雪に沈む心は凍てつき
一瞬風が強く通り過ぎて、視界に白いものが舞った。
外へと視線を向けると、朝方降っていた雪がまたちらついていた。
「雪、か」
手袋を外して、そっと手をかざす。はらりと舞い降りた結晶はすぐに溶けて消える。沁みる冷たさが痛かった。
……まだ、生きている。
その痛みに笑みを浮かべて、手を引っ込めた。
遠くで慌ただしい足音が聞こえ、緩んだ表情を引き締めた。
「セシル殿っ」
「何だ、ウィン。騒々しいな」
「へ、陛下がお呼びです! 早急に、ということで」
息を切らせた従者を見上げ、セシルはわかった、と呟いた。
にっと浮かべる笑みは、今日も変わらず愛嬌があった。
でも、それに答えることは出来なかった。
その理由を知っている彼は何も言わない。
それに安心して思わず表情が崩れそうになり、セシルは慌てて視線を逸らした。
「これを執務室に運んでおいてくれ」
「はい……お気をつけて」
手にしていた数冊の資料をウィンに手渡し、踵を返す。
謁見室は資料室を同じ方角にあるので、引き返さなくてはならない。
唯一の従者に軽く手を挙げ、セシルはゆっくりと歩き出した。
*
この城で自分が女だということを知っている人は少ない。
従者であるウィン、幼い頃世話をしてくれた古株の女官や執務官たち。……そして、両親である国王と皇后、妹姫。
傍系の王家もこの国を支える高級貴族も知らない秘密。
ましてや他国の者が知るはずもないこと。
この国の跡継ぎは姫一人しかいない。それが事実だった、はずだった。
「明日リィエスト国からの使者を迎える。我がアナタシアと国交をしたいらしい。丁重に扱うように」
「は、わかりました」
「退室を命ずる」
用件のみの短い謁見はものの数分で終わった。
その間、一度も彼らの姿を見ることは許されなかった。
……いつものこと。
そう済ませたのももう数え切れないほど。それ以上考える暇もなかったし、気力もなかった。
*
「にしても、急すぎますよ。準備が間に合うかどうか」
「仕方ないだろう。ウィン、頼んだぞ」
はーい、と明らかに面倒臭そうな返事が返ってきた。
書類からちらりと視線をあげると、何処か心配そうな表情を浮かべたウィンと目が合う。
「セシル殿に対する仕打ちが酷いとメアリ姫も言ってましたよ。どうにかならないんですか」
「ならないだろうし、する気もない。嫌なら他の奴に仕えればいいだろう」
「ちっ。本当に冷たいですね、あなたは」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
さぁ行った行った、と手を振ると、不満そうな顔をしたまま執務室を出て行った。
すぐに廊下を走る音が聞こえる。
なかなか落ち着かない彼に呆れ顔をする。もう二十歳になるというのに、落ち着く素振りも見せない。
「忙しいから、仕方ないと言えば仕方ないのだがな」
いつか注意しようと心に決めて、手元に視線を戻した。
窓の外はまだ雪がちらつく。止む気配は一向になかった。
*
最初のきっかけが何だったのかはもう覚えていない。
ただ気付けば、男として父である国王に仕えるために政治を学んでいた。
自然と格好もそういうものが増え、もうドレスを着ていたことも忘れてしまうほど執務服に慣れてしまった。
「あなたが噂の執務官ですか」
「噂、ですか?」
滅多に着ない正装を身につけ、セシルは来客を出迎えた。
馬車から降りたのは聞いていた通り二人。その片方は使者にしては上質の服を纏っている。
少しばかり疑問を持ちつつも、差し出された証明書は本物だったのでそのまま城に通す。
「腕のいい執務官がいると、リィエストでも有名ですよ」
「それは違うと思います。表には出ていませんので」
「そうですか? 何処かでお会いしたいような気もするんですが」
専ら喋っているのは、レーヴィンと名乗った男だった。
もう片方は口を閉ざしたまま彼の後ろに控えているので、使者はレーヴィンの方だと伺える。
従者。たった一人の従者でここまで来たらしい。
「こちらが部屋になります。何かありましたら、表の女官に申し付け下さい」
「セシル殿は?」
「仕事がありますので。これで失礼させて頂きます」
そうか、と納得のいかないような表情でレーヴィンは頷く。
その意味がわからなくて、セシルは心の中で首を傾げた。
何か引っ掛かる。何が、引っ掛かるのか。
「明日の会談、楽しみにしてるよ」
最後にかけられた言葉に嫌な予感を受けながら、一礼して退室する。
扉の向こうに彼らが消えてから、セシルは小さく息をついた。
引っ掛かりはまだ残っている。それが何なのかわからないまま、長い廊下を歩き始める。
「……嫌な感じだな」
ぽつりと零した言葉は、誰にも聞かれることなく消えた。
*
執務室に戻ると、またウィンが走り回っていた。
昨日きれいに片づけた机の上は書類で埋め尽くされている。これなら今は見えない椅子の上にも積み重なっているだろう。
いつものことと言えども、やはり気が滅入る。
開けっ放しだったドアを閉めると、ウィンがこちらに気付いた。
「やっと帰って来ました! 書類、嫌みなくらい溜まってますよ。半分くらいは押し返しましたが」
「……あぁ、すまない」
机の後ろに回ると、案の定椅子の上に紙の山が出来ていた。この大半は仲間の執務官から回されたものだろう。
若くしてここまで来たセシルへの反感は強い。
まだセシルよりも上の立場であることをいいことに、それほど重要ではない小さな仕事は全てこちらに回された。
仕方ない。これは、与えられた運命だから。
「陛下からも嫌みったらしい仕事が来てますよ。実の娘に何をさせようとしてるんでしょうかね」
「ウィン、やめなさい。陛下の悪口はそう簡単に口にしていいものではない」
「ですが、これは酷いですよ」
差し出された一枚の紙。それを受取り、文字を目で追う。
簡潔に走り書きされたそれは正式な書類ではない。
だが、セシルには刃向かうことは出来ない。こんな気まぐれのメモでも拘束力は強い。
「……ここの書類を全て他に回せ」
「ま、まさか、そんな理不尽な命令をお聞きになるんですか!?」
「命令は命令だ。そうだな、アドルフ殿にでも回しておけばいい。……リィエストにまで名を轟かす有能な執務官のアドルフ殿、とでも言っておけば引き受けるだろう」
「ですが、姫がこんなことをする理由は」
「私は姫ではない。陛下の駒だ」
冷たく言い放った言葉に、ウィンが言葉を詰まらせる。
悔しいのか顔を酷く歪めている。
彼もよく理解しているのだ、セシルがどんな命令にも逆らえないことは。
その契りを交わしたとき、傍に控えていたのだから。
「私は大丈夫だ。流石に女だとは気付かれていないだろう」
「ですが、万一気付かれたら……どうなるか」
「どうなるんだろうな」
ふ、と笑みを浮かべ、手にしていた紙をゴミ箱に小さく千切って捨てる。
ひらひらと落ちていく様はまるで雪のようだった。
*
"リィエストの使者に仕えるように。女官の代わりにお前が働け"
ウィンが受け取った国王からの令状にはそう書かれていた。
これは同時に執務官の地位を剥奪されたことになる。
リィエストの使者が自国に帰るまでの短い間といえども、格好の笑い話にされることは目に見えている。それをウィンは気にかけているのだろう。
セシルが準備を進める間も、何処か不安そうな雰囲気を漂わせていた。
「心配しなくていい。またすぐに戻ってくるから」
すぐに戻れる。
そう信じて疑わなかったセシルは久々にウィンに笑みを向け、執務室を出た。
また同じ廊下を通り、あの部屋に戻るのはとても変な気分だった。
客室の並ぶ建物は滅多に行かないからだろうか。
ともかく珍しく小さな不安を感じながら、セシルは再び扉の前に立った。
小さくノックをすれば、担当だった女官が部屋から顔を出す。
「セシル様……いかがなさいましたか? あ、使者の方を」
「いやいい。あなたに用があるんだ」
「私に、ですか?」
まだ伝達が届いていないのか、女官は小さく首を傾げた。
用件を手短に話すと、彼女はすぐに支度を整えて部屋の外に出てきた。
「すまない。折角来てもらったのに」
「いえ、構いません。それでは失礼します」
パタパタと足音を立てて駆けていく女官の背中を見送り、セシルは扉に手をかけた。
中に入るとそこには二つの扉がある。
その片方の前に立ち、ノックをする。すぐに返事が返ってきて、扉が開かれた。
「これは、セシル殿」
「度々申し訳ありません」
「何かご用ですか?」
レーヴィンはセシルに部屋に入るよう促す。それに応え、セシルは一歩踏み出した。
「それで」
「……女官の代わりに、こちらに控えることになりましたので。何かございましたら、何なりとお申し付けください」
「へぇ、あなたが。仕事は大丈夫なのか?」
「他にも執務官はいますので」
ソファに座るようにも促されたが、そこまでは応えなかった。
腰掛けたレーヴィンを見下ろすことになってしまうが、すぐに出て行くつもりだったので気にしないことにしていた。
「ふぅん。で、捨てられた訳だ?」
伸びてきた手から逃れることは出来なかった。
気付いたときには強い力で引かれ、そのままレーヴィンの胸の中に倒れ込んでいた。
慌てて離れようとするが、背中に回された手がそれを許さない。
強い。
自分よりも遙かに強いその手に身震いする。
久しく感じていなかった恐怖が身体中を駆け巡る。身動きが取れないもどかしさに眉をひそめる。
「随分とアナタシアには舐められたもんだね」
「……どういう意味だ」
「セシル殿……いや、こう呼んだ方がいいかな」
耳元で囁かれた言葉に、ふっと力が抜けた。
驚きで声も出ない。そんなセシルをレーヴィンは笑いながら抱き寄せた。
「そんなに驚くことはないだろう、セシル姫」
「何故、それを」
「舐めるなと言っているだろう?」
レーヴィンはセシルを離すと、そのままソファの上に押し倒した。
視界には天井と不敵に笑うレーヴィンしか映らない。
すっと頬を撫でた彼の手に体が大きく跳ねた。
「くくっ。いい反応だな」
「……何が目的でここに来た?」
「何も? ただ君が見てみたかっただけだし」
レーヴィンはそう言ってセシルの上に倒れた。
ふわっと漂う花の香り。何の花かは知らないが、とても甘いような気がする。
普段なら遠ざけるその香りさえ遠くに感じることが出来ないほど、セシルはただ放心していた。
*
レーヴィンは何も警戒することなく自分の身分を語った。
リィエスト国の王子。見たことがあるのは兄王子の方だとも言われた。
「俺、あんまり政治に興味ないしね」
この訪問が初めての仕事だと言う。
セシルはどうしても理解できなかった。
何故今まで出てこなかった王子がアナタシアに来ようと思ったのか。
ただ自分を見に来ただけではないはず。それほどの価値がないことなど、自分でもよくわかっている。
「疑い深いな、セシル姫は」
「姫じゃないと何度言えばいいんだ。この国にはメアリ姫しか姫はいない」
「いるじゃないか、目の前に」
髪を一束手にとって、レーヴィンは笑う。
痛んでるな、と小さく漏らした言葉が聞こえるほど近い距離に、思わずセシルは彼を突き放した。
この際彼が隣国の王子なのはどうでもいい。
姫だと人に……それも他国の人間に知られた以上ここにはいられない。
結局待っているのは一つの結果だけだ。もう何もかもどうでもよくなっていた。
いつの間にか上がっていた息を整えるように、深く深呼吸をする。
とその時、廊下が一段と騒がしくなった。バタンと大きな音を立てて扉が乱暴に開かれる。
「大丈夫ですか、姫様っ!」
「お姉様っ」
入ってきたのは従者と妹姫。何を嗅ぎつけてきたのか。
二人はレーヴィンからセシルをかばうように立った。
訳がわからないセシルはされるがままに後ろに下がる。
「いくら他国からの使者と言えどもこれ以上は許されませんよ」
メアリが力強くそう言った。その隣でウィンが頷く。
年の近い二人が親しくしているのは知っていたが、ここに現れる意味が理解できない。
それにこの時間、メアリは教養の時間のはず……。
「お姉様の危機を見過ごすことは出来ませんわ」
堂々とそう言う。
やっと理解してきたセシルはこの状況に頭を抱えた。
二人によって今までの抵抗が無意味だ。いや一瞬認めてしまっているだけに、抵抗も何もないが。
それでも。
「メアリ様、教養の時間ではないのですか」
「だから、お姉様」
「このような無礼はいくら姫様でも許されませんよ。部屋にお戻り下さい。ウィン、お送りして」
ウィンは不満そうにしながらもそれに従う。
抜け出させたことには罪悪感を持っているようだ。
何やら姫らしくない暴言を吐くメアリを引きずりながらも部屋を出ようとする。
「セシル様」
部屋を出る寸前でウィンは振り返った。
セシルは早く行けと視線で訴えるが、それを無視して言葉を続ける。
「どんなことがあっても姫には代わりありません。だから、無茶はしないでください」
「お姉様! ウィン、離しなさいよ」
「メアリ姫、戻りましょう。これ以上サリーを困らせてはいけません」
意地でも残ろうとするメアリを宥めながら、彼は部屋を後にした。
パタンと静かに扉が閉められる。メアリの声がだんだん遠くなっていき、やがて聞こえなくなってほっと胸を撫で下ろした。
残るのは一つ。顔を引き締め振り返ると、レーヴィンは何事もなかったかのように紅茶を入れ、それを啜っていた。
「……レーヴィン殿」
「あぁ、帰った? 姉に似て活発な妹君だったね」
セシルは顔をしかめた。姉、とは自分を指しているのだろうか。
いや姉は自分しかいないけれど。……活発か?
「さぁ、セシル姫。おいで」
変な笑顔。手を振ってセシルを招くレーヴィンに、一歩後ずさりする。
他の。他の姫君なら、この招きを受け入れるのだろうか。
ふとそう思って、自分が可笑しくなった。
何を考えているのだろう。もう、姫も女も捨てたのに。
「そんな警戒しなくても」
「……ひとまず部屋に戻ります。何かありましたら」
「だから、用があるから呼び寄せているのだろう?」
ほら、おいで。
まるで幼い子供を呼び寄せるようにレーヴィンは言う。
彼の目には自分はそんなに幼く見えるのだろうか。
むっと顔を歪めると、一層レーヴィンの笑みは深くなった。
「来ないんなら、俺から行くけど?」
「い、行けばいいのだろう」
背筋にさっと冷たい風を感じて、セシルは思わずそう返してしまった。
すぐに後悔の念が過ぎるが、言ってしまったものは仕方ない。
硬くなった足を無理矢理動かし、レーヴィンの傍に立つと隣に座るよう促される。
出来るだけ間を開けて腰掛けると彼は不満を漏らした。
「もっと近くに」
「……お許し下さい。私にはそのような趣味はありませんので」
「どんな趣味?」
「同性の方と戯れる趣味です」
ぶっと勢いよく吹き出し、紅茶がカップから零れた。
熱っ、と叫んだお陰で控えていた従者が隣の部屋から顔を出す。
「いかがなさいましたか、レーヴィン様っ」
「紅茶を零しただけだ」
何処にも怪我がないのを確認すると、従者はきっとセシルを睨む。その瞳に体が震えた。
強い。こんな強い目が自分にも出来たなら、もっと状況は良くなったのではないだろうか。
頭の隅で無理だと思いながらも、そう感じてしまう。
「メルヴィス、セシル姫を怯えさせないでくれ」
「ですが、こんな」
「部屋に戻れ。……セシル姫、大丈夫か? 紅茶はかかってない?」
「は……はい」
メルヴィスと呼ばれた従者から目が離せない。
部屋に戻るように命ぜられたメルヴィスもまだセシルを睨んだままだ。
呆れたようなため息が聞こえて、くいっと体を引っ張られた。
「俺、嫉妬しちゃうよ? そんなに見つめ合われたら」
「見つめ合ってなど!」
セシルとメルヴィスが同時にそう答え、レーヴィンは腹を抱えて笑い始めた。
その腕にはセシルを抱いたまま。レーヴィンの胸に手をつき、その腕を引き剥がそうとするが放してはくれない。
それどころか髪に頬を寄せられる。顔が酷く熱くなるのを感じた。
おかしい。どうにかなってしまったのだろうか。
感じたことのない熱にセシルはうろたえる。
「あー久々に大笑いした」
「……いつも笑ってますが」
メルヴィスが半ば諦めてそう呟く。
セシルに向けられるのはもうあの強い嫌悪ではなかった。どちらかと言えば、哀れむようなものに変わっている。
ご愁傷様です、姫君。そう無言で言われたような気がした。
「セシル姫。一つ提案があるんだ」
突然の言葉に、セシルは抵抗も忘れてレーヴィンを見上げる。
浮かべられた笑みは鼻を掠めるあの香りのように甘く優しい。
ちらりと映った窓の先には、昨日よりも大きな雪の欠片が銀の世界を生み出していた。