欧・米と日本
欧米という言葉をよく目にしたり、耳にしたりする。
けれども多くの部分で、欧と米は同じではない。
欧州に住んでいて、その文字を見る度に違和感を感じている。
欧にはEUがあるので、それぞれに国の事情は違っても、一緒にまとめて呼ぶことができる場合も多いと思うけれど、これも違う場合が多い。
まぁ、考えてみれば当然なのだ。
それは日本とアジアを一緒にして総称するようなものなので、そうすると違いのあることは分かって頂きやすいと思う。
例えば、欧州内では、お互いをからかうジョークがある。
通貨統合の際には、それらは絵葉書にも使われていた。
例えば、それは、こんな感じ。
・天国へ行けば、
経理をイギリス人が担当し、機械はドイツ人が担当する。料理はフランス人担当で、恋人はイタリア人。
・地獄へ行けば、
経理をイタリア人が担当し、機械はフランス人が担当する、料理はイギリス人が担当し、恋人はドイツ人。
そのココロは?
イギリスは、経済的には繁栄して来たが、料理のイマイチ(^^;)なのは有名。
ドイツは、機械の技術は確かだけれど、硬くて真面目で面白みがない。
フランスは、料理がおいしいけれど、機械には弱い。
イタリアは情熱的な人が多いけれど、経済的には良くない。
背景を知らなければ、このジョークはちっともおかしくないだろう。
これらの認識がしっかりとお互いの中にあって、初めてジョークとして成立する。
旅行でやって来て葉書を見た日本人が、首を傾げるのも当然のことだと思う。
しかしながら、感覚の違いを理解するというのは、なかなか難しいことで、想像力を駆使しても簡単には行かないものだと思う。
常識が全く違うので、気が付いたら外国では、自分が非常識になっていることもある。
旅行に出れば、「わ~、外人がいっぱい……」と思うけれど、あちらから見ればこちらが外人なのと同じ事だ。
だからといって常識の書き換えも、簡単にできることではない。
それは、子供の頃から肌にしみ込ませるようにして学んだ来たことだからだ。
私の知っている欧州(フランス語圏)の子供は、赤ちゃんの頃から、親に、ゆっくりしなさい、そうっとしなさい、静かにしなさいと言われ続けて育つ。
その結果、2~3歳になると上手にガラスのコップを使い、一人でスプーンを持って食事ができる。
大声で騒ぐ子は、ほとんどいない。
ところが、日本では、まだまだプラスティックの食器を使わせて、親が手伝って、少々失敗があったり、騒いだりしても、子供だからと許される年頃なのだ。
それでも、こういう事は、最終的に結果が同じなら、どちらでもいいことなのじゃないかと思う。
大きくなってから違うなぁと思う事もある。
たとえば日本では、「さっさとしなさい、みんなで一緒にしなさい」ということも学ぶけれど、こちらでは並ぶということが殆どないのだ。
そういう訳で、チームワークは苦手だし、時間の感覚は大まかで、その代わり、個性が育つように思う。(それがいいことかどうかは別として)
他にも違いはある。
人と接する時の態度として、こちらの子は、「はっきり言いなさい」と習う。
日本でも「は気」のあることは、褒められるのだけれど、厚かましくしてもいけないという教育を受けるので、結果として、「これ、嫌いなの、これが欲しいわ」と言う子供と、嫌いでも「どうも、ありがとう」と言う子供ができて来るのだと思う。
そうして大人になった欧州人と日本人を見ていると、まるで原因と結果を並べたように常識の違いが見えることがある。
ビジネスやお付き合いの中で、どちらの意見が通りやすいかと言えば、欧州人の方なのだ。
何故なら彼らには、日本人のようなきめの細かい遠慮がない。
時間に少々遅れたところで、気にして引け目を感じることもなければ、周囲に合わせることにも、日本人のように気を配らない。
ところが日本人は、まだまだNOが下手で、なかなか上手に言えないように見えるのが残念だ。
日本人の奥ゆかしさや遠慮深さは、こちらでは通用しないので、言えなければ、言う為の(考える)知恵や能力が欠けているとみなされる。
この辺りが日本人が生きていてギスギスとした印象を持ってしまう所だと思う。
また、私の暮らす仏語圏では、お行儀にうるさいことが多い。
しかし、旅行へ出てみれば、これは、英国やドイツ、、スイス、スカンジナビアの国々にも同じ事が言えると思う。
音を立てるのもいけないが、手を使うのもいけない。
米国人がナイフを使わずにフォークだけで食べるのをお行儀が悪いという人もあるくらいなので、なかなかうるさい。
基地が近いこの周辺のレストランで食事をしていて、騒がしいのは米国人だと言われている。
近頃は、ここでもジーンズで食事に出かける人も増えたけれど、さすがに短パンでは出かけない。
そういう訳で短パンで声の大きいのが米国人だと聞いて、まさかと思ったけれど、夏場には確かにその通りの人たちを見かけるのだ。
欧州には歴史があるので、伝統を重んじる。
でも、米国は少し違う。
例えば、お行儀にしても性格にしてもラフでオープンだから、日本人にとって付き合い易いのは米国人かも知れないと時々思う。
面白いのは、フランス人とベルギー人の違いで、フランス人の方が、まだはっきりとものを言う所があるけれど、ベルギーでは、もう少し、田舎の優雅さが残っていて、なかなかはっきりと言えない。
そういう習慣がないので米国人と英語を話す時の感覚で話をすると、きついと思われる。
私は既に女性を泣かせてしまったことがある。
使う言語によって、人格が変わるとはこういう事かな?と気が付いた瞬間だ。
言葉は、机上で学んだだけでは使えない。
文化という背景があるから。
そういう訳で、人格が変わって見えるというよりも、自分でそう感じて混乱をしてしまうのだと思う。
例を挙げてお話してみると……
ある日、電話がかかって来る。
Rrrrrrrrrrrrrr..............
「はい」
「こんにちは^^今週末、AさんのところでBBQパーティーしようって話があるんだけど一緒に行かない?」
さて、ここでどう答えるか...
私は行きたくないのだけれど、断り方が大切なのだ。
日本にいて、相手が友人だったら、「行きたくないのよ」と言う事も出来るし、「あ~、週末は、そのぉ、予定があって……」と言えば、相手が行きたくない事を理解してくれるだろう。
米国人相手だったら、「行きたくないの」で問題がないと思う。
でも、ここでは、それはとても冷たいと評価されることなのだ。
「あら...残念だわ。行きたいんだけどxxがあって、どうしても行けないのよ。ごめんなさい」と言わなければならない。
この点については、フランスとベルギー(フランス語圏)では同じらしい。
まぁ、日本でもこの答え方が丁寧と言えばそうなのだけれど、昔のお話ではなく現代で相手が友人なら、正直に話す方が後のお付き合いがしやすいと思う。
でも、いつも米国人の方がお付き合いしやすい訳ではない。
欧州人だけでなく日本人にとってもF-Wordsの連続で会話を繋げる米国人は苦手だし、ガムを噛みながら初対面で話しかけられるのも困るのだ。
あちらだって、麺類をずるずると音を立てて食べられると食欲を失くすと言う人もある。
これだって文化の違いなのだから仕方がないとは思うけれど、難しいのには違いない。
お箸でくるくると麺が巻けるわけもないのだ。
外国で暮らしていると、異文化の中にいるのだから、時折、心の中に摩擦が起こる。
アイデンティティーが崩れそうになった時には、自衛の為、周囲に遠慮することないよう自宅のダイニングの扉を閉めてから、わざと大袈裟にお箸でお蕎麦をずるずる食べてみるのがいいかも知れない、と時々思ってみたりする。