第十四話 心ない美徳
これは過去の夢だ。
幸谷が誰より憧れた彼女の話。
幸谷 雪代は、とにかく疑り深い性格であった。
例えば人形遊びがしたいときにぬいぐるみを貸し与えられたなら、裏があるのではないかと疑う。
遊びに誘われれば、自分を盾にするつもりなのではと疑う。
人助けを見たならば、欺瞞なのではと疑う。
質が悪かったのは、自身の疑り深さを幼い頃から自覚していたこと。
彼女の道徳は、他者を疑うことは恥であり悪だと訴えた。
ほぼ物心ついたころから、ずっと幸谷にとって自身は憎むべき悪だった。
自らの心の在り様を恥ずかしいと思い続けてきた。
そんな彼女が明るい笑顔を振りまくことなどできるはずがない。
陰気、臆病、卑屈。
そう断じられ、いわゆるいじめっ子となるのも当然であり、仕方がないと享受した。
痛みに叫ぶ心の隅で、これは悪への罰であると、自責の念に拍車がかかった。
――きっと一方的にそうではないと否定するだけで、誰も理解してくれない。
お前はバカだといわれるのが怖くて、いえなかった。
秘めつづけた本心を伝えたのは、彼女、白河 佑ならそうしないと確信できたからだ。
これは他にないことだった。
「悪は許されないと思うのは、正義ではないの?」
芝居のような言葉も、佑がいうとさまになっていた。
さまになっていた、というよりは、世間の型にはまらない、というのが本当だったかもしれない。
その日のことは幸谷にとって大切な記憶として残っている。
だけれど、その日の空模様はどうだったかとか、寒かったとか暑かったとか、どこにいたかなんて少しも思い出せない。
ただ、念入りにとかされた栗色の髪、こちらをそっと見下す大きな瞳だけが強烈に焼き付いている。そして、その言葉。
「どう、なんだろ。それを決めるのはわたしじゃないよ」
心の隅で佑が「あなたは正しい」といってくれることを期待した。
自らで自らを誇るのは、恥知らず。
情けないと思いながら救いを求める。だが佑は「そうなの」と素っ気ない。
「正義は誰かに認められなければ成立しないと。なるほど。別段、信じることをするだけなら他人など気にしなければよろしい。でも、正義となればそうもいかないものね」
「そういう意味じゃ、ないんだけれどな……でも、その」
もじもじと指先をあわせ、意味もなく手遊びをする。
佑は首をかしげ、無表情に幸谷を見つめた。
鳥肌が立つ。頬が火照る。周りがどうとか気にする余裕はなかった。
「あなたは、助けてくれた。私にとっては正義で、ヒーローだよ」
現代、それも年頃の少女にそれが褒め言葉になるのかはわからない。
ちらちらと横眼で見ても、表情がよくわからない。
そうだ、彼女は立っていて、自分はベンチに腰をかけていて。自然と佑は幸谷を見下し、幸谷は佑を見上げる格好になっていた。
傍から見てそれはどう見えただろう。
しばらく無言を貫き、珍しく歯切れ悪く口を開く。
「恐らくわたしは、そういうのでは、ない」
「でも、わたしを助けてくれたし」
「あなたが助けられたというのならそうだと思う。でもわたしにはそんなつもりがなかった」
「言っている意味が、よく……」
いじめられている少女を庇う。身代わりすら申し出て、巻き込まれても恨みを向けない。
聖人君子などいない、と桃岡はいった。
だが、ここにいる。
心からの感謝は、佑の表面をつるりと滑った。
「あなたはわたしに秘密を明かしたわね。では、わたしもひとつ明かしましょう」
赤いプリーツスカートをおさえ、ゆっくり隣に腰をおろす。
清らかで、うっすらとした花の芳香が鼻先を撫でた。
「ヒトが精神に受ける影響には、プラスとマイナスがある」
「……え?」
歌うように。流れるように。柔らかな白い唇は動く度にふにと歪む。
無機質で透明な瞳は、一瞬あらゆる疑惑を忘れるほど、すっきり胸の奥に突き刺さる。
「虫は犠牲になる個体を作ることがある。
生きる為。素晴らしいと判断するあたまはない。
人は有益か不利益かを正義のように語る。苦痛を生まないこと、犠牲を出さないこと、すなわち優しさだと。
でもどうだろう。美しい、あるいは醜いと語られる正義の正体はどこかしら。基準となる素晴らしさというものは心のなかにしか存在しない。
犠牲になることを賛美する人間がいれば、憎む人間もいる。無理矢理犠牲にする者、される者がいる。
人間は意味を理解し、見出す。生まれてしまったものは消えず、あぶくのように弾けるのを待つ。
容易くうつろい、絶対の価値を持たぬものを精神と命の柱へかえてしまう。
まるで血管のように行動に意味を張り巡らせて、オリジナルの生き物をつくりあげていく。
何がどういう価値と意味を持つか。それは本当に各々で違う、多様だ。
自分。自我。私。それがそうであると信じ、感じるこの世にたったひとつのあたま。
それが人間。
思考と経験を経るうちに、血に魂を溶かしていく。血が通うとはそういうこと。
わたしは一体何を考えて、何を信じる?
矛盾を抱えた、柔軟だからこそかたうるしい生き物。ヒト」
ひたすらに意味を問う声。
嘆きはない。純粋無垢な疑い――己の目指すところを問う、悪のない響き。
疑っているのに、美しい。『何故なのか』。
幸谷はその一瞬に魅せられた。
「わたしはいつもこんなことを考えている。ばかなのよ」
「ばか……なの?」
「ええ。多くの人はこんなことを考えなくても生きていける。でも、わたしは違う」
「まあ、仕事に就いたり、いい成績を出すのに、それはいらない……のかな」
「命を維持するだけならそれで十分なの。でもわたしは生きたい」
考えて、意味を見出し、優しさという価値を必要とする。そういう生き物に生まれたのなら、そう生きてみたい。
いつも冷静で穏やかな彼女の『言葉』を初めて聞いた気がして、胸が高鳴る。
「前に弟がいるといったでしょう」
「ええ」
「彼は《天使》でね。見るうちに思ったわ。わたしには人を助けられない、それができるのはこういう生き物だって」
「えっと、どういう意味?」
「人を助けるっていうのは、寄り添って支えるということなのよ。わたしには計算しかできない。できないことがあるのはわかっている。なのに、困難を感じても、苦悩を覚えない」
自分は今、とんでもないことを聞いているのではないか。
幸谷はそう思い、覚え始めた高揚に一粒の氷塊が落ちる感覚を味わった。
何故なら、わからないとさえずる口、その声音は相も変わらず一定なのだ。
興奮に声をあらげることも、悲しみに沈めることもない。
「ヒトが精神に受ける影響には、プラスとマイナスがある。プラスが大きいと満足し、マイナスが大きいと活動が停止する。プラスは喜び、マイナスは悲しみと呼ばれる」
「それ、さっきの?」
「ええ。わたしは人の感情をそういうものだと思っていた。だからマイナスが大きくなったらプラスを足せばいい。それが優しさ。共同体というシステム、自分と他人はその歯車だと考えれば、筋が通る」
意味がよくわからないといった部分を説明してくれているのだとようやく察する。
あれは助けたのではない。ただ、マイナスが大きすぎたから、プラスを足す作業をした。
他の誰もやる様子がなかったから、仕事を代替わりしただけなのだといっている。
「人助けという、作業?」
「違う。足りない部分は埋めて、多過ぎるものは削る。形を整える。死んだら止まるから」
「…………」
「人間は、天秤でもなければ、ひとつの線のうえで中身を測れるものでもない。縦もあれば横もある、もっと――立体的な……」
その時はわからなかった。
わからなくて、拒絶した。
桃岡にいじめられていることを知りながら、助けなかった。
二人でいたなら、助け合い守りあうことができただろうに、やめていた。
その結果、唯一無二の人を失ってしまったのだ。
佑は優しくはない。合理的だっただけ。
だからといって死んだ時に悲しまなかったわけがあるだろうか。
たとえ本人が否定しても、善行は善行。
紛れもない希望だった。
生きたい人が死に、死ぬのを恐れていた人が生きる。
なんという理不尽。なんという悪か。
ある日、幸谷は自分の夢がどんどん深くなっているのに気が付いた。
真木が見せてくれる明晰夢とは違う。
しかしそこは幸せで、ひどく曖昧ながら自由に満ちていた。
自分のような悪は、どうでもよい。
あのまばゆく美しい優しさこそが生き残るべきだ。
夢を通じて、足りない『白河 佑』をかきあつめ、成り代わる人格を創った。
だが、その前にやらなければいけないことがあった。
幸谷が最も憎むもの。桃岡 菜那。彼女にだけは深く鋭い痛みを与えたかった。
死ななくていい、ただ、苦しんで欲しかった。
それは『白河 佑』では絶対にできないことだ。
夢を使うことで幸谷は理解してしまったことがある。
恐らく、佑という少女には、感情がなかった。
道理を理解し共感や否定を行う知性と理性はあっても、人に寄り添って喜怒哀楽をふりまく感情たちがなかった。
悲しみ、怒り。負の感情も。喜び、楽しみ。正の感情も。
だから『白河 佑』になった後では、桃岡に痛みを与えることはできない。
最初で最後の悪意を今こそ使おうと、晴れ晴れした気持ちで桃岡を刺した。
わずかに『白河 佑』を再現した状態で襲いに行ったのは、怒りから。
あれほどひとに執着していた佑へのはなむけに、彼女として、ひとらしい感情で復讐したかった。
何も矛盾はない。
蘇らせた『白河 佑』は幸谷が自らを捨てたいと願った結果。完全な彼女は有り得ない。
弟の白河 鳩さえ探ったけれど、感情のない人物から佑を集めることはかなわなかった。
彼女以外の人間は多かれ少なかれ、感情をもって人をみる。
だから、我が身を削ることを恐れる感情を持ち合わせないことだけを目指す。
そうすれば、もう何も怖がらなくていい。
自らを憎む疲労からも解放される。
周りも、助けられはしても助けはしない存在を喜ぶ。
みんな、幸せになれる。
なのに。
なのにどうして、彼女の弟であるはずの彼は、幸せを壊しに来るのだろう。
――やめてくれ。
幸谷の夢に入った彼。
感情のひとつやふたつ、彼が隠そうと思っても流れ込んでくる。
そこにあるのは悪意への怒り、ひとへの憐れみ。
だめなのだ。
元より弱くて臆病な幸谷には、どちらも危険すぎる。
帰ってくれ。そう願った。だめなら眠ってくれ。そう思った。
自我を失う危険はあったが、苦しみから解放されるならそれはそれで善行だと考えた。
それなのに、また立ち上がろうとしている。
自分と同じ、沢山迷い、あまたを疑い、多くを憎み否定するくせして。
鳩は佑とは違う。
頭を抱え、形を取り戻そうとする鳩を拒む。
その度、外から声がかかって、彼を立ち上がらせる。
慈悲ではなく、役目のためだとしても。目の前のものが失われることを惜しみ、手を出すことがなすべきことと信じている。
――ずるい。うるさい。そっとしておいてよ。
どうしてわかってくれないのか。
幸谷に優しくしてくれるというのなら、そうして欲しかった。
聞かぬとばかりに、容赦なく手を差し伸べようとされても、困る。
わがままな願いに怒るように、優しく迫りくるのが怖い。
怖くて怖くて仕方がない。
身勝手さに満ちて、徹底的に拒まれて、鳩にとって悪夢でしかない場所を――ただのひとが、くる。




