言えないこと
これはひとによって随分と違うんだろうなぁと思う。
年齢を重ねることによって、ある程度人間が厚かましくなれるということもあるけれど、海外に出ても、その文化の摩擦によって言えるようになることがあるのだと分かった。
人を傷つけたくないというのは私の会話の基本だった。
日本とこちらでは感覚が違うので、日本語と同じように言葉を訳して話しても、考えを理解されないことも多い。
分かりやすい例は、やはりジョークだと思う。
こちらの人たちはシニカルなジョークを好むので、私には揶揄としか思えず、笑えない場面に何度も出くわして来た。
数年前に驚いたのは、ラジオで言っていたことだ。
「これから、目の不自由な人、xxの不自由な人……って呼ばなくちゃいけないって言うんだけどさぁ、じゃあ、死んだ人は何? 心臓の不自由な人?」
これで咎められるようなこともなく、周囲が笑ったことにもっと驚いた。
これは言論の自由?
何なのだろう?
昔は日本でもそうだったと思う。
でも、それはもう随分前のことだ。
それに一度決定したら、社会全体の流れというものがあるので、こんな事を言う人はいないと思う。
ここは先進国のようで、こういうことに関しては緩いのだ。
こんなジョーク、全然おかしくないと私は思う。
逆に反発を感じるくらいだ。
あれから何年か経過しているので、勿論変化は見られるのだけれど、それでも年代によっては、まだちゃんと理解できていない人も見かける。
日本では、はっきりと言いにくいこともたくさんあった。
先日書いたように、招待を断る時にはここでも遠回しに言わなければならない。
でも「何を飲みますか?」と訊かれた時に、「結構です」と遠慮して日本語のように答えると、そのまま何も出て来ない。
以前日本人留学生で、1年間暮らしたアパートを追い出された女の子があった。
その後短い間、私のところや友人宅に居候をしていたのだけれど、彼女は食事の時、地元の人間に「何を飲む?」と訊かれても理解できないので私の顔を見ていた。
それを説明をすると「お水で」と答えたので、「お水をください」と訳した。
こういう話し方は私の好みとしないと思いながら、まだよく知らない人でもあるので黙っていた。
ところが、みんなでワインを飲み始めると彼女がグラスをじっと見ている。
気が付いた地元の人が「君も飲むか?」と尋ると、「はい」と嬉しそうに言ったので、私は遠慮をして言えなかったのだということに気付き、解決して良かったと思った。
ところが彼女のグラスにワインを注がれるようすを見ていると、彼女が「お~、お~」と言っているのだ。
何だかよく理解出来なかったけれど、昔TVドラマで男性が「おっとっと」と言っていた場面を思い出した。
私はその場で注意しようかとも思ったけれど、隣に座っていなかったこともありいくら若い女性とはいえ、みんなの前で注意すると筒抜けになるので恥をかかせてはいけない、という思いから後で注意をした。
第一、もう遅い。
彼女が席を立ったところで「どうしてあの子は、ありがとうと言わないのか?」と尋ねられた。
一瞬だけ「あの『お~』というのはありがとうの代わりなのです」と言って誤魔化そうかとも思ったけれど、それでは嘘になると思い「分からないが、最近の流行ではないでしょうか?」と答えた。
しかも「日本人は、ワインの飲み方を知らない。ビールと同じように飲んでしまう」とお叱りを受けたけれど、それは私にもよく分からない。
まぁ、ゆっくり飲む分には非難されないのだろう。
ただ「ありがとう」と「ごめんなさい」を言うのは、万国共通の基本ルールではないかと思うけれど。
ここには三者三様の言えないラインがあった。
日本人の彼女の常識では「ワインが飲みたい」と言うのは厚かましいと思ったのだろうし、欧州人は、相手が若くても「何でありがとうと言わないの?」とは訊けなかった。
私は間にいて、両方の気持ちが分からなくもないけれど、いろいろ考えることもあって言えなかった。
「何が飲みたい?」と尋ねられたら、「赤ワイン、ありますか?」と尋ねても失礼ではない。
でも遠慮の感覚を引きずっていると、これは簡単なことではない。
それから、いまだによく飲み込めないのがVous と Tuの感覚だ。
言葉では理解が出来るけれど、目上の人でも意外と早くに「Tuでいいよ」と言ってくれる人もある。
でも、やはりリスペクトをしなければならないというその辺りの感覚が難しい。
日本でなら、目上の人に対してずっと敬語のままでもいいのに、中途半端に「いいよ」と言われても、上手くTuが使いこなせないのだ。
日本語の感覚で言えば、敬語を使うから親しくないかと言えばそうではない。
目上の人には敬語を使うのが当然で、気が楽ということもある。
しかし「いいよ」と言われてしまうと、無理にも使わなければならないような感じになり、だんだん気を遣うのが煩わしくなる無口になってしまう。
ここでは、遠慮をするという奥ゆかしさは通用しない。
恥ずかしがっているということも、大人だといけない。
両方とも、それを言う能力がないとみなされる。
これについては、私も多いに失敗をして来た。
あるパーティーで足の悪い人の為に飲み物を運んで来ると、横から余計なことを言って来るCという女性があった。
「私はねぇ、たくさん本を読んでいるからアジアのこともよく知っているわ。あちらでは、女性の方が地位が低いのでしょう?」
「まぁ、国によりますね」
「ここではね、女性の方が強いのよ。堂々としていたらいいの」
私は、彼女の非難めいた口調から、おそらく飲み物を運んで来たので、そのことを言っているのだと分かった。
でも長く欧州にも暮らし、日本の国籍を持っている私に対して、何年前のどこについて書かれたのかさえわからない本の知識を持って来て仰るのだから答えようがない。
正直に言えば、むかっと来てしまったので、感情的に話すとせっかくの他の人たちの楽しい雰囲気を壊してしまう恐れがある。
それに、足の悪い人がいる前で、この人は足が悪いので持って来たとは言えないと思った。
これが1年前のことなのだけれど、またCと一緒になりそうな機会が出て来たのだ。
考えてみれば、あの時にも言おうと思えば言えない訳ではなかったのに、いつも、あれこれ考えてしまう自分がいて言えない。
当然、彼女はまだ誤解したままである。
次に会った時には、やはり説明をするべきかとも思うけれど、これが迷う所だ。
私は別に日本人代表ではないのだけれど、田舎の、それも日本人はおろか中華料理店以外には、他のアジア人さえ見ることもない人ばかりの特殊な環境の中に在る。
そうすると他の人にとっては、私だけが唯一の日本人でありアジア人であるということになるので、存在に興味を持たれてしまうのだ。
このプレッシャーはきつい。
なので出かけたくないと思うこともあるのだけれど、そうも行かない。
この次、Cに会った時に、蒸し返して言うべきかどうかというのも難しい。
次回は私の友人とも一緒になりそうなので、そんなことを言って来ることはしないだろうとも思う。
自分の学んで来た常識やモラルが理由で「言えない」としても、ここではそれを理解出来る人は、まずいない。
言わない=言う能力がない(言語と知恵)と馬鹿にされるので、言わなければならないといつも後で思う。
でも、やはりそういう場面に遭遇すると、なかなか言えない自分がいるのだ。