6 取り引き
相武国の西南の地に、ある海の神を祀った社があった。エヒメはそこで一心不乱に祈りを捧げていた。
オトヒメがミヤズヒメから得てきた情報によると、ヤマトタケルは三種の神器の霊剣を携えてきているらしい。その霊力は偉大で、最強の護りを手に入れたといえよう。この国を治め・日の光となりてあまねく地を照らす最上の神に対抗できる神は多くはいない。
どのようなものであれば対抗できるだろうか? その象徴ともいえる日の光が届かぬところに住まう神ならばどうであろうか。例えば黄泉の国に住むものたちである。
しかし、黄泉の国に住むものどもがこの世にいるわけがない。
だが日の光の届かぬところなら他にもある。エヒメは知識として、水の中をずっともぐっていくとだんだん暗くなっていき、光の届かぬ暗闇の場所へたどり着くということを知っていた。水中の光のあたらぬ場所、海の底である。そこに住む神の力を借りることができるならば、霊剣に対抗できると考えた。
エヒメが今祈りを捧げて場所こそ、その神が祀られている社である。その神の名は、底津綿津見神という。
かつて黄泉の国より戻った伊耶那岐神が、醜く汚いところへ行った自分の身体を嫌がりみそぎを行なった。そのみそぎの際に様々な神が生まれた。水で洗って身体から落ちた汚物から生まれた、禍の神。その禍を払うために現れた神などである。
その時、伊耶那岐神が海底でみそぎをしたときに現れたのが、底津綿津見神である。
エヒメは己の持つすべての財を使い供物を用意し、社を守っていた筑前国よりやって来たという海神を祖とする海人一族の巫女から助言を得て、飲まず食わず必死に祈りを捧げていた。
(底津綿津見神よ。どうか応えてください)
そして何日かたったある日、ついにエヒメの執念が実るのだった。
ーー神を求める者よ
低く小さいだが底知れぬ響きが、音としてではなくエヒメの頭の中に直接聞こえた。
「もしや、底津綿津見神さまなのですか?」
ーーわれは底津綿津見神に仕える海峡の神である
その応えにエヒメは歓喜した。
オトヒメがエヒメとともに尾張を出発してからの旅は良いものであったと思う。舟に初めて乗ることができたし、美容に良いという地中から湧きだす湯に浸かってみたりもした。
特筆すべきは、駿河国から不二の山を目の当たりにしたことだ。確かに『この世に二つとない』と思われる、文字通り雄大な大山であった。不二の山ーー富士山は何度も噴火を繰り返し美しい姿になったといわれるが、この時代すでに現在と同じく美しい形状をしており、高さも三千メートル級であった。
オトヒメはじかに見て、この山が生国の三野や大和にまでうわさが伝わってくる理由が、解ったのであった。
こうして多くの感動を味わったのだが、相武に入って雲ゆきが怪しくなった。
もう何日目になったであろうか。エヒメが底津綿津見神に祈りを捧げると言って社にこもってかなり経つ。オトヒメは毎日 社の前までやって来て姉の安否を気づかっているのだが、中の様子が分からない。社の中に入れるのは、祈りを捧げる姉と海人の巫女のみであり、オトヒメが入ることは許されてない。先日、巫女からエヒメが海神様と対話にはいったと聞いたが、何を話しているのかは分からない。
(お姉ちゃん。どうか無事でいて!)
オトヒメは祈った。ほんとうに気が気でない。断食していることも、神と接触することも本来ひとのすることではないのだ、というのがオトヒメの考えである。
この期間、オトヒメはただ姉を待っているだけではなかった。姉に言われて、相武国造に接触していた。この人物は大和国のオオウスノミコトに近かった権力者と知古であったため、ヤマトタケルに対抗すべく協力をあおいだのだった。
オトヒメは彼をみごと口説いて、味方にすることに成功していた。現在は、ヤマトタケルを討つべく駿河へ向かっていた。
「お姉ちゃんの言い付け通りことを運びましたよ。お姉ちゃんも早く戻ってきてください」
ガタリ。社の戸が開いた。
中からよろよろと女が現れた。
(お姉・・・ちゃん?)
オトヒメはその女を見て姉だと思った。だが頭でわかっても心が理解できなかった。
目の前に現れたのは、あまりにも変わりはてた姿をしたエヒメだった。身体は水分を抜きとられたように萎れ、美しい容貌のはなくなりシワが出ていた。オトヒメと年の近い姉妹だと言われてもわかるまい。
エヒメが歩こうとするが、力つきたようによろよろと倒れそうだった。
「お姉ちゃん。しっかりしてください!」
オトヒメが駆けよって支えた。
他人なら、数日で人が老いてしまう怪異な現象をおそれて避けただろう。さすがに血を分けた妹はとっさに助けることを選んでいた。
「いったい、何があったんです? お姉ちゃん!」
「心配いりませんよ、オトヒメ。海神様と取り引きをしただけです」
「取り引き?」
海神にヤマトタケルを討ってもらう見返りに、彼女はおのれの生気を差し出した。さらに死後、自分の身体を神の供物として捧げる約束をしたと言うのだ。
「そんなことをして、どうするのですか!」
財を失い、若さを失い、死後に身を捧げるなどオトヒメにとっては正気のさたとは思えない。
「旦那さまの敵を討つのです」
あまりに決然としたエヒメの言葉に、オトヒメの顔からすうっと あらゆる感情の色が抜けおちた。それには気づかず、エヒメは話しかけた。
「まだこれだけでは不足です。オトヒメにはいろいろやってもらいますよ」
「・・・わかりました。ともかく、少し休みましょう」
そう言って、オトヒメは姉を仮住まいに連れ帰り、エヒメを寝かせてやった。
オトヒメは終始無表情だったが、その双眸から強い感情がもれていたことに気づいた者はいなかった。