第十話 さかれたはらの色
誰にでも忘れられない思い出というものがある。
良い悪いにも関わらず、その思考回路のベクトルを左右するもの。
いわばトロッコのレバーのような記憶。
桃岡 菜那のレバーというべきものは幼稚園での経験にある。
「ななちゃんは本当にかわいい子で羨ましいわあ」
母のママ友はよくそういった。
菜那は褒められるのと同じくらいたくさん悪戯をし、許された。
たとえば友達が落とした筆を拾おうとしてうっかり絵具をばらまいてしまった時も
「しかたないわね」
と笑って責められなかった。
園児たちは口々に自分たちや先生に迷惑をかけた、と罵ったが、えらい存在である先生が許したのである。
許さない園児たちより、菜那のほうが可愛かったからだ。だから桃岡を優遇する。幼い彼女はそう考えた。
なのに同じ年代の男の子たちは菜那をぶすと呼ぶ。
褒められるのは嬉しいが、同い年のみんなが認めてくれないのが腹立たしかった。
はらわたがにえくりかえって泣いたこともあった。
母に相談すれば「そんなことはない」といってくれるも満足できない。
――じゃあ、どうしておとこのこたちはあたしをばかにするんだろう。
きたないことばしか使えないおとこのこたちだってほめられる菜那をほめてくれたっていいのに。
いじわるするおとこのこを先生にいいつければ、いつだって先生は怒ってくれた。
菜那の方が価値のある子どもなのだ。
なのに、そんな大人たちが菜那を怒ったことがある。
かわいいくまのぬいぐるみで遊ぼうとした時だ。
菜那が遊びたいと思った時に他のおんなのこが抱えて使えなかった。
だから菜那はその子を殴って、ブロックを投げて、悪口をいって、ぬいぐるみをとりあげた。
そうすればそのこは傷ついて、自分にぬいぐるみを手渡すと考えたのだ。害された気分のしかえしにもなる。
「どうしてそんなことをするの!」
先生も、母も、みんな怒った。
――どうしてたんなことでここまで怒られなくちゃいけないのだろう。
同い年のくせして偉そうに悪口をいってくる友達もむかついた。
――きっと先生はあたしよりあの子がかわいいんだ。
ゆるい天然パーマのかかった髪、大きな瞳、さくら色の唇。笑顔は花が咲いたようだ。
そう思ってみてみればかわいいおんなのこ。
はらがたった。とてもいらだって、その子がいるということ自体が許せなくなった。
だって、ずるいじゃないか。一番は自分がいい。
菜那のほうがあの子より凄いとわかったら、きっと菜那のほうを可愛がってくれる。
だから彼女を殴った。他の子の親がしていたように、気に入らない点をあげて言いふらした。
菜那のほうが強い。菜那のほうが優れている。
あの子は殴られながら「ごめんなさい」といって菜那が正しいと認めたし、あの子にはこんなにもたくさんの悪いところがある。
先生はもっと怒った。家族もなんだかイラついているように、冷たい目で見てきた。
――なんで? あたし、わるくないよ。
当たり前のことをしたのだ。自分が幸せに、気持ちよくなりたかったから、そのための手段を行使しただけ。
「菜々、どうしてみんなが怒っているのか、わかる?」
母は問うた。
「わかんない」
「菜々だって、やられたら嫌だと思うだろう?」
父が訊ねた。
「思わないもん」
思う。絶対に嫌だ、許さない、泣かせてやる。そう思う。
それでも認めれば菜那が悪いことになってしまう。否定すれば話は進まない。桃岡が悪いという結末にはずっとたどり着かない。
「へえ。菜那ちゃんにとっては、自分以外はモノなんだ」
「なんで? そんなわけないじゃん、おねえちゃんってばかなんだね」
姉が呟いた。姉が本気でそう思っているわけではないとはわかっている。
だが、あえてしゃくに触る言い方を選んだこと。自分より高い身長で見下す視線が、蔑みと僅か嫌悪を含んだものであることははっきりとわかった。
幼子は大切だ、人類の宝だと大人はいう。
菜那は誰もが大切にし、楽しい思いをさせる努力をすべき幼子なのに。
自分より年上で、ゆえに可愛がられない、下のカーストに属すもののくせして。大事な菜那の心を傷つけた。
だから菜那も相手の神経を逆撫でする言葉を選ぶ。
姉がやれば悪いこと、菜那がやれば許されること。
しかし姉は嘲弄する笑みを深める。
「今は子どもだからワガママしても許されるよ。おねえちゃんだって、今のあんたが絶対にできないことなら手伝ってあげる。こどもってそうやって大きくなる。お母さんも、お父さんも、そう思ってる」
でもおねえちゃん、なんだか菜々ちゃんがそのまま成長しない気がして怖いの。
時間が止まるなんてありえない。止まらないなら、どう考えたって菜々は背丈も伸びていくし、きっと可愛い女の子から綺麗な女の人になっていく。
どうして姉は何をいつも当たり前のことを阿呆らしく説教するのか。理解できない。
菜那は姉をバカにしていた。
一方、姉もまた理解を求めていない。ただ何かをほんのりと期待して、いえる時間があるときにいっておいているだけなのだ、と何処も見ていない瞳から思った。
「そのまんま考えずにおおきくなったら、あんたが『桃岡 菜那』である必要も、権利もなくなるよ」
法が菜那である権利を守っても、家族の心がついていかなくなるよ。あんたを守りたいって気持ちも、失せちゃうよ。
「むずかしいこといって、ななをバカにするんだ! おねえちゃん、ひどい! だいっきらい!」
「別に今わかんなくってもいいの。いっときたかっただけ」
まだ学生の彼女はつまらなそうにそっぽを向く。菜那もまた、舌打ちとともに顔をそらした。
菜那は姉の忠告を無視して、おんなのこにいじわるし続けた。
やがておんなのこはわらわなくなる。わらわないとかわいい顔には影がさして、眉間にしわがより、すっかりかわいくなくなった。
本当なら先生は菜那に構うようになるはずなのに、先生はますます菜那をかわいがらなくなった。
――あたらしく入ってきた子どもたちのほうがかわいくなったのかもしれない。
無邪気で素直、小さくてぷくぷくした幼児たち。
うるさくて馬鹿な肉のかたまりより、菜那の方が物分りがよくてかわいいのに。
だからミノホドというやつを教えてやった。
教えてあげたのに先生はちっとも反省せず、ものすごく怒った。
ここまでくると、先生のほうが馬鹿なのだと思うことにした。
先生もまたミノホドを知らない大人だ。かわいい子どもである菜那の思い通りに動かない。
大人はばかな生き物なのだ。だったら別にもうよかった。
なまいきな人間を苦しめるのはすっきりして楽しい。
誰も認めてくれなくても、認めてくれない誰かにミノホドを教え込んでやるのはとてもとてもとても愉快だ。嘘か本当かもわからない褒め言葉より、ずっと。
かわいがってもらおうと頑張る必要さえない。
人を傷つけて泣かせる方法はたくさんある。そのなかでも簡単な手段も両手で足りないほどあった。
菜那お気に入りの手段は言葉。
けがをさせると犯罪になってどうあがいても菜那が悪いことになる。
そういうとき、言葉は便利だ。
たかが意味をもった音の羅列。
死ね、といわれて本当に死ぬなんてありえない。
傷ついただとかいって自殺する奴もいるけれど、そんなのは死んだ奴がおかしいのであって、自分達は悪くない。
気を遣うだとか手加減だとか、どうして自分がそんなことをしなければならないのか。
気分を害する存在であるのが悪いのだから、最大限きついオシオキをしてあげなければ気が済まない。
そういう意味では本当に死んでも足りないくらいだ。
「そのくせ自分がキツイこといわれるのは嫌なの?」
夕食の場で愚痴った時に、姉が嘲笑混じりに言った言葉。
自分はあんな奴らとは違う。オシャレで若くてかわいい。
だから周りは大事な自分の身も心も守ってくれるべきだ。
シワシワでみっともない老人に価値はない、年金を自分のお小遣いにしてくれればいいのに。
教師だなんて教わることもない、たかが年上なだけでウザイ。
勉強だなんてダサいことに夢中になってみっともない姿なんて見せない。頑張ってまでいい点をとるのはナンセンスだ。
なんでもないことのようにできてこそスゴイ。他の人間にできないことができるトクベツって感じ。
大人は相変わらず馬鹿。正しい価値のはかりかたがわからない。教師は勉強しているブリッコをエコヒイキする。
「頑張らないってわかってる子に大事なこと任せられるわけないじゃん」
簡単そうだからと生徒会の書記に立候補した時に、やはり姉に言われた言葉。
生徒会長がイケメンだったのだ。
姉の言う通り落選したが、清楚な見た目や、みんなのために頑張るなどといういいこぶった戯言に誑かされた馬鹿どものせいに決まっている。見る目がない奴らばかりだった。
中学を卒業する頃には、菜那は両親の『勉強しろ、きちんとしろ』という煩わしい苦言や姉のバカにするような目線が嫌で食卓にでなくなっていた。
高校一年の夏のことだ。
生意気な女がいた。
何か特別なことをしていたわけではない。
名を幸谷雪代。休み時間のたび、自分の席で本を読む暗い奴。
それだけならキモイ子で終わりだった。
しかし、気になっていた男子グループが
「目元のほくろがエロい」
なんていっていたのを聞いたのだ。
あんなブサイクが男の子に価値ある存在とみなされるだなんて生意気だ。
高校にはいるため、しばらくおとなしくしていたのもあって刺激が欲しかったのもある。ちょうどいい機会だった。
菜那は幸谷をいじめることにした。
それから半年ほど経った頃だろうか。家に手紙が届いた。
可愛げのない地味な便箋。
価値ある年代である女子高生の持ち物とは思えなかった。
差出人は白河 佑。彼女もいつも冷静ぶってすました顔の生意気な女だったが、なんとなく関わり合いになりたくなくて避けていた。
ストレスを発散するだけなら既に幸谷がいるのだから十分だ。
いつも白河はいじめに加わることも口出しすることもなく、むしろ何も起こっていないかのようにふるまう。そんな子だったから、菜那も珍しく、怒りもなく驚いた覚えがある。
だが内容は今までの接し方をくつがえすほど生意気だった。
――彼女の代わりにわたしを使ってください。
優等生ぶりやがって!
本当はいやなくせに、周りの評価を買い、自分に酔うための偽善が菜那は大嫌いだ。
あの子を見習えなんて言われた日には一日不快な気分で過ごす。
姉にうっかり手紙が見つかって少し面倒なことになったが、プライバシーの侵害の一点張りで黙らせた。
渋面になって口をすぼめた顔が面白くて、その夜にも押しかけて自分の正当性を主張してやった。今度は姉も何も言わなかった。
まさに成績優秀、運動神経抜群の優等生として両親に可愛がられてきた姉。
だからその夜、仕事から帰ってきて食事を済ませた姉の部屋に、押しかけて自分の正当性を主張すると、今度は姉も何も言わなかった。
――勝った!
そう思ったが、見下すような目が気に入らなくて、モヤモヤした気持ちがずっと残ってしまった。つくづく性根の悪い女なのである、姉は。
あの女の死からますますうるさい。
白河 佑の死。
あれ以来むかつくことが多すぎる。
そもそも最初からおかしかった。
やめようと何度も思ったが、やめるのも悔しくてやめられなかった。
まず佑もいじめはじめた時、その空虚な反応が恐ろしかった。
水をかけてもまばたきすらしない。
殴っても眉一つ動かさない。
時折こちらを認識しているのか疑ってしまうほどの無反応。
暴力や罵倒には無言なのに、普通の問いかけにはよどみなく答えるのがますます気味が悪い。
至って普通に同じ学び舎で過ごしてきた、無害な――他の誰とも変わらない――クラスメイトのように接してくる。
彼女が階段から落ちた光景はよく覚えている。あんなものは初めて見たし、これからも見ることはないだろうと思ったから。
あっという間に落ちていった。体を強かに打ち付けて、はねあがりながらまわっていった。
踊り場までいってようやく動きが止まった。しばらくもがいていたけれどやがて動かなくなって、赤い水溜りが広がり始めた。
――ああ、血ってこんな風に出るんだ。
一か所から楕円状に広がる赤。
中身のつまったものが一か所だけ壊れないとこういう広がり方はしないのだろう。
――これ、見られたらマズイな。
階段前で小突いていたのは事実だがわざと突き落としたわけではない。
佑が勝手に足を滑らせたのだ。
こんなので犯罪者扱いされて、鬼の首をとったような態度をとられてはたまらない。
呆然と立ち尽くす他の仲間の腕をつかみ、菜那はその場から逃げた。
今もその判断が間違ったとは思っていない。
しかし何故か彼女が夢に出るのだ。
普通に眠るとどうしても出てくる。ただ視界の隅にたって、なにもしてこない。だが、いるというだけで腹の奥底がかき回されるような吐き気に襲われる。
エンデュミオンの噂を聞いた時、なんとかできないかといってみた。
プライドに関わるから佑におびえていることはいえなかった。
それでも彼は理想の夢を見せてくれる。
かっこいい男の子にチヤホヤされて、大人は菜那を褒め称えて畏れ敬う。他の有象無象は悔しがり踏み台になる。
佑だって出てこない。
タイミングよく現れた真木という人物。
他の人間にはできない特別なちから。
菜那は真木を逃すのが惜しくなった。
もしも彼が菜那に夢中になってくれたら、菜那もまた特別なのだという証明になる。
タダで夢も見せてもらえるだろう。友達だってうらやましがるに違いない。
ただ困ったことがある。真木は価値ある人間だがかなり馬鹿だ。
菜那が価値を見出してやっているというのに、真木は別の人間ばかり気にしている。
何度か早く帰れと急かされたことがある。その時、菜那に会わせたくない客がいること、その客をやたら気にしているのに気づいた。
そこでこの間、こっそり予約なしで待合室に居座ってみた。
どんな美人かと思えば……なんという生意気だ、悪逆だ。
その女は幸谷だった。ありえない。
この前店の前でたまたま鉢合わせて、いい機会だと山ほど彼女の欠点を教えてあげた。
相変わらずビクビクしてうっとうしい。
真木は、それでも菜那より幸谷を気にして、まともに返事をしてくれなかった。
わざとらしく走って逃げて。悲劇のヒロイン気取りめ。
つい思い出してその度感情が噴き出す。
時間がたっても全く忘れられない。
真木に会ったら気分も晴れるかと思った。定休日とは知っていたがあそこに住んでいるならきっといるだろう。
構わずエンデュミオンをたずねるも、彼は菜那の声を放ってどこかへいってしまった。
あんなに声をかけたのに。もしこれが幸谷だったら足をとめて待ってくれたのだろうと思うと。
「ああもうイライラする!」
家に帰ってすぐ、自室に飛び込んで靴下をまとめていれてあるカラーボックスを壁に投げた。
カラフルな布が宙を舞う。
衝動のまま椅子をひきたおし、ベッドのシーツを剥ぐ。
「菜那、物壊したらどうすんの。お母さん達が無駄金使うことになるでしょうが」
言外にこの家に菜々の自由にしていいものはないと告げながら、姉の瑠璃が部屋に入ってきた。
いつも通り染めていない髪を後ろで縛り、キッチリとスーツを着こなしている。仕事から帰ってきたばかりらしい。僅かに前髪が乱れていた。
「勝手に入ってくんな! あたしの部屋だぞ!」
「あんたの部屋の前に父さん母さんの家。ついでにいえば同居人だから。騒音は迷惑なの、侵害なの。怒っててもいいけど、他人に迷惑かけないようにやってくれる?」
「うるさいうるさい! ムカつく! ウザイ、キモイ、死ね、ゴミ、豚、ブスッ」
「本当に語彙も脳もないわね。強い言葉は普段使わないから強いんであって、乱用したらただの安っぽいチンピラの脅し文句と一緒よ。意味がなくなるの。勉強しなよ」
腕を引っ張り背中を叩くが、普通のOLと変わらない体型の割に瑠璃は頑丈で力強い。
背中に抱き着いてとどめようとする菜那を引きずり、部屋の奥に散らばったカラーボックスと靴下の前に移動してしまう。
「あぁ、あぁ、散らかしちゃって」
膝を折って片づけをするのを蹴るも、微動だにしない。
八つ当たり――否、瑠璃は嫌なことをしてきたのだから正当な攻撃だ――をしているうちに、少しだけ怒りがおさまってきた。
そして姉が柔道の有段者であると思い出す。これ以上やると堪忍袋の緒が切れて痛い目に遭わせられるかもしれない。
自分は悪くないのに。暴力反対、武道反対。自分が弱くて姉が強いなんて不平等だ。
強いのは菜那。自分が一番とまでは思っていないけれど、少なくとも面白くない姉や両親よりも菜々のほうがずっと価値がある。
菜那より価値がある人物は誰か、と問われると即座に答えられないが。
菜那は自分が一番だなんていう気色悪いナルシストではない。思いつかないのはちょっと頭のゆるい可愛い子だからなのだ。
「はい、片づけ終わり。あんたの人生なんだから別に菜々の好きにしていいけどさ。人様に迷惑かけちゃダメよ」
「なにそれ超矛盾してる。頭悪いね」
「矛盾してないよ。菜々の人生は菜々のだけど、人様の人生は菜々のじゃない。菜々ひとりと人様複数だったらね、菜々が悪いことになっちゃうんだから。」
それに、菜々みたいに誰かの悪いところを見つけて騒ぎ立てる人もいる。
人の悪いところを見て、自分はあれより頭がよくて優れているって思いたがる人も、単純に他人の不幸という蜜を吸いたい人も。
「あたしにはわからない理由で行動したり、しなかったりする人も沢山いる。そのなかのほとんどが菜々を知らないよ。菜々のこと、庇ってくれない。眉間しない。甘やかしもしない」
「瑠璃は?」
「あたしは、多分しないかな。これでも正義の味方だし。悪いけど、菜々は悪いことしないって信じてあげられないもの。お父さんお母さんなら庇うかも」
「守ってくれないんだ」
「守るよ。でもあたし、あんたキライだもん。期待しないでよね」
なんだそれは。せっかくの大人の利権を使ってくれないのか。やはり大人って酷い。
頬を膨らませてベッドに寝転がり、足をばたつかせて無様な演奏を披露する。
立ち上がり、菜々を見下す形になった瑠璃が唇の片側を歪めた。
眉間に皺を刻み、口元は少しだけ微笑んでいるように見える左右非対称な表情。
「……何言っても、もうあんたには無駄なんだろうな、って思うけどさあ」
「あたしをなんだと思ってんのよ」
「自分に都合のいいことしか考えない子。お姉ちゃん、本当に今のあんたを助けてあげられないからね。責任は自分で取るものなんだからね、考えたくないからって望んだだけで得られるものなんて、なんもないんだからね」
「何言ってんのかわかんない。キモイんですけど」
「そうやって、攻撃してれば自分が安全でいられると思ってるのが都合がいいっていってるの」
瑠璃は深いため息を吐き、菜々の頭を一回だけ撫でた。
菜々にカラーボックスを押し付け、姉は部屋を出て行った。
「……マジなんなん、あいつ?」
嫌なことなんて見たくない。したでにでれば調子に乗られる。せっかくの若い時を使い潰したくもない。
第一、この世の中自分さえよければいいのだ。
勝たなければ幸せになれない。気に食わない奴は二度とそうできないようにする。こちらが折れさえしなければ、相手が折れるのを待てばいずれ勝つ。
何かを得るために頑張るのも代償を払うのも嫌だ。自分から傷つくなんてありえない。
頑張るのも傷つくのも代償を払うのも、そういうのが好きな一部のガリ勉の馬鹿がやってくれればいい。
こんなにも気を付けてやっているのに、傷つけてくる奴らは本当に無神経で頭の悪い嫌な奴らだ。そういうやつらはいくら傷つけて利用したっていい。
ストレスがたまった時にそういう人達にあたってしまう時もある。嘆くなんてミノホドを知らない行為である。
何の価値もない身分で自分の役に立てるのだから感謝すべきだろう。
最後には菜那が勝つ。だから何でも許される。何もかもが完璧で心地よくなくてはいけない。自分が合わせるのではない、周りが菜々に合わせるのだ。そうでなくてはいけないのだ。
「ああもう、またムカついてきた!」
これも全部うっとうしい女どものせい。
桃岡 瑠璃。白河 佑。幸谷 雪代。
みんなみんな許さない。
家にいると姉の瑠璃がうざったい。
ショルダーバッグに財布を放り込み、家を飛び出す。
夜中のしっとりした空気が肌を撫ぜる。
適当な場所をうろつく。
空いている店はある。しかし菜那の好きな若者向けの店は当然閉まっていた。
保護者ぶった大人たちの無遠慮な視線が痛い。
――こんな時間にうろついて、と酒と常識的な自分に酔った中年ども。とっとと死ね。
心中で罵り、ひとけのない方へ足を向けた。
やがて電気のついていない役所の前までやってきた。
わずかな電灯がバス停をほんのり照らす。
バス停の前では、最近つくりなおしたらしい真新しいベンチがひっそりたたずんでいた。
誰も用がないから近づかない。面倒な大人たちから逃げることができる。
退屈だがむかつくよりマシだとため息をつく。
「コンビニでなんか買ってこようかなあ」
ベンチに座って、両親が心配のメールを送ってくるまでここで待つ。
それで姉のせいだという。「いい年して」とか言われて怒鳴られればいい。
振り向こうとしたとき、腹の底が急にドスンと重くなって、じんじん熱くなっていく。
――あれ、なんかキレるようなことあるかな?
この景色と状況のどこに怒ったのか。
我ながら不思議に思った瞬間、体の中を通る太い糸を乱暴に引き裂かれたような衝撃が全身を突き抜ける。
痛み。
心じゃなくて、体の痛み。
目を背けても容赦なく襲いかかる、命にひびがはいる感覚。
神経という神経が悲鳴をあげてのたうつ。
痛みが始まった場所だけに微動だにしない異物がある。
腹から硬くて冷たいものが引き抜かれた。
「あなたはわたしを許してくれる?」
ぞ、っと肌があわだつ。
抑揚のほとんどない声音。
日常で世間話をするような穏やかさ。
その話し方は、まるで――
「白河、さん?」
ありえない。
正体を見定めようと目を凝らしても、あとからあとから涙があふれてしまう。
信じられない早さで脱力感までもが襲う。貧血の時と同じ気持ち悪さ。
色んなものが抜けていって、意識は遠くなって……。
結局、菜那はその少女の顔を確かめることはできなかった。




