのせいで助けられなかった、というのは言い訳か。
姉の死因は転落。学校の階段から転げ落ち、頭を強打。
学校という場もあってすぐに発見はされたが、打ち所が悪かった。
あの冷たく血色のない遺体を見た時、鳩は今までにない戸惑いを知った。
悲しみと評するのは簡単だ。けれどあの時の気持ちは、今この部屋に覚えている感想と同じ。
静かで、虚しくて。前と変わらない。
もう動かないということは理屈では理解していた。ニュースでも物語でも人間はよく死ぬ。彼らには二度と会えない。死に別れるというのは悲しいことなのだと書いてある。
けれど心が動かなかった。
胸が張り裂けるような悲しみも反吐を吐くような憎しみもない。
ただ漠然と死んでしまったのだとだけ。
姉が死に追いやられたというのがどういうことなのかよくわからなかった。
自分は酷く醜く嫌な生き物だと思った。
鳩は時間を経て「人を追いつめるのは悪いことだ」と考えた。
笑いながら悪口をいう人たちをみると胃がむかむかした。
姉を忘れてしまったかのように談笑するクラスメイトに胸がもやもやした。
時たま姉がどれほど優しくて、いじめっ子たちが間違っているか熱論する先輩に出会うと、心臓は熱い血を通わせ、同時に呼吸がひっくり返るような気持ち悪い跳ね方をした。
多分、それは不快。
不快に思うことをみんなは『悪いこと』と呼ぶ。
悪いことはしてはいけないことで、やめさせたいと思うもの。
鳩も誰かが心を痛めることをするのは恐いことだと感じた。痛みが過ぎると死んでしまうのだ。
まだよくわからないが死は嫌なこと。だって、面白いとはちっとも思えない。
きっと、よい、とは思えないのは悪い、と同じ意味だろう。
何よりよくわからないというのはとてもとても怖かった。
しかし、ずっと姉の死について考えていていくつか疑問に思ったことがある。
いじめられていたのに、姉は家ではどうしてあんなに平然としていたのだろう。何もいってくれなかったのか。
つらい気持ちはたいてい顔や態度に出てしまうものらしい。両親やクラスメイトを見るとそう思う。
けれど姉がなくどころか怒ったところさえ一度も見たことがない。
成長速度が安定するまで定期検診以外ほとんど家を出たことがない鳩は、てっきり両親が特別なのだと思っていた。どうやら少数派は姉の方であるらしい。
クラスメイトがいっていた。恨みは残る。苦痛の人生を送れば最後に爆弾をしかけたくなるのが普通。
普通が一体どのような人を指すのかはわからない。けれど姉も人。
もしかしたら最後の恨み――遺書が残されているかもしれない。
一縷の望みを再び胸中で燃やす。休ませていた身体を再び立たせる。
墓荒らしのようで気分は悪い。しかしやらねばならない。
そうしなければ姉に何もできない弟のまま、姉のことを忘れていってしまいそうだったから。
意を決して机に手を掛ける。鍵は特にかかっておらず、どれも簡単にあく。
上からひとつひとつ丁寧にあけ、中身を確認する。
授業プリントがまとめられた棚。筆記用具がまとめられた棚。どれも実用的で、綺麗に使い分けされていた。
筆記用具は無地から柄、キャラクターものとデザインはまるでバラバラ。
そこから姉の好みのようなものは察することはできない。
プリントにも愚痴じみたラクガキは見つからなかった。どれも授業内容と自習した書き込みだけが淡々とまとめられている。
文字の大きさまできっちり同じサイズに連なっていて器用なものだと感心した。
何一つ見逃すまいと目を皿にして確認していたら二つ目の棚が終わる頃には肩が痛くなってしまった。目の奥のあたりに変な感覚がある。
小さな肉の小粒がごろごろしているような感じ。そこから全身に重力がかかっている気がする。
走り回ったわけでもないのに、どうして頭を使うと疲れるのだろう。
なんとなく眉間をつまんでもむ。三つ目の棚を開く。これまでとは様相が違う。自然と目が丸くなる。
「あった!」
なかにはいっていたのは色とりどりの封筒。
使用されていない封筒は相も変わらず統一感がない。
動物の写真がプリントされたもの、白く濁った半透明の紙に黄色い花模様が透けたように見えるもの。
いかにも適当に買ってきたデザイン。
問題は内容。明らかに手紙のたぐい。
宛て先はどれも同じ人物である。住所を見るにこの町には住んでいない。
このご時世に誰かと文通していたらしい。
「あの人友達いたんだぁ……」
学校で姉と特別に親しかった人間の話はきいていなかったから。今更嬉しい気持ちになった。
そして手紙。手紙である。
もしやこのなかに遺書が紛れ込んではいまいか。
遺書でなくとも友人であれば秘した胸の内を明かしているかもしれない。
「いいのかなあ、天国の姉さん怒らないかな」
他人にあてたメッセージをあばく無遠慮な行動。ますます気まずい。
迷った末、やめた方がいいという怯え混じりの声を「知りたい」という望みが上回った。
それでも極力見ない方がよいことに変わりはなく、まずは封筒を確認してみる。
「結構ある……相手は女の人、だよね?」
男の人だったら気が引ける。いたたまれない。
手紙は数えたところ二十七通。最も古い消印は二年前の日付を示していた。
うち一通、宛て先も住所も何も書かれていないものがあった。
糊が貼られておらずのぞいている中身の角を恐る恐るつかむ。
あの穏やかな姉の荒々しい部分がここに書かれていたら。
そのなかにもしも家族――自分に対する恨み言も連ねられていたら?
自分はそれを受け止めねばならない。覚悟を決め、期待した。
幼い弟が求めたその言葉たちは、人生最後にしては短く、願い事としては長く。
『私が死ぬとするならば、それは事故です。
事故でしょうが、その原因が私にない場合もあるでしょう。
その時になってしまったら、その人達の罪を赦さないでほしい。
同時に、彼女達の心は許してください。罪を憎んで、人を憎まずといいます。
自分でも具体的に言葉にするにはとても悩んだのですが、私は特に彼女達を恨んではいません。
確かに頬を叩かれたり、いわれのないことで睨まれたりするのに、痛みを感じなかったかといえば全くなかったとはいえませんが。
ですが、人間誰しも欠点があります。同じように、美点も。
だから彼女達を許し、信じてあげてください。誰でも過ちを犯すのですから。
素直でない時も考え方の相違もあるでしょうから、時間はかかるかもしれません。
つらいことも私とは比べ物にならないほど多いかもしれませんが、どうかお願いします。
責苦をその人の善性のために与え、相手の人生に責任をとれる人だけが怒ってくださいね。
傷づけることも優しくすることも、すべて人間が自分を含める人間という同胞を愛しているからこそ起きることです。
無責任にお任せすること、大変申し訳なく思います。』
とても丁寧に、細い字で綴られた文面。プリントの書き込みと同じ字。
咄嗟に思う。つまりごまかしようがない本音。
『人が善すぎて気持ちが悪い』
生まれて初めて姉を理解したうえで恐れた。
ずっと彼女を見続けていた少年には、手紙が一片の偽りもない本心だとわかってしまった。
受け入れがたい存在と一瞬でも認識した己の吐き気がこみあげる。
優しさの塊のような少女は、親友を労わるかの如く気を遣い、己の死より善性を求めた。
「なんなんだろう、この人」
机には毎朝花瓶を置かれ、教科書には落書きされて、ねちねちと悪口を言われて。
よくドラマであるような陳腐で、だが確実に傷つく方法で、散々に傷つけられたはずなのに。
こんなに優しい人間がいるなんて困る。自分が最低の生き物に思える。
疑問と怒りが歯止めなく浮かぶ。胸元を掻き毟って心臓を抉り取ってしまいたい。
悲しくはない。でも、こんなに苦しいのに、どうして彼女はちっとも嫌そうにしないのだろう。
嫌なことをしてくる彼女たちがこんなにおかしいと思うのに、嫌なことをしない姉にこんなに怒っているのだろう。
もしも逆の立場だったら? 彼女も同じように悲しんでくれた?
想像できない。
むしろ、自分の死と同様にいっそ異常なほど淡泊に反応したっておかしくないだろうと更に酷いことを想ってしまう。
少年は彼女をよく知っている。故に理解できたが、わからなかった。
少年には 彼女のことがわからなかった。
これが優しいというのなら、優しさとはいったいどういうものをいうのだろう。