ナガサキの日に
65年前の今日、長崎に原子爆弾が投下された。
実は、早くに亡くなった私の父の9人兄弟の内、もっと早く亡くなった長兄が、長崎医科大学で亡くなっている。
当時、学生だったので、夏休みだったはず。
もしも実家の福岡に帰っていれば助かっていたのだ。
私は、小さい時から祖母の繰り言を繰り返し繰り返し聞いて来た。
明治生まれでお寺出身の祖母は、気持ちのしっかりした人だったけれど、子供が先立つというほどの悲しみは他にないと言っていた。
私の会うことのできなかった、その伯父は、爆撃で負傷した後、片腕片足を失くし、その体で列車につかまって最寄りの駅まで帰って来たのだと言う。
その頃の我が家は、田舎の市街地ではそこそこ大きな店を経営していたので知り合いも多く、ご近所の誰かが伯父を駅で見かけてリヤカーに乗せて連れて来てくれたのだそうだ。
結局、自宅で息を引き取ったのだけれど、私の父に「仇を取ってくれ」と言って亡くなったらしい。
本当に悔しかったのだろうと思う。
戦時下のことだし、真夏でもあり、お葬式にもお供えするお花がないと悲しんでいると、これもご近所の人が夾竹桃を持って来て下さったらしい。
戦争は憎しみと悲しみしか生まない。
今回のイラク戦争で帝国のエライ人たちも、少しは思い知ったことだろうと思いたい。
その時まだ幼かった父は、戦後の日本で成長しながら、元の敵国を睨み、どうして仇を討とうかと考えていたらしい。
しかし、そのあまりにも大きな国に対して、個人では抗うことは出来ないと気がついたと話していた。
せめて、その国を見てやろうと旅に出てあちこち歩いていると、映画の撮影に出くわし、エキストラに雇われて、幾ばくかのお金を稼いだと笑っていた。
それから大陸を実感したくて、歩いて国境を渡って来たよと嬉しそうに話していたのを覚えている。
あれは、数年前のこと。
クリスマスをマラガ(スペイン/コスタ・デル・ソル)で過ごそうとインターネットで探していると、幸運なことに4つ星ホテルの滞在型旅行がバーゲンで出ていた。
ホテルはなかなか立派で、施設も充実していた。
毎晩、ラウンジ・バーでショーがあり、出かけると殆どがお年を召したイギリス人カップルだった。
ラウンジは満席に近く、相席をお願いしたテーブルは、もうすぐ80歳になると仰るスコティッシュのお祖父さんとウェールズ(だったか?)の奥さんというカップルのお隣だった。
自称、人見知りをする私が席で様子を眺めていると、お婆さんが私の手を引いて一緒に踊りましょうと、ダンススペースまで連れて行ってくれた。
イギリスの踊りは良く分からなかったけれど、ステップ自体は難しくなかったので、盆踊りの要領で皆さんの後ろをついて歩くと、何とか踊ることが出来た。
その内に、喉自慢のお婆さんが歌手に代わって歌を披露したり、私の周りでは、その場で仲良くなった人たちの会話に花が咲いていた。
私は外国語が得意な訳ではない。
でも、ある程度は英語が出来ると思っていた。
なのに隣のスコティッシュのおじいさんが何を言っているのか、殆ど分からない。
半分、冷汗をかきながら、何度か聞き直していると「心配しなさんな。僕の妻だって50年も一緒にいるのに、僕の言っていることが分からないんだよ」と笑ってくれる。
私の耳が米国英語に慣れているせいだろうか?
いや、近頃はそうでもないのに…とも思うけれど、スコティッシュ訛りはきつかった。
その時おじいさんは、昔、自分が海兵隊にいて、原爆直後の長崎へ行った時のことを話してくれていた。
「あれはねぇ、地獄だったよ。本当に、ひどかった……。あんなことは、絶対にしちゃいけなかった」
私はその時、どうして、このおじいさんが私に原爆の話をしようと思ったのかを考えていた。
表情を見ていると、おじいさんには、決して時折受ける種類の理不尽な非難は一切含まれていない。
日本という国と国民がファナティックだった結果、戦争が泥沼化したというような意見を吐く人もあるので、傷つけられまいと防衛反応が働き、先にそういう種類の何かが含まれていないかを確認してしまう癖がついている。
勿論、私は日本人代表な訳ではない。
でも、海外で日本人がたった一人の環境の中に身を置く機会があると、決まってそれと似た立場に置かれているように感じてしまう。
このおじいさんは単に、自分と一緒にその時の日本の地を踏んだ人以外の人にも、それを伝えてシェアしたかったのではないかと思う。
戦争を起こしてはいけない事を、その悲惨さを見たことによって心に深く刻んだ内のお一人ではなかっただろうかと思うのだ。
戦後60年を過ぎてもなお、その時の情景が目の前に見えるように遠くを見つめながら、話してくれた。
私は、どうしてそんなことを私に話したのかとも訊かなかったし、私の伯父が亡くなっていることも告げなかった。
ただ、「戦争は、ただ悲しみでしかありませんよね」と一言だけ相槌を打った。
先ほど、時折日本のファナティシズムについて非難を受けることを書いた。
神風特攻隊を、そういう風に理解している人たちもあるのだ。
少し前に、「俺は君のためにこそ死にに行く」という映画を観た。
作った人のことは好きではないけれど、鹿児島で証言した女性の話が元になっているということだったので、観たかったのだ。
「迷うなよ。靖国神社の二本目の桜の木の下で会おうな」と声を掛け合って、死んでいった若者たちがいたことが描かれていた。
それは上官からの命令であり、憲兵や国家警察に家族が人質に取られているような感覚で、NOとは言えない、そして、絶対に行かざるを得ない状況が背景にあったということを、外国の人たちにも理解してもらいたいのだ。
日本人が全員ファナテイックだった訳ではない。
そう見える18歳の若者がいたとしたら、国家からの洗脳以外の何物でもないと私は思う。
「英霊」という言葉が私は好きではない。
無理やり、そうさせられた人たちがあるのだ。
祀り上げてもらったところで嬉しいかどうか、疑問に思ってしまう。
それよりも、その言葉を使うことを免罪符として、戦争責任者の罪を軽くしてはいけないと思う。
私は死んだ後に、心だけが残って彷徨うとは信じていないのだけれど、確証がある訳ではない。
誰かが死んだ後、そこで会おうな、と待ち合わせをしたとしたら、人情として、そこは大切に置いておきたいと思う。
自爆して行った若者達の骨などは残る訳ではないので、彼らを大切に思う遺族が残っている限り、靖国神社は、その人たちの為に大事にしておくべきだと思うのだ。
戦争犯罪人を一緒に祀ることは、もしかすると他国の人々の感情以前に、胸に引っかかりを覚える人がないかとも思うけれど。
6日の広島での慰霊祭へのコメントとして、この国の大学の先生が「十万人の兵士の命を救う為(原爆の投下理由として米国が述べたこと)に十万人の民間人の命を奪うとはシニカルな話だ。あれは、実験だった」とインタビューに答えているのをTVで観た。
これで少し溜飲が下がる気がした。
5年前、TVの各チャンネルで軒並み戦後60年特集番組を組んでいたのを観たけれど、大抵の番組は、トラトラトラなどの戦争映画を切り取って説明しお茶を濁しただけで、日本まで行って取材したのはARTEというフランスのチャンネルだけだった。
あの頃はまだ、米国経済をよりどころにしていたところがあったけれど、斜めに見てみると、経済の衰退だけではなく、イラク戦争の状況も含め、この5年で世界の見方が変わって来たということもあるのではないかと思う。
姪の私としても仇討の資格はあるかもしれないけれど、やはり太刀打ちは出来ないと思っていた。
これは、笑い話として読んで頂きたいと思う。
もう10年前の話だ。
私には、事情があって、1か月余り、日本を出てドイツを中心に欧州を放浪していた。
その日は、朝市をぶらぶらした後、お昼近くに雨が降り出した。
どこかで雨宿りをしたいと眺めるけれど、広場のカフェは、どこも満席に見えた。
その時、目の前にいた楽隊の衣装を付けた大きな体の髭のおじいさんが、ほんの少し、体をずらすと、私の座るのには十分な席が出来、ここへ座れと合図をしてくれた。
眺めると、どうもみんな相席をしておられる様子で、お向かいはスペイン人女性の二人組だった。
席を作ってくれたおじいさんはドイツ語しか話せず、私は、ヤーと、ナイン、ダンケシェン、ビーテシェンくらいしか話せない。
そういう訳で会話は成立しなかった。
しかし、観光地にいる限り、ドイツでは英語が充分に通じる。
中には流暢な日本語で話しかけてくれる人が何人もいて驚かされた。
さて、何を頼もうかと迷う前に、おじいさんがビールだろう?というようにジェスチャーで示してくれたので、いきなりビールを飲むことになった。
お陰で雨に濡れずに助かったので、おじいさんに感謝をして別れた。
その夜、ミュンヘンで食事をしようと、場所を探しているとビヤホールが目の前にあった。
中からは楽しそうな楽隊による音楽が鳴り響き、興味を引いた。
お店の前に、案内をする男性たちがいて、しきりに誘ってくれる。
まず女性一人でも安全そうなのを表から様子を見て確認し、食事が出来ることを男性に確認してから中に入った。
案内の男性と来たら、入れと言ったくせに見渡す限りの満席ではないか、と心の中で悪態を吐いていると、嘘のようにまたあのおじいさんが目の前にいて、お尻をずらしてくれた。
言葉は通じないがお互いの顔を見ながら、この偶然に大笑いをし、座らせてもらった。
お向かいには、ずらりと並んだ卒業旅行らしい米国人の群れ。
ビアホールのシートはベンチシートで、かなり横に長かった。
お向かいの席に座っている子達の中の一人に、体のかなり大きな米国人の女の子があった。
その子は、力自慢なのか、みんなにアームレスリングを挑んでいる。
私は、その様子をちらと眺めながら、微笑んでいた。
すると、その子が私「勝負する?」と尋ねるのだ。
当時、161cm・45kgの私は、どこから見ても彼女とは対照的に小さい。
一瞬迷ったけど、筋肉質の私だ。
実は、そんなに弱くないのを自覚してもいたので、勝負を受けてみた。
きっと誰もが彼女の勝ちを予測していただろう。
でも、彼女は体重を載せるなどのトリックを使わなかったので、いや或いは、完全にお舐めあそばしておられたのだろう。
あっさりと勝ってしまった。
すると、意外にもかなり注目を集めていた勝負だったらしく、楽隊の音が聞こえなくなるくらい周囲が湧いた。
次いで、どこからか、なみなみとビールの注がれたバケツのように大きなビアグラスが私の目の前に賞品として置かれた。
やった~! 勝った。
そこでふと思い出して、心の中で呟いた。
「お父さん、私、仇を討ったわ」