第十二話 夢見心地で投身自殺
――ヒトのあたまは小さいけれど、そのなかには地獄だってつめられる。
――心、知性、欲。
――形もなく、非効率で、抽象的なものにどこまでも価値を与えられる。
――そう、ヒトの、あたま。
――ねえ、伝わっているかしら。
――幸谷さん。
○
幸谷の家に行く約束をした日の朝。鳩は妙な倦怠感とともに目を覚ました。
懐かしい声を聴いた気がするのだが、誰であったか、どんな言葉であったかも思い出せない。
身体を起こそうとしたが力を入れるのが面倒くさい。
肩に柔らかな重りが乗ったようだ。
「だめだ、こんなんじゃお昼過ぎまで寝ちゃう……」
無理矢理に体を叩き起こす。
誘惑に従えばダラダラと寝過ごしてしまうのがお決まり。のそのそベッドから這い出しさえすればどうとでもなる。
万が一にでも遅れないように前日から用意しておいた服に着替え、手早く準備をすませた。
鳩にとってはありがたいことに、今日は両親ともに仕事が入っている。
パートの母は夕方には帰るだろうが、父は夜まで帰ってこない。
適当に昼過ぎまで極力リラックスして過ごした。
気合いを入れて家を出た。待ち合わせ場所は前に虎斑といった喫茶店。真木と坂野もいたが、喫茶店前で二人が虎斑の隣にいると妙な光景に思えた。犯罪臭というやつだろうか。
合流した彼らとともにたずねた幸谷家は、どこにでもある小奇麗なアパートの一部屋だった。
「どうぞ」
かすれ声で出迎えた中年女性は、伏せがちな瞳が幸谷によく似ていた。
彼女の母親だという。シングルマザーで、娘は心配だが面倒事も困るという事情らしい。
目の下にはくまがあり、少しやせぎすなのが心配になる。
けれどそれは仕事の疲れらしく、娘に関してはそのうち起きると楽観していた。
このいっそ幸福なまでの楽観が娘にも備わっていたなら、図太く生きていけたのかもしれない。
「いったいどんな夢を見ているんだか。ここまで深く潜られたのは初めてだ」
自室で敷布団に横たわる幸谷の額に手をあてた真木が参った調子で舌を打つ。
レースのカーテンがかけられた部屋は日の当たりにくい位置にあり、電気がついていてもほの暗い。
ぬいぐるみが何体か放られて、艶めいた黒い瞳を持ち主に向け続けている。教科書が机のうえに乱雑に積み上げられていた。それ以外は綺麗なものだ。
母の部屋にも似た、生活感のある少女の部屋だ。
物珍しい気持ちで部屋を見ていると急に真木が振り返ったものだから、心臓がはねて視線を右往左往させてしまう。
「なんだよ、挙動不審な奴だな」
「す、すみません」
自覚はあってもぐっさりと胸に刺さる。
真木はそれ以上気に留める風もなく、崩した足を正座に変えた。
「仕方がないからあんたをこいつの夢に送ってやる。何かあったらすぐに暴れろ、感情の大きな波は大体伝わってくるから」
「わかりました。真木さんの夢は便利ですね」
一言だけ返すのが気まずくて、余計なひと言を付け足してしまう。
今までの様子をみれば、決して気持ちの良いものばかりをみてきたわけではないぐらい予想がつくのに。
案の定軽く睨まれた。
「ふん。まあいい。俺のは異能だから普通の夢とは事情が違うかもしれねえ。だが前にも言った通り意識的に考えるのと違って気づきたいことにも気づくことがある。いやがおうにでも答えに直進するっつうか」
「心配してくれるんですか?」
「なんで俺が客でもないあんたの心配しなくちゃいけねえんだよ。責任とるのはごめんだからな、様子は見ててやるから無理しやがったら訴訟起こすぞ」
今までになく余計な敵意がなかったから調子に乗れば、すぐこれだ。
空疎な笑いが漏れる。
これ以上会話してもお互い気まずいだけ。
真木がもってきたクッションに頭をのせて、幸谷の横になる。
口元に耳が近づいて、薄い呼吸が鼓膜をゆらす。ほんの少し安心した。眠った人間の姿は苦手だ。
瞼をおろす。
次に鳩の意識を揺り動かしたのは猛烈な吐き気だった。
柔らかな脳みそを直接撫でられたような不快感がある。
臓器の位置が入れ替わったような違和感がある。
立ち上がるのすらおっくう。なんとか踏ん張って立ち上がったが、筋肉がぷるぷるとして気持ち悪い。
『調子はどうだ』
声なき声が脳裏に浮かぶ。その声に集中すると少し気分がよくなった。
返事をしようと思ったが言葉を選ぶ前に新しい声が届く。
『なんだ、変な夢でもみたのか? 調子がおかしい』
元より他人の夢で日常的にふるまえるとは思っていない。調子が悪いのは当たり前である。
『そうかよ。それにしても想像以上に食い違いがひどいな。あんまり考えるなよ』
考えるなよといわれても。
しかし思えば他人の夢のなかにいるのだ。
最初から真木のようにうまくいくとは限らないとはわかっていた。
おとなしくぼうっと座って待つ。
外から調整してくれたのか、周囲を観察できる程度に気分がよくなった。
それでもひとつひとつを見極めようとするとめまいが襲う。
『実在してるわけじゃねえんだぞ。夢を見ている本人すらディティールをはっきりみない。夢の中でそんなものを気にするか?』
他人の無意識をのぞくことによって起きる食い違い。
喉元過ぎれば熱さを忘れるとばかりに同じことを繰り返す鳩に、彼が嘆息を向けた気がした。
今度こそ素直に、周囲のありのままを受け入れる。
幸谷の夢の中。そこは簡潔にいえば、霧のような世界だ。
足元は白いもやの糸が伝い、どこを見ても生ぬるい白霧が満ちている。
建物が霧に影を映していることから野外であると予測した。
『どこにいけばわからないって? そっちにあるだろ』
なにもみえない。
『俺からははっきり道が見えるんだが……待て、こっちだ』
とたん光がさした。光量は増して、やがて丸い電球を頭に乗せた電柱をかたどる。
照らされた場所の下にはコンクリートで舗装された道路に似たものがのびていた。
なるほど。示された道を進む。道ができてはいいが、わけてもわけても電柱と霧、コンクリートでできた光景が変わらない。
首を横に傾げる。不安が鳩をおおう。
――幸谷さんの夢なのに、彼女の姿も声も見えない。どうすればいいのだろう。
夢の主を求める言葉がきっかけとなったのか。
ぴんと脳天にくるものがあった。
さながらアンテナにピンポイントな電波があてられたような、すっきりとした感覚だった。
何かがやって来た方向に顔を向ける。
渇いた冷たい風が頬を撫でた。後ろから怯えた調子の生温い風が押してくる。
正面と背後。両方から風に板挟みにされて一気に動きにくくなってしまった。
――こっちにいるんだな。来てほしいのに、それが許せないんだな。
理屈をふきとばして幸谷の感情がしみこむ。
からからで剥き出しの胸に、隙間風があたって痛い。ひりひりとしみる。
足をもつれさせながら、一歩一歩踏み出す。
今度は案内がなくても行く先がわかった。
『おい、急に近づきすぎるな』
警告がとぶ。電灯の灯りがちかちかと瞬いて、道が現れたり消えたり。霧は濃くなっていく。
その向こうに影があった。無機物で直角で、決まりきった形を保つ建物ではない。
丸みのある影。簡単に傷ついてありのままを受け止めてしまう肉のからだ。力強く触れたら壊れてしまう華奢な形。
「幸谷さん」
「……鳩。白河、鳩くん」
彼女は彼の苗字を噛みしめて唱えた。
大事なものの包む響きに心が揺れる。だが影の黒い色はあまりに冷たくとげとげしい。
言葉を選ばなくてはならない。なのに言葉が出てこない。
この人のことを考えようと想うほど彼女との齟齬が大きくなり、痛みが突き刺す。
「白河くん。知っている?」
幸谷の姿は苦痛を剥き出しにしていた。心であるはずの言葉はいやに平坦。まるで感情が抜け落ちてしまったような、不自然に慈愛を詰め込んだような優しい響きに、ぞっと鳥肌がたつ。
「ヒトのあたまは小さいけれど、そのなかには地獄だってつめこめる」
「え?」
その言葉は、どこかできいたことがあるような。
「心は繋がるものじゃない。そのくせ、どうしようもなく繋がりの影響を受ける。誰かがよりそってくれるなんて甘い期待。わかってるの、気にしなければいいって。信じればいいの、わたしは間違ってないって」
でも、人のあたまのなかは地獄だから。簡単に熱くなって、外から入って来たものが信じられないくらい大量にゆだってしまうから。
知性で拒めるのに、受け入れてしまう。傷跡を残して、無様に苦しむ。
「佑さんのいったことがわたしには伝わったの」
「姉さんが――」
胸元で指をくみ、天に昇ったものに向けて祈りを捧ぐ。
祈りを捧げられた人物は、鳩自身何度も手を合わせてきた少女だろう。
違うのだ。
鳩は考えることを捨て、言葉を選ぶことを捨て、はだかの言葉をおくる。
「違う。そんなものはロクなもんじゃない」
「……ひどい」
「姉さんは正しかった。優しかった。それだけだ。あれはまともな人間の生き方じゃない」
いったい何が伝わったというのだ。
そんなものは鳩に伝わってこない。
たとえ意味を考えなくても、姉の生き方が鳩に伝えたものはひとつ。
あんな生き方は、吐き気がする。
「大好きだったんでしょう」
彼女にもまた鳩の感情は伝わっていた。
姉を愛おしみ、姉の生き方を憎む。鳩自身を苛む矛盾を理解できないでいた。
「嫌いだ。だって、姉さんはあなたのために平然と犠牲になったんだ。平然と悪意に憎しみを抱かなかったんだ。自分を抑えることすらしなかったんだ。だから、だから君は姉さんにすがらないで」
まずい、と知性の部分が警告する。これではまるで幸谷を断罪しにきたかのようだ。
姉を追いつめ利用した悪人としてなじっているようだ。違う、そういうことをいいたいのではない。
「あなたと姉さんは違う。だから、」
「違くないわ」
また冷たいものが背筋を伝う。
柔らかでいて有無を言わせぬ口調。一見相手の意見を尊重しているようで、最初から迷うことのないかたい決意。
鳩は生まれた時から何度もこの口調に言葉を失ってきた。
「わたしのせいで彼女は死んだ。これから生き続けても、わたしはずっと弱くて卑怯なまま」
「そんな気にすることじゃない、みんなが強く生きられるわけじゃ」
「あなたにとってはそうなのかもね。けれどみんなは強い人間が生き残った方が嬉しいでしょう。わたしだってそう。楽がしたいの。
罪悪感からも、自己嫌悪からも。皆が得をするのよ」
幸谷のなかの二つの意思が混じりあう。
それすなわち、幸谷本来の人並みに打たれ弱く臆病で善良な人格と。
彼女の思う白河 佑を模倣した意志が。
「ひっ」
気づいた途端、情けなく短い悲鳴をあげた。
鳩は人並みに臆病で繊細な人格の持ち主である。自分のことでせいいっぱい。自分の思考回路に悪が潜んでいないか疑いながら善を信じて行動してきた。
だから、自分を捨てて、他の存在で埋めてしまおうという行為に恐怖する。人間の心は、他人の意志を抱え込めるほど強くないと知っている。
それはもう自殺だ。
肉体の破壊で訪れる死よりもおぞましい、心の破壊だ。
――離れなければ。
ここにいるのは危ない。近づきすぎた。誰かの心に触れるのに、鳩の覚悟は甘すぎた。
もしも現実なら程よく距離を保てただろう。だがここは夢のなか。
今の鳩には幸谷の歪な心の中身がよくわかる。
ちぐはぐに組み替えられた内臓の状態。本来の機能を失いかけて死にかけた生の血肉。
鳩の思考が幸谷の意志を理解したのではない。
ただ流れ込んでいるだけだ。近くにある川と川の水が混じるのと同じで、境界線を失いかけているだけなのだ。
鳩は幸谷に背を向けた。向けようとした。
ここは幸谷の夢のなか。
彼女を拒絶した人間は、とてもでないがいられない。
夢のなかで鳩の「実像」が急に曖昧になった。と思ったら、現実の鳩が吐血した。
薄いTシャツにグロテスクな色がこびりつく。
隣でじっと様子を見守り、時折メモ帳に何かを書き込んでいた虎斑はそれを見るなり立ち上がる。戻って来た時には手に何枚かの布を所持していた。
「なにかあったのかい?」
真木はタオルを受け取り、血を拭う。虎斑は目を白黒させている坂野に比べれば随分と冷静に見えたが、一瞬触れた手はじっとりと手汗で濡れて、異様に冷たかった。
「夢のなかで幸谷に会ったんだが、様子がおかしい」
「そりゃあわかってるよ」
坂野のヤジがとぶ。苛立たしい。
「いいや絶対わかってねえ。プロローグから読み飛ばしてクライマックス読んでる気分だ」
「眠り続けている原因が予想外のものだったってこと?」
虎斑の質問を唸って雑多に肯定する。
正直、真木は今回のことを父親と同じようなことだろうと勘ぐっていた。
つらいことから逃げる為に、いやなことがなんにもない夢の世界に引きこもった。
「いやなことがあって逃げるのはわかるが、ありゃあ」
幸谷の夢の中で起きたことをわかる範囲で説明する。
幸谷は戦おうとしている。随分歪んだやり方で、自爆攻撃のような有様で。
鳩がうっかり足を踏み入れた領域は、今まで幸助も踏み込めたことがないような場所だった。
あんな領域があるのだということすら初めて知った。
一歩間違えれば意識が混ざり合って自我が崩壊するような危険な近さ。
普段の真木は無意識に適度な距離を測っていたのかもしれない。あるいは夢に干渉するちからがないからこそあそこまで迷い込めたのか。
「…………」
虎斑は真木の話を聞いて何やらペンを走らせた。
メモ帳をたびたびパラパラめくり、目で文字を追う。
吐血した瞬間、鳩の意識は沈んだ。他人の夢のなかで意識を失う。それがどんな結果につながるのか、真木にはわからない。
とにかく早々に手をうたねばならなかった。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけれど」
「なんだ」
「幸谷さんのなかに二つの意思があった、っていってたけれど、それってありえるの」
「今までこんなものを見たことはない」
疑似的な別人格を宿す人間はそこそこいる。しかし、仮定した別種の思考回路をもつ機械のようなものだ。いわゆる自己批判。自我ともいう。意思、意識は常にひとつ。
あるいは噂の二重人格ならそういうこともあるのかもしれないが……。
「分裂した、って感じじゃないんだよ。まるでどこかからもってきて、無理矢理形にしてるみたいな」
異能をもつ真木独特の感覚で、うまく説明しにくい。
内側からあふれたり与えられた感情を持て余したりするのはよくあるが、結局どちらも自分から生み出されるもの。
この余剰は明らかに異質なのである。
すっきりしない表情を浮かべる真木をしばらく睨んで、虎斑は無理矢理に結論を出す。
「わかってはいない。だがここにひとつの仮説がたてられる。聞いてくれる?」




