エピローグ
白河 鳩は、喧嘩もなにもしていないはずなのに一週間入院することになった。
目覚めるとリノリウムの床に白い天井。四方を囲むシンプルなカーテン。
いつかのような光景に出てきたのは、驚愕よりも呆れだった。
――意外とぼくは無茶ができる性格なのかもしれない。
悩むばかりの情けない性格が嫌いだっただけに、少し嬉しくなる。
もっとも両親や医者にはこっぴどく叱られてしまった。
虎斑の通報から緊急搬送、迅速な手当てを行ってくれた五十嵐医師のとりなしのおかげで、説教は途中で切り上げられたが。
「あんまり根掘り葉掘りきくのもつらいでしょう。これだけやるにはそれなりの事情があったのではないですか。鳩くんは満足なのでしょう。せめて今はそっとしておくことです」
「でも、また同じようなことがあったら……」
「では事情はわたしがうかがっておきます。相談相手ということで。よろしいですか?」
どうしてそこまでしてくれるのかわからない。正直、今の鳩では彼が何を考えているのか怖く思う。
だが、おかげでエンデュミオンの面々や幸谷の一件は知られずに済んだ。
無理矢理関係を断たれることもなく、安心して休むことができる。
そして入院三日目。時折こみ上げる頭痛・吐き気に悩まされるものの穏やかな日々を取り戻し始めていた。
窓から差し込む暖かな光が心を穏やかにしてくれる。
正直病院食はいまいちだが、看護師は優しい。
精神にいいからと面会も許可されている。
目が覚めて以降は、坂野が持ち込んだらしい大量の小説を少しずつ読み進めている。
虎斑が突然扉を開いて部屋に入ってきたのは、「星の王子様」を読んでいる途中のことだ。
「やあ! 思ったより元気そうで何よりだ」
「虎斑さん! 来てくださったんですか、おかげさまで……」
「おかげさまじゃないよ、全く! すごかったんだからね!」
途中で遮られ、わざとらしくいじけられる。
たった数日でも随分懐かしく思えた。ほっこりとした気分で微笑んでいると軽くデコピンされる。全く痛くない。
「一面血の海だよ。わかる、血の海。幸谷さんち、まだ鉄の臭いとれないってよ……」
「それは……本当にすみません。血って薬剤で落とせたりしないんでしょうか」
「そこじゃないんだよなあ、そこじゃあ」
虎斑は踊るようにベッドわきの丸椅子に座る。
そして手提げから小箱を取り出す。何かと思えば、その小箱から林檎を出した。
器用にくるくると林檎の皮を剥きだす。
「一度やってみたかったんだよね、コレ」
「はあ」
「ところで虎斑のお話、きくかい? ここ数日結構ゴタゴタしてたんだよ」
「……うかがいます」
あっという間に一口サイズに切り分けて、小皿にもってからつまようじをさす。
彼女の口はよく回る。林檎を鳩の口元に差し出しながらも話し始める。
「まず幸谷くんね。彼女、起きたあとで桃岡くんのところに謝罪に向かったそうだ」
「え、あの桃岡さんに?」
「そう、あの桃岡くんに。当然桃岡くんブチギレて仕返し宣言。その場では周囲に取り押さえられてたから事なきを得たけれど、そのうち退院するからねぇ」
さしだされるまま林檎を咀嚼する。
程よく冷やされておいしい。しゃりしゃりとかみごたえも楽しかった。
一体どうやって冷やしたのだろう。箱のなかに氷でも入っているのだろうか。
「そして多くの人の前で罪を告白したことにもなる。その後の話は聞いてないんだけれど、殺人未遂で家庭裁判所に送致されるのかな」
「刑務所に行くんですか」
「少年法があるからなー。一応情状酌量も入るだろう。問題は世間の目かな。野次馬はうるさいぞ」
事情に深く関わらない立場の人間が、どれだけ身勝手か。
それは身をもって知っている。
「ぼくは見捨てません」
「だろうね。虎斑もそのつもりだよ、悪い子じゃないのはよくわかったから。あと聞きたいことは?」
「坂野さん……エンデュミオンの皆さんは?」
「あっちは結構強か。幸谷くん、刺した理由はわかっているけれど真木さんが《天使》だっていう確信はなかったみたい。まあ知ってても明言を避けたのかな。特に問題ない」
「強か? 真木さんが何かやったんですか?」
あの考えているようで考えていない、肝心なところで間の抜けたくだりを思い出す。
虎斑はおかしそうにクスクス笑う。
「なんでそこで真木さんが出るんだい。坂野さんのほうだよ。下手に異能を使ったら同じようなことが起きるかもしれないから、会員制に変えたんだ」
「カイインセイ。メンバーを限ったんです? それは、また」
「あと客が直接押しかけるのを避けるために、ネットを使って予約制にして指定場所に赴く形式にしたそうだ」
「……随分様変わりしましたね……」
「こういう思い切り、すごいと思うよ。思い切りがいいのは素敵だね」
鳩がのんびりしている間に、確かに事態は急変していた。
そわそわと動きたくなる。しかしこれ以上両親を心配させたくない。
まずは体調を整えねばならなかった。
「ああ、そうそう。思い切りってところは君のことも好きだよ」
「えっ」
「で……今回、君はどうだった? 君の知りたかったことは知れたかな」
どうにもからかわれている気がしてならない。
最後の林檎を頬に突っ込まれながら、少しだけぶぜんとしてしまう。
ゆっくり咀嚼して、口を開く。その間、ずっと虎斑は微笑んで彼を見守っていた。
「最初は姉さんのことを知りたくて始めたことですが。いつのまにかよく知っていた気がします」
いつのまにか、というよりは。やはり元々知っていたのだろう。
彼女が何があればどう行動するのか。そこに鳩はまるで疑問を抱かなかった。
ただ何故そんなことができるのか、それは正しいのかがわからなかった。
今にして思えば、心を度外視したやり方が受け入れられなかったのかもしれない。
それがわかったから、虎斑に会ったばかりの頃の疑問は解消されたといえる。
「知っているというのは、もしかしたらどれだけその人を言葉で表せる、ということではないのかもしれませんね」
この人だからそうするのだと、どれだけ受け入れられるのか。
いわば信頼だ。
形で表せないだけに、難しい。
「では満足したのかな」
「今は満ち足りた気分です。でも、気になることはあります。
虎斑さん。優しいとはなんなのでしょうか」
叶えた望みは半分だけだ。
結局鳩はそこたどり着けなかった。
ぎゅ、とシーツを握りしめる。
「人それぞれじゃないかな。幸谷くんなら自己犠牲。桃岡くんなら都合がいいことだというかもね。虎斑であれば、そうだな。愛情をわけることか」
愛。尊いと呼ばれるもの。
あまりに広く素晴らしさが認められたために、陳腐ともされるもの。
流石の虎斑も少し照れるのか、頬が赤い。
「成長させるために冷たく振る舞い、折れそうなものを支えるために身を呈す。相手を我が身のように慈しむ。ほら、愛だろ」
「それは自己犠牲や偽善と……いえ、そうですね……そうだといい」
誰になんと言われようとも何かがしたい。
鳩もそう思って決断した。優しさかはわからない。少なくとも悪意ではなかった。
実際に目的が何であったとしても、善は善。
佑という人間は受け入れがたいが、その点においては心より敬愛していた。
「いやいや。これは虎斑の答えだよ。人から聞いて納得したものは偽物だなんてトンデモを抜かす気はないが、大丈夫か?」
大丈夫か。鳩の人格そのものを心配する響きに、初めて会った日のことを思い出す。
なんでもかんでも鵜呑みにしていた頃。あの時の自分なら、抱えきれない理屈を無理に飲み込もうとして窒息していただろう。
「いえ、大丈夫です。ぼくは人間が好きですから」
「へえ」
「好きで人に優しくしたいと思っていますから」
好きだと思う人がいた。
虎斑、坂野、両親。
嫌いだと思う人がいた。
桃岡、クラスメイト、ちょっと真木。
どちらともいえない人もいた。
幸谷。……佑。
先輩《天使》の真木は、きっと鳩よりも長く生きて、人間を信じることを諦めた。
愛したくても愛されなくて、言葉を交わすものだけを信じている。
きっと彼は友達は好きでも、人間は嫌いだ。
違う道を歩んだ自分のようで、哀しい気持ちになる。
だから、そういうものがいるのなら鳩は人間を好きでいよう。
自身がそうしたいと望む限り。
自分が何を望むかを知る。
そうだと確信するとまるで自分が何者であるかも知っていくようだ。
決意とともにめぐる熱い血が、何より鳩を幸せで満たす。
真っ白なシーツのなか、優しい夢が産声をあげた。




