第十五話 身勝手な隣人
クリーム色の世界を鳩は歩いていた。
はっきりいって息苦しいことこのうえない。息を吸えば、吐き気とまではいわずとも胃がひっくり返るような心地がこみあげる。立って頭をあげれば頭痛がする。
「上は洪水、下は火事……そんなこと言ってる場合じゃないか」
泣いていると思っていた彼女の強い拒絶に、罪悪感で胸がいっぱいだ。
自分の冗談に、昔、火災訓練をできる施設にいって、匍匐前進の練習をしたのを思い出す。
ハンカチで口をおおい、早く出たいと思いながら通路を這いずった。
苦しいならさっさと立ち上がってしまえばよいのだが、通路に満ちた煙がとにかく甘い。
その甘さに鼻がマヒして、胸やけがする。吐き気と頭痛の原因だ。
煙は高い方にいくから、動きやすい体勢であるほどつらい。
「さっさと終わらせよう」
つらいことにはつらいのだが、覚悟が決まると不思議なほど腹がすわった。
現実世界の自分の体はさぞひどいことになっているだろう。
どうせ幸谷は鳩の手をはじく。
夢が混じった時に少しだけ、彼女が抱いた佑への思いを見た。
汚い自分より美しい誰か、という感情は、わかる。
しかし、鳩は幸谷を消えた方がいい人間だとは思えなかった。
「あーあ、気が重いなあ……」
どことなく、どちらへ行けば彼女に会えるかはわかる。
普通に歩いているつもりなのに、靴の裏が地面に触れてガリガリと嫌な音を立てた。思ったよりきちんと足を浮かして動かせていない。
相手を苦しめることになる、そうわかっているのに進むのは苦痛だ。
うまい具合に予防線がはれまいかと小細工を弄す、「少年の日の思い出」の気持ちもわかる。
霧の深い方へ進むと反対に真木の声が遠のく。
――今度は余計なことにとらわれず、やりたいことをしよう。
目の前が見えないほど深い霧にたどり着く。
甘い香りが鼻の奥まで満ちる。限界も限界。いっそどこまでいけるか面白くなる。
自棄という自覚はあった。
だが、自棄のちからでも借りなければ動けないほど、鳩は未熟だ。
「えい」
霧の一番濃い場所で、適当に腕をぶんまわす。
すると指先に何かがひっかかった。すかさず全力で引き寄せる。
願った通り、引きずり出したのは幸谷の華奢な体だった。
覆い隠すように左腕を額にくっつけている。
「幸谷さん! 帰りますよ!」
「やめて、話して」
いやいやと首を振って逃れようとする彼女の腕を必死に掴む。
まだ『白河 佑』で上書きしてしまっていない、彼女の核。
意志をどれだけかたく保ちやすいかといえば、当然幸谷の方が有利だった。
振り払われるたび、ぐわんぐわんと目がまわる。
「ききません、帰ります」
「なんで、どうして? 私よりあの子が生き残った方がいいじゃないの」
「そんなことは知りません」
どちらの方がいいとか、悪いとか。鳩が価値を決めることではない。
もしかしたら幸谷が言うことの方が、誰かにとっては正しいことなのかもしれない。優しいことなのかもしれない。
しかし、幸谷がその幸福を望むのと同じくらい、鳩も強く拒む。
「誰かが追いつめられて犠牲になった幸せを、喜びたくなんかない」
根底から決意を否定する。
隠していた顔が、首を振った拍子に横からちらりと見えた。
ひゅっと情けない悲鳴をあげそうになった。
顔が、ない。墨で塗りつぶしたように真っ黒だ。真っ黒なのっぺらぼう。
生理的な恐怖に襲われ、激痛が肺のあたりを貫く。
「喜んでやるもんか」
――それを喜んではいけないのだ、そのために連れ出さなければいけないのだ。
己の信じることを何度も繰り返し、自我を保つ。
一方、願いを否定された幸谷の見えない顔は歪む。
「姉は自分から犠牲になった。あなたは他の道がいやだからそこに走っただけだ。感情を度外視したあの人と同じ生き方は、あなたにはできない。向いていない」
「やってみなきゃわからないじゃない!」
「ぼくもそう思います」
たとえ佑にならずとも、幸谷は幸せになれる。今すぐでなくても、自分を認められる日が来る。
そういう日が来ることだってありえるのだ。
足に力を入れて踏みとどまろうとする幸谷を、ひっぱって、ひっぱって、表の方まで連れ出す。人格の本来の主を思いだし、上書きされかけた人格が元に戻っていく。
波がひくような早さに幸谷は哀れっぽい悲鳴をあげた。
「どうしてもここに居ることは許してくれないの?」
痛みをもろともしない鳩に、ぐすぐす鼻をならす。
「いいえ。あなたは許します。ずっと前に許しています、こうして後悔してくれたから、許しています。だから、あなたを否定することを許しません」
なんとか鳩が夢を見始めた時にいた場所まで戻ってこられた。
上を見上げる。そこには何もないが、視線を感じる。一時は消えていた刺々しい視線だ。
《しばらく待て。ここまで来ればなんとか引きずり戻せるから。……多分》
また余計な一言がつく。あれこれいってもどうしようもないのだ。
鳩はため息だけついて待つ。
その間に周囲を見渡してみた。
どうして彼女はこんなに自分を拒むのだろう、と不思議でならなかったから。
もう見たくない世界、彼女の世界。これからも幸谷 雪代がとどまり続ける世界。彼女のための檻。
「……この世界は、きれいですね」
「そんなことない。私の世界だもの」
即答されると鳩も戸惑う。
意識が混ざりかけた時にのぞき見えた記憶を思い出す。
自分が嫌いなのは知っている。
鳩も自分が好きかといわれたら首をかしげてしまう。
今の鳩には彼女にどういう言葉をかければ、元気になってもらえるのかわからない。
「ぼくは、きれいだと思いますけれど。嫌いなら、せめて好きなものをおくぐらいはできないのでしょうか」
人間は変われるという言葉がでかかったが、それでは人格の書き換えを肯定しかねない。
あいまいともとれる励ましを送り、ぼんやりした光を放つ電柱を見やった。
そこから本来の彼女が構築した世界を。
上書きした『白河 佑』が消えたせいか、世界は無機質に眩しい黄色を失っていた。
残ったのは灰色の空。鉛筆で塗ったような壁。霧はクリーム色から、深みのある白に変わっている。
世界を彩りそのものは極端に少ない。
だが、改めてじっくり見ると、黒と白だけでこんなにも様々な色合いがあるのかと驚いた。
加減を間違えればたやすく崩壊する繊細なバランスだ。
影の形も雲の動きもわかる。柔らかさと硬さの違いさえ理解できた。
「こういう世界も大事だと思うんです」
静かに落ち着ける、優しい世界。
迷い傷つくものの心だ。
「好きな、もの?」
しどろもどろな鳩の話を受けて、幸谷は初めて聞くように戸惑う。
あげられた面には幸谷の顔がついていた。戻ってきた瞳を白黒させて、不安そうに細い体をかき抱く。
「……わからない」
「そう、ですね。すぐっていわれても、難しいですよね」
「考えたことないもの」
「はい。ぼくでよかったら、一緒に考えますから」
天高くそびえていた建物の輪郭が揺らぎだす。
目覚めのときだ。
夢をあらわしていた線が解け、黄金の粒子となって満ちていく。
暁のような強烈な光に、とてもではないが瞼を開けてはいられない。
鳩は塞がった視界のなか、二の腕から強張った指に触れた。
やや強めに冷たい手を握る。幸谷の存在を確かめる。
あなたを支えようという人間がここにもいるのだと、わかってほしくて。
「だから、もう少しだけ。待ってください」
答えは出ない。鳩は自分が正しいと思ったことをしただけだ。そして、それだけは絶対に真実なのだ。
思いが伝わったのかどうかは、目に見えなかったからわからない。
ガラスが砕けるような甲高い音とともに、ついに鳩は夢から追い出された。




