田舎の子供だった
今朝は風が強く、窓越しに竹が大きく揺れているのが見える。
それだけで、何か心が騒ぐような気がするのはどうしてだろうと考えてみる。
映画のシーンにもよく使われるような光景だけれど、特にこれという記憶があるわけでもない。
私は、9歳になるまで九州の田舎で育ったので、子供の頃の大部分を、そこで過ごした。
台風の通り道で、風が吹くと、どういう訳かワクワクしていた。
子どもという年齢が何歳で終わるのか分からない。
けれども、ティーンズに入ってからは、そこに大人の感覚も混在していたように思えるのだ。
そうすると11歳くらいまでが純粋に子供なのかもしれないと思う。
私は3月生まれで、9歳の誕生日を迎えてすぐに引越したから、実際には8歳までの時間を田舎で過ごしたいうことになる。
都会で育つ子供たちは、きっと親が交通事故のことや、誘拐や、そのほかの犯罪に巻き込まれる危険性などを考えて、きちんと門限が決められていたことだろうと思う。
子供たちがまだ携帯電話を持っていなかった時代だから、尚のことだ。
しかし、門限をきちんと守ることは、親にとっても安心が出来て楽だし、時間の区切りがきちんとできるから生活も規則正しくなる。
しかし田舎では、その辺りの事情が少し違っていた。
私の父の家では、長男が戦死をしていたので、次男である私の父が跡継ぎということに決まっていたので、父は、学生時代を都会で過ごした後、田舎に戻った。
しかも、一目惚れをしたという私の母を連れて。
田舎のことだし、父以外は全員お見合いで結婚をしている。
結局、祖母と母の仲の折り合いがつかなかったことなどの理由で、父は家を出て独立し、都会へ出ることになる。
そういう大人の事情は置いておき、家が商売で忙しかったので、子供の私には自由があった。
一番小さい時の記憶は、保育所時代。
祖母の親戚のお寺の中に保育所があり、御堂で踊りなどのお遊戯をした記憶がある。
私は、弟の生まれる7歳までは、一人っ子として育ったので、兄弟のある子供に比べるとのんびりしていた。
その子の名前は憶えていないのだけれど、目のくりくりとした女の子が私の世話を焼くのが好きで、保育所から帰る時にコートを着せる役などを、いつも買って出てくれていた。
その記憶は、台詞のないフィルムのような感じで私の頭の中に残っている。
祖父母の家には働く人達がいたし、父の兄弟たちもあって、相手になってくれる相手には事欠かなかった。
自分では憶えがないけれど、かなりのわがままではなかったかと想像する。
祖母の家で働くあっちゃんという朝鮮籍の女性に大切にしてもらい、たくさんの愛情を傾けてもらった。
田舎ではあったけれど劇場や映画館、デパートなどもあったので、、県下では大きな街で人通りはにぎやかだった。
昔、近くに炭鉱があったのだそうで、その名残で栄えていたものと思われる。
近所の男の子たちが遊びに来ると、私が「おやびん(親分)」になってお馬にし、彼らの背中に乗っていたらしい。
この記憶はおぼろ気に残っているのだけれど、いじめていた訳ではなくて、男の子たちが女の子をいじめてはいけないと親に言われて優しくしてくれる態度に乗じていたのだという気がする。
そして同じ頃、商店街のアーケードを走り回っていると、誰かが心配をして連れて帰ってくれたりしたのだそうだ。
「顔を見れば、どこのお子さんかわかります」と言われたと祖母が笑っていた。
私としては、周囲の子たちと横並びというつもりで、女の子だという意識は持っていなかったと思う。
なので、男の子たちと何百メートルかの遠出もしていたのだろう。
家族のみんなが私の名前の下に「お」を付けて呼ぶので、調子に乗ってお転婆をしていたような気もする。
この頃、私は大事な赤いぬいぐるみの生地で作られたバッグを持ち、掘りごたつの中に隠れていて焦がしてしまった。
それがショックで、長い間、悲しかった。
代わりを買ってもらっても嬉しくはない。
あのバッグが良かったのだ。
だから、自分が持ち続けられないことを知って、その後はバッグにこだわりを持つことはしなくなった。
失望するのが嫌だったからだ。
食べ物については難しかしい子供だった。
まず、食べることが嫌だった。
物を口に入れて噛み砕いて飲み込むという、その作業が既に嫌だったのだ。
記憶に残る好きな食べ物は、甘く炊かれたにんじん。
それ以外は、いつも、食べなさいと言われるので仕方がなく、無理に食べていた記憶がある。
もちろん、おやつは別なのだけれど。
ご飯を食べないからおやつを制限されると、もっと食事が嫌になる。
父が心配して薬を買って来た。
『タカジアスターゼ』と書かれた瓶があったのを憶えているから、あれは、もっと大きくなってからのことかもしれない。
そう言えば、大人になって自炊をし始めるまで、あまり食べ物には興味がなかった。
ある時、ジャコを食べると、それが歯に詰まってしまい、楊枝を使って取ったことがあった。
取れたものを何かと見てみると、ジャコの目がいっぱい。
それ以来、ジャコに頭が付いていると食べられなくなり、それを祖母が取ってくれた。
私は、こんな子供の親でなくて良かったと思う。
三月生まれの子供というのは大変だ。
小学校へ入学しても、他の子供たちの中で一番成長が遅れているから、追い付くのに時間がかかる。
ところが、私は学校へ行くのが面白くなかった。
何故ならじっと座って、先生の話を聞かなければならないのだ。
いじめにあったとかそういうことではなかったけれど、学校という枠になじめなかったのだと思う。
私は特別に小さい子供だったので、小動物的な扱いでちやほやされ、上の階にいる6年生のお兄ちゃんやお姉ちゃんがおんぶしてくれたりするのは嬉しかった。
そういえば、休み時間に教室に蛇が出たことがあった。
先生がいないので、どうしようかと思ったけれど、私は上の階のお兄ちゃんを呼びに行くと、すぐに降りて来てくれて、「みんな離れとけよ~」と言うと尻尾をつかみ、くるくる振り回したあと、窓から遠くへ投げてしまった。
私たちは、大きいお兄ちゃんはスゴイと感心した。
それなりに面白いこともあったのだ。
けれども、もうひとつの問題として、私には学校へは毎日通わなければならないものだという感覚が抜けていた。
ちょうど1年生の5月に弟が生まれたこともあって、周囲は忙しく、私は友人たちと自由を謳歌していたのだろうとも思う。
まずは朝。
友人と一緒に通学途中の野原で、ちょうちょ取りを始めると、時間を忘れてしまう。
つまり、そのまま学校へ行くのを忘れてしまうのだ。
その頃は、学校から家に電話をかけられるということがなかったので、翌日、すまして学校にいると、特に誰にも咎められなかった。
それから休み時間。
小学校は、丘の上にあった。
そこから更に山道を登ると中学校があり、その辺りにも虫やトカゲ類などの生き物が潜んでいる。
休み時間に、友人たちとそこへ行ってしまうと、チャイムが聞こえない。
いや、正確に言えば、気にかけていなかったのだろうと思う。
ふと気が付くと下校時間を過ぎていて、友人たちと誰もいなくなった教室に戻り、ランドセルを背負って下校したことが何度かあった。
しかし、世の中は、そんなには甘くなかった。
担任の先生は年配の穏やかな女性で、校長先生は祖父母の知り合いのおじさんだった。
それとは関係がなかったと思いたいけれど、夏休みに入ると、毎日、友人たちとバスで3つ目くらいの停留所の前にある担任宅に通うことになった。
最初は、「おやつを食べに来なさい」と騙されたのだ。
その内、お勉強が遅れているから行かなければならないことを諭され、そういうものかと観念をした。
それ以来、学校には休まず通うようになった。
でも記憶にあるのは、つらかった夏休みの宿題や、遠足や観劇、月の観測などで、一生懸命または楽しくお勉強をしたことはなかったのだと思う。
それから給食が始まると、これにも苦労をした。
小さな私には、牛乳を1本も飲めるわけがない。
パンも多すぎるし、おかずも嫌いだ。
牛乳とおかずは、近くに座る男の子に食べてもらい、パンは下校途中の野良犬に上げた。
ある日のこと、もうそろそろ仲良くしてくれてもいい頃だと思って頭を撫でようとしたら、その犬に中指を噛まれた。
数日放っておいたのだけれど、指が腫れて来たので仕方なく、遊び仲間のお父さんがお医者をしていた病院へ行った。
今でも、犬の歯の型とメスで切られた痕が残っている。
そうして家に帰ると、毎日、暗くなるまで外で遊んだ。
今のようにゲーム機械もなかったけれど、他の家で遊ぶ種類のものも流行らなかった。
あの頃は、いくらでも遊ぶ場所が見つかったのだ。
近くには小川があって、男の子たちの中には、オタマジャクシをすくうのに、川へ入って行く子もあったけれど、私は濡れるのが嫌だったので、ただ眺めていた。
それから廃線になった国鉄の線路跡が道路に変わるまで、そこへは車も入って来られず、子供たちの遊び場になっていた。
そこでは、枕木を積んだところを基地にして、男の子たちと戦争ごっこのようなことをしていた。
あれは、おそらく家からは1kmくらい先ではなかったかと思うけれど、神社があって、境内へ登るまでに長い長い階段があった。
境内の横には公園が作られていて、ジャングルジムやすべり台、ブランコなどの遊具があったので、よくみんなで出かけたものだった。
みえちゃんという友達がいた。
大人しい子だったけれど、とても性格のいい優しい子で、時折お互いの家で遊んでいた。
この子の家は少し離れていて、小さな山の向こう側だった。
ある日の夕方、家に戻るのに近道をしようと思い、神社の公園のところまで来た時、犬の唸り声が聞こえた。
その頃、「山犬」がいると噂されていたので、まさかとは思ったけれど、4頭も寄って来て囲まれる形になり、怖くてどうしたらいいのか分からない私は動けなくなってしまった。
周囲を見回すけれど、誰もいない。
犬が襲って来るかもしれないと思うと、恐ろしかった。
するとその時、ちょうど同じ近道をしようと通りかかったらしいお兄ちゃんが走り寄って来て、大きな声で「すべり台の上に登れ!」と言う。
私の立っていた場所から、遠くないところにすべり台の階段があった。
必死に登って様子を見ていると、お兄ちゃんは棒きれを振り回し、犬を追い払っていた。
私は幸運だったと思う。
あの時、お兄ちゃんが来てくれなかったら、どうなっていたことか。
お兄ちゃんに「あれ、山犬だった?」と尋ねると、「野良犬やろう」と言った。
そして、お兄ちゃんは、神社の階段の一番下まで一緒に歩くと、「じゃあな」と帰って行った。
家に帰って母親にこのことを告げると、家によく遊びに来ていた父の友人のおまわりさんに話すと言っていた。
それにしても、お礼を言わなければならないのに名前も聞いて来なかった、と叱られた。
あの頃、未来は白紙のままで、時間は永遠に目の前に横たわっているかのように見えた。
まさか日本を中心に見た世界地図の、西の果てにまでやって来るとは想像もしていなかった頃のことだ。