男性と女性
少し前の記事に、私は男の子であることを父親に期待されて生まれて来たことを書いた。
私の本当の名前には一番下に「子」が付けられているのだけれど、小さい頃には、家族みんなで「お」を付けて呼んでいたらしい。
小さい頃のことを少し書いてみよう。
私の生まれた家は、商いをしていた。
あの頃、田舎の商店街の店舗の上と裏は住居になっていて、お店で働く人や家事を手伝ってくれる人たちの部屋もあった。
そこには、大きな柿の木が1本あって、秋にはたくさん実を付けた。
しかし、これが残念なことには渋柿だったのだ。
そこで、祖母や誰かが縁側の軒に柿を縄で吊るし、干し柿にしていた。
私は、まだ早いかしら?という声を背中に聞いても、こっそり手に届く範囲のものをちぎって食べてみたりしていた。
家の中では唯一の子供だったので、咎める者がなかったのだ。
今はもう、その家はコンクリートの建物になり、思い出のかけらを示すものは何も残っていない。
このことで、私の父のすぐ下の叔父とは、疎遠になった。
いろいろな考えがあるのだから仕方がないにしても、思い出をぶち壊されてショックを受けた家族も多かった。
それに、兄弟がたくさんいると派閥が出来るようだ。
私は、兄弟ではないのだから尚のこと、親戚でも好きな人としかお付き合いをしない事にしている。
その家の近くには、私と同じ年頃の女の子がいなかった。
いや、もしかしたらいたのかもしれないけれど、私の遊び相手は常に男の子だった。
お人形遊びというのも申し訳程度にしたけれど、服を作ったり着せかえたりするのが好きで、他の女の子のように、誰かの想像する物語には入って行けなかった。
それに家の中で、大人にいろいろ言われながら「ちまちま」と遊ぶよりは、外で走りまわっていたかったような気がする。
祖父という人は穏やかな人で、私を見る時にはいつもにこにこしてくれた。
家をマネージしていたのは、実は祖母の方だったので、祖父は、仕事以外の時には、飼っていたインコや私の相手をしてくれていたり、一人で碁を並べていた。
昔は家名を継ぐのに、子供がなければ親戚などから養子縁組をするのは普通のことで、祖父も養子だったと聞いたことがある。
私には、それが大事なことかどうか判断が付かないのだけれど「ないところに満たす」という意味では、良いことかもしれないと思う。
大人になるまでそんなことは聞かなかったし、想像もしていなかったのだけれど、昔のことで、家の外には別の女性があったようだ。
仲のいい叔父や父が話す祖父の姿は、私の持っていたイメージとは、ずいぶんかけ離れていた。
父の所属していた剣道部が全国大会で優勝したほどの強いチームだったので、かなり達者だったそうだけれど、祖父もとても強かったらしい。
その頃は、経済状態の悪化して行く田舎の街中ということで治安が悪く、ゴロツキのような連中があって、ある日まだ幼かった叔父と一緒に歩いていた祖父が、囲まれたのだそうである。
祖父は叔父に「家に帰れ!」と言ったので、その言葉に従い家に走って戻ると10歳ほど年の離れた私の父を呼び、自転車に二人乗りをして現場に戻ったそうである。
ところが、祖父は、持っていたこうもり傘を得物に代えて立派に戦っていたらしいのだ。
今からすると、ただ野蛮な話だろうけれど、まだ戦後の頃の話である。
兄弟は吃驚して、父親に対する畏敬の念を抱いたとか。
私の父も強い人だった。
でも、祖父にしろ父にしろ、私に対してそういうことを全く見せなかったのだ。
近くの道場で子供たちに教えていたりすることはあったけれど、私自身は、剣道を学校で1年習ったきり続けなかったので、それも見てはいない。
しかし、父の趣味のバイクは私も好きになった。
私にとっては、祖父も父も「絶対」に強く、頼れる存在だった。
それは、男をむき出しにするという意味ではなく、内にある強さなのだ。
それが私の思う、理想の男性像の一部になって行ったのだろうと思う。
ところが、祖父や父のような男性を探そうにもなかなかいないのだ。
時代の変化ということもあるかもしれないけれど、今になってみると、私自身が勘違いをしていたり、祖父や父の中の他の部分を見落として来た所為ではないかと思う。
私は彼らの弱い部分は見ていなかったし、また彼らも私に見せなかったのだ。
男性と親しくなると、相手には弱い部分があることを知る。
人間には弱いところがあるのに、その男性が特別に弱いのだと思いこんで、そんな当たり前のことに長い間、気が付かなかった。
男性とは、どんなに叩いても蹴飛ばしても壊れない、サンドバッグのような強さを持った生き物だと勘違いしていた私に、「君のお父さんのような人はなかなかいないんだよ」と言った人があった。
それが、考えるきっかけになったと思う。
父が早くに亡くなり、以来「ファザコンだよね」とよく人に言われた。
自分でも、そうだったと思う。
ただ、少しずつ気がつき始めていたことは、100%男性とか100%の女性という存在などないということだ。
人は、どこかに女性っぽいところや男性っぽいところを持っていると思うのだけれど、それらはかなり曖昧な話で、分けて真直ぐに線を引くことなどできないだろうと思う。
もしも男性が、ひたすらガサツで人の意を汲むことのない横暴な生き物だとしたら、付き合うのは嫌だったろう。
しかし、男性っぽいということのイメージは、往々にして荒々しいことが多い。
かと言って、ひ弱でいつも人に頼ってめそめそしてばいかりいる女性も嫌だ。
でも、女性のイメージには弱さとかナイーブな感じが含まれているように思う。
バランスの取れた人は、そんな風に極端には見えない。
つまり、一人の人間の中にはいろいろな要素が入り混じって一つの人格を形成しているので、男性女性というだけでは分けられないことだろうと思う。
私はバイクにも乗れば、バレエもした。
それから女性のおしゃべりには、上手に入って行けないから口数が少なく見える。
一つには、彼女たちのおしゃべりが早いということもあるのだけれど、例えば、タレントに憧れたり、流行を追いかけたりすることに殆ど興味がなかったのだ。
それにTVをあまり観なかったので、話題について行けなかった。
こういうことが理由でグループを作るのが苦手なので、”みんなと同じ”は出来ないけれど、気が付くと自分のポジションを確保していた。
「そういう人」というポジションで、これがとても居心地がいい。
だからと言って、私は普通に女性だろうと自覚をしている。
ただ、もしも自分が男性だったとしたら、男性の中にあって、女性である時と同じような行動をとっていたのではないかと想像できる。
私は、男性とも女性とも、対等な付き合い方をしてしまう所がある。
それは、すぐには恋愛感情が湧かない代わりに、友情を持ってしまうからだと思う。
但し、線引きがはっきりしているので、好みの人とそうでない人をはっきり分けてしまう。
それは、私がとても臆病だからだ。
出来るだけ裏切ったり裏切られたりして傷つきたくない、と思いながら生きている。
だから時間をかけて相手を眺めながら決めることが多いのだけれど、何故か出会った一瞬で決まってしまうこともある。
こう書いてみると、お付き合いする人を選択する条件も、実に勝手であいまいな話だと思う。
その上、間違いということがある。
好みでないと思った人が時間が経過した後で、実は相手も自分と同じように臆病な性格で、自分自身を晒して見せてはくれなかったが故の勘違いで、本当は私にとって、とても魅力的な人だったと気が付くことがあるのだ。
ところが往々にして、そういう事情ですれ違ってしまうことも多いと思う。
ひとつだけ、はっきりと線を引く例を挙げてみたいと思う。
家に誰かを招待したとしよう。
何度引越しをしても、客と応接する場所は、大抵の場合決めてある。
なので、客が玄関を入ったら、そこへ案内をするのが普通のことだと私は思っている。
逆に自分が客になった時にも、玄関に入れてもらったら、そこでいったん立ち止まる。
ところが中には、いきなりイニシャティブをとり始める人があって、すたすたと入ったかと思うと、そこかしこのドアを開けて見て回るのだ。
別に持ってはいけない何かを隠し持っている訳でもないのだけれど、そういう人は苦手だ。
例えば母国にいたとしたら、自分の生活の周辺にいる人以上に、お付き合いの範囲が広がることは少ない。
なので、自分と大きくかけ離れた常識を持つ人たちと接触する機会は多くなかったと思う。
ところが海外に暮らすと、日本人というだけでお付き合いの始まることがある。
そうすると、日本で暮らしていたら、絶対の出会わなかったのではなかろうかという人たちに出会うこともしばしばあるのだ。
日本に暮らしていて、日本人というだけで全員と友人になれるわけでもないのだから、それは、どこでも同じことだ。
これを我慢して無理やりにお付き合いを続けてしまうと、大きなストレスになったりする。
こういうことは、男女の性別とは全く関係がない。
ただ、ご夫婦でも、常識の違う人たちもある。
そういう場合、お付き合いするご夫婦の内、ご主人はいいけど奥さんは嫌という訳には行かない。
その逆に、ご主人は嫌だけど、奥さんとはお付き合いできるとしたら、それは可能なのだ。
それは、私が女性だから。
何とも不便なことだと思う。
最近、とある日本のお医者様が紹介して下さった記事がある。
薬指に比べて人差し指が短いと男性的志向が強い
http://mtpro.medical-tribune.co.jp/mtpronews/1008/1008015.html
これは、占いではなくデータだ。
私の人差し指は両方とも僅かに短い。
ということは、男性的志向が強いということになる。
では男性的志向とはどういうこと?
もしも男性ということになっても、私は嫌だとは思わない。
それで、自分の何かが変わるわけでもないと思うから。
「性同一性障害」で、病気であることの定義は、自分の中に違和感を抱えているかどうかということのようだ。
私は、外科手術やいろいろな手段を使っても、これを完全に克服する事は難しいのではないかと思っている。
要は、自分の心の持ちようが大切なのだという気がしてならない。
親戚の子にも一人いるけれど、もっとフレキシブルに考えなければ、自分を壊してしまうように見えるのだ。
もちろん、こだわりがあって承服できないから病気と呼ぶのではあろうけれど。