ひらり、ふわり
季節は移り、花の咲き誇る温かい春になった。
冬の間積もり続けた雪も解け、二つの国の隔たりもほぼ取り払われた。
アナタシアの王宮は普段より慌しく人が走り回っていた。その中を二つの影がすり抜ける。
「逃げないでよ、セシル」
「なら、ついて来ないでください」
「それは困ったな」
困っているのはこっちだ。
そう言うのも面倒で、セシルは黙って歩を進めた。
未だに自国へ帰らないレーヴィンは、飽きることを知らないのかずっとセシルに求婚していた。
既に帰国したメルヴィスと共に帰ればよかったのに。押して押して押しまくるレーヴィンは引くことを知らないらしい。
もし引くことを知っていたなら。
そんな夢物語を思い浮かべて、セシルは大きく頭を振った。
「セシル、危ない」
「え、あっ」
角から出てきた女官とぶつかりそうになって、後ろに腕を引かれた。
なんとかぶつからずに済んで、女官は何事もなかったように横をすり抜けていった。
前をちゃんと見ていなかった罰。
レーヴィンに捕らえられた体に諦めのため息をつく。ふと力を抜けば、腰に回された腕の力が強くなった。
最近女々しくなった気がする。レーヴィンに女として、婚約者として扱われる中での変化。
本来なら喜ばしいことなのだろう。ずっと男として生きてきたセシルにはまだ慣れない部分が多いけれど。
落とした視線の先に映るのはこれ以上にない上等な生地で作られたドレス。
今日だけじゃない。ここ最近セシルが男装をすることはなく、毎日のように贈られるドレスを着る日々が続いている。
だからか、周囲のセシルに対する態度も女に対するものに完全に変化しつつあった。
「捕まえた。部屋に戻ろうか」
「嫌だ」
「何故? 俺たちの門出に着るドレスを決めるんだよ」
「あなたと門出を迎える予定は」
「ないって言ったら、この国を潰すから」
ありません、と言いかけて口を噤んだ。
酷い男だと思う。セシルが決して断れないように脅してくる。
この台詞も何度言われただろうか。
「戻ろうか」
「……はい」
いっそ全て委ねてしまえばいい。
そんな思いも膨らむ。怖い訳じゃない。アナタシアのためだと思えば簡単に引き受けられる。
でもセシルは何かを違って感じていた。
そう思えばいいのに思えない。思いたくない気持ちが前に出る。
一番おかしいのは自分だと、セシルは感じている。
男として育てられた姫に迫る奇特な王子よりもずっと、自分がおかしいとわかっている。
だから、簡単に委ねられないのだろう。セシルはそんな結果に行き着いていた。
*
部屋に戻ると待ちくたびれたような女性がほっとしたようにセシルを見た。
この人が婚礼衣装を作るらしい。そう言えばここ最近のドレスもこの人が作ってくれている。
レーヴィンのお気に入りなのだろう。
「レーヴィン様」
「すまないスージー、待たせたね」
スージーと呼ばれたその人はレーヴィンと仲が良いらしい。
畏まっているものの、どこか慣れた雰囲気が漂う。
彼女を伴侶に選べばいいのに。
楽しそうに会話するレーヴィンを見てそう思う。あんな顔をさせることなんて出来ない。
「セシル、このドレスなんかどうだろう?」
「……えぇ、そうですね」
上の空で返事する。
レーヴィンは気付いていないのか、嬉しそうに頷いた。反応を示したことが嬉しいのだろうか。
まさか、そんなはずはない。きっと……。
「これは却下だ」
「はあ?」
セシルが珍しく頷いたデザイン画はぐしゃりと丸められた。
そのままゴミ箱に放り投げた。きれいな放物線を描いたそれは鈍い音を立てて落ちた。
「れ、レーヴィン殿?」
「上の空な反応はいらないよ。ほら、ちゃんと選んで」
嬉しそうに頷いていたのは錯覚だったようだ。
苛立ちが含まれた声色にセシルは小さく身震いする。
スージーはというと、慣れた様子で次のデザイン画を提示していた。
「こちらならドレスに慣れていらっしゃらないセシル様も召しやすいかと」
「どうだ、セシル?」
「ちょっと……休憩、させていただきたい」
下手に返事をすれば彼女が一所懸命考えたデザインがゴミ箱行きになる。
それがとても申し訳なくなったセシルは思わずそう告げていた。
*
翌日、姉姫のセシルよりも早く妹姫のメアリの婚礼式が行われた。新しい国王の誕生に歓声は止まなかった。
セシルはレーヴィンに贈られた質素なドレスでそれに参加していた。
だが、レーヴィンの目を盗んですぐに自分の部屋に戻った。新しい国王の誕生の瞬間さえもそこで向かえた。
メアリが可愛くない訳じゃない。自分の部下だったウィンを嫌いな訳じゃない。
それなのにあの場所にいられなかった。こうやって変わり果てた姿で立つことが苦痛に思えた。
「こんなところにいたんだね。可愛い妹の婚礼式をすっぽかして」
「レーヴィン」
お祭り騒ぎの城下町を窓から見下ろしていると、背後から抱き寄せられる。
耳元で囁かれたことに思わず体を強張らせた。
「……酷い姉姫だと罵るか?」
何かを言おうと口を開いた気配を感じて、セシルはそれを遮るように言った。
腰に回される腕の力が一瞬強くなる。でも昨日と違ってそれはすぐに離れた。
代わりに向き合うように肩を引かれる。
「罵ってほしいのか?」
そう言って眉間に皺を寄せたレーヴィンはセシルと視線を合わせる。
何故か怖くなったセシルはその視線から逃れるように顔を背けた。
罵ってほしいかと聞かれたら、ほしくないとしか答えられない。
それはレーヴィンもわかっているはずだ。
それでもそう尋ねてくるのはどうしてだろう。ほしくないと言ってほしいのだろうか。
そんなわがままを受け入れたいとでも思っているのだろうか。
「セシル、寂しいか?」
「何故そのような」
「寂しいんだろう。可愛い妹姫が男に取られたんだもんな」
誰も寂しいなど言っていないのにレーヴィンは決め付けたようにそう言った。
でもそのことで先程の質問は流れていった。それをわかって言ったのだろう。
だから、酷く傷つけられたような気分になった。
「妹姫に先を越されたけど、次は俺たちの番だよ」
「私はまだ」
「……そうやって一生独りでいるつもりか?」
婚約に躊躇し続けるセシルに、レーヴィンもとうとう苛立ちを抑えられなかった。
表面に表れたそれは苦く苦しくて、積み重ねてきたものが隠せなくなったのだということが一目でわかった。
「そうやって、俺を拒んで……」
「そんなつもりはありません」
「アナタシアが潰されるから、か?」
自嘲気味に笑ったレーヴィンにセシルは頷きを返すことが出来なかった。
いや、それだけが理由じゃない。他にあることは薄々気付いている。
ただそれが諦めからきたのか、もっと違うものなのかわからないだけで。
レーヴィンはセシルから離れ、ソファにどっと腰を掛けた。
疲れ果てた雰囲気が彼を囲う。
それが自分のせいだと嫌でも思わずにはいられなかった。
「一つ……伺っても」
「別に遠慮しなくていい。聞きたいことは何でも聞け」
「……どうして私なのですか」
別にアナタシアを選ばなくてもよかった。
そう言えば裏切り者になるかもしれないが、実際そう考える国はいくつもあるだろう。
それだけリィエストは大きく、アナタシアは小さいのだ。
敵視することもされることもない。冬が厳しいアナタシアにリィエストや他国を攻める余力がないのは明らかだから。
「私じゃなくてもいいのでは? 他に手を組んで置くべき国はたくさんあります。そこには私よりも遥かに美しく、品のある姫君がいるはず。何もこのような小国の、男として生きるよう命じられたような姫を選ぶことなど」
「まだそんなことを言うんだな、セシルは」
話を遮ったレーヴィンはセシルに顔を見せる。
それを見て、セシルは次の言葉を失った。もっと言いたいことも反論したい気持ちもあったのに、頭の中が真っ白になってしまった。
レーヴィンの目に浮かんでいたのは哀だった。色で喩えるなら深海。
実際に見たことはないけれど、きっとこんな色なんじゃないかなと思えるほど孤独に満ちていた。
「セシル」
動くたびに漂うレーヴィンの香のように、ほんのり甘いものが胸に広がる。
いつからだろう。
それは突然音もなく生まれて、セシルを蝕んだ。
触れては離れていく腕は堪らなく寂しい気持ちを引き寄せる。
知らない自分が少しずつ表に現れ、戸惑いを隠せなくなってきて。
「レーヴィン」
そっと小さく呟いた言葉が届いたらしい。
レーヴィンは再び逸らしていた目をセシルに向けた。視線が交じって、鼓動が跳ねる。
体が一瞬で熱くなったのを感じた。
「もう、一回」
「え?」
「もう一回、呼んで」
「……レー、ヴィン?」
たった数音の言葉が変に途切れる。さっきはすんなりと出たのに、改めて言わされるととても恥ずかしくなった。
言わなきゃよかった。
溢れ出るものをきちんと抑えられていれば、こんな恥ずかしい思いをしなくてもいいのに。
「あぁ、酷いな」
「は?」
「セシルは酷いよ」
呆れたように大きくため息をつかれ、セシルはむっと眉を顰める。
もう一度呼ぶように言ったのはレーヴィンなのに、何故酷いと言わなければならないのか。呆れられる理由なんてないはずだ。
そんなことを思っているのを知ってか知らずか、レーヴィンはゆっくりと立ち上がる。
その足先がセシルの方に向いたのを見て、思わず一歩退いてしまった。
「……逃げるのか」
「あ……つい」
「ついって。そっちの方が傷つくんだけど」
苦笑いを零したレーヴィンはその場で立ち止まったままセシルに近づこうとしない。
それを見て、後退りしてしまったことを一層後悔する。
気まずい雰囲気に逃げ出したくなったとき、静かに手が差し伸べられた。不思議に思ってレーヴィンを見ると、優しく微笑まれる。
「俺と共に生きるか、ここで別れるか。セシルに選ばせてやるよ」
共に生きることを選ぶならこの手を。別れを選ぶなら、部屋から出て行けばいい。
そう付け足したレーヴィンは笑顔を少し翳らせながら、セシルが動くのを待っている。
沈黙が二人を包む。どうしたらいいのかわからない。ただ立ち尽くす自分をいつものように強引に引っ張ってくれればいいのに。
そうすれば、迷わずについていけるだろうに。
それではいけないと思いつつも考えてしまう。
周りが変わることを、周りに変えてもらうことを望んでしまう。あの日諦めてしまったことが今もセシルを縛る。
「思った通りに動けばいい。どんな選択でも俺は受け入れる。もちろんアナタシアにも手を出さない。だから、早く……俺を突き放せばいい」
「っ、そんな」
根が張ったように動かなかった足が動く。
レーヴィンの言葉に踏み出せなかった一歩が前に出て、そしてまた一歩を重ねていく。
レーヴィンにすぐ手が届きそうな距離で立ち止まる。
「セシル、期待させないでくれないか」
「私でいいのですか」
「何度伝えればわかる?」
諦めたような笑みを浮かべる。目が合えばそれは一層深くなって。
どうしてこんなにも悲しそうな顔をするのだろう。
どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。
「早く、一人にしてくれないか。セシルに情けない姿は見せたくない」
「……別れを選ぶ前提で話すんですね」
「なら、俺を選んでくれるのか? ……選んでくれな……、っ!」
触れた手は少し冷たく感じた。いつも感じていた熱がない。
その理由を知りたくはなかった。知らないままでいたいと思った。
戸惑いがちにその手を握る。レーヴィンも一瞬遅れて握り返してくる。
今にも泣き出しそうなその表情がなんだか可笑しくて、セシルは小さく吹き出した。
「笑うな」
「だって、いつも強気なくせに」
「強がっているだけだ」
繋がれた手を強く引かれ、一層レーヴィンが近くなる。
視線を泳がせたセシルを、今度はレーヴィンが笑った。
「わ、笑わないでください!」
「セシルだって笑ったじゃないか」
からかうように顔が近づいてくる。鼻が触れ合いそうな距離まで近づけられ、セシルはぎゅっと目を瞑った。
だが、予想していたことは一向に起こらない。
恐る恐る目を開けると、レーヴィンはやっぱり笑っていた。
「期待したか?」
「……っ」
「恋愛初心者のセシルに初っ端から襲いかからないよ」
そこまで飢えてないと付け加えたレーヴィンはセシルの手を離す。
そしてセシルの後頭部に手を回すと、優しく引き寄せられた。逃げることもできなかったセシルはそのまま顔面をレーヴィンの胸にぶつけた。
「……それは狙ったの?」
「狙ってません」
クスクスと笑うレーヴィンに微かな後悔を覚えながら頭を動かす。
頬を寄せた胸からは少しだけ速い鼓動が聞こえた。
*
窓の外から歓声が響く。
一瞬間を置いて再びそれは先程以上の音量で沸き起こった。
外を見れば、無数の花吹雪。
ひらりふわりと舞い落ちていくそれは、セシルの胸の中に降り積もるものと似ているような気がした。