表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/17

やさしさとわがままの法則

久しぶりのエッセイです。

下書きばかりが増えて、言葉に魂があるのなら、そろそろもったいないお化けならぬ、待ちくたびれたお化けくらいにはなっているかもしれません^^;

日本で言うやさしさって、何だろうと考えてみる。


「ゆるす」という言葉が思い浮かぶ。

ちょっと西洋の宗教的で嫌だけど、こちらは消極的なやさしさだと思う。

自分の意見とは違っても、人の思いや考え方を受け入れたり、自分の考えとは違うと思う行動を受け入れたりすることが消極的なやさしさだと思う。

積極的なやさしさというのは、「たすける」ことじゃないかと思う。

困っている人や困る可能性のある人を事前でも事後にでも、行動を起こしてたすけること。

相手の意図を汲んだり汲まなかったりするけれど、こちらは積極的なやさしさだと思う。


受動的な行動は、先に相手の意思を汲むことが前提になっているので、別の問題は起こっても、やさしさという意味での失敗は少ないと思う。

ところが能動的に動く場合には、必ずしも相手の意図を汲んでいないので一人相撲になったり、全く喜ばれない可能性もあるので、失敗や無駄が多いと思う。


今度は、日本語でわがままについて考えてみる。

わがままというのは、人の気持ちを慮ることなく自己主張することだと思う。

それが積極的なら、NOというのは、頑なという意味で消極的なわがままになるかもしれない。

英語や仏語で、selfish=利己的、自分本位、わがままと訳されるし、egoist=利己主義的な、身勝手な(他人を無視する)などと訳されるけれど、日本語のわがままより、やや強い意味だと思うし、文化や背景が違うのでこれらを=わがままと捉えると、意味が違って来る。

日本語のわがままは、子供など、受け入れられる種類の行動も含まれているので幅が広いと思う。

なので、わがままという日本語を外国語に訳するのは難しい。


こちらで生きて行くのに自己主張をしなければ、お買い物もできない。

例えば、いつも混んでいるお肉屋さんの陳列棚の前で、たくさんのお客が待っているのに黙っていれば、どんどん順番を取られて、いつまで待たされるかわからない。

日本のように、きちんと並ぶわけでもなく、売る方も順番を憶えてくれているわけでもないのだ。

それに待たされるというのは、日本で同じ時間を待たされた場合を考えると、お客が怒って帰ってしまうレベルに達するのもしばしばなので、少々厳しい。

(例えばスーパーのレジでは、みんなが並んでいるけれど、間が開いていると横入りする人もあるし、レジのところで買い物した品物を自分で袋に詰めてから支払うので待ち長い。

つまり、自分の前に並んでいる全ての客が買い物袋に詰める時間と、おもむろにバッグからお財布を取り出し支払うまでの((中には、数えながら小銭を並べる人もある))時間を待たなければならないのだ。

しかしイライラはしている人もあるが、誰も文句は言わない。そういうシステムなのだから)

謙譲の美徳は理解されないし、日本の奥ゆかしさも通用しない。


つまり日本では、自己主張が強く見えて、しばしばわがままと呼ばれる行為が、こちらでは当然だったりするし、日本のサービスに良さに慣れた人間から見ると、こちらの人たちの気の長いのに驚かされるということがある。

文化の違いと言ってしまえばそれまでだけれど、ここで生きて行くのには学ばなければならないことだと思う。


こちらの人の中にいて、自分の意見をはっきり言わなければ了解したことになってしまう。

気が弱いとか、人見知りとかで言えなかった場合、日本人の中では、(言えなかったんだ)と受け入れて理解されることが、こちらでは(はっきりしない人)とマイナスに理解されてしまうこともある。

グループの中で話をする時に、結論から話し始めて後から内容を詰める方法を取らずにスタートすると、自分以外の先に強い意志をもって言った人の意見が常に通るのは普通のことだ。

それは、慮るということをする人が全くいないという訳ではなく、先に意見が出揃ってから検討するのが常なので、それも言っていなければ、往々にして、すでに自分の意見がないことになっていたりする。

話が一対一の時だと、積極的に意見を言う人と言わない人では、圧倒的に言う人に押されてしまうのは当然だ。

しかし、それも仕方がないと考え、常に一歩引いて我慢をしなければならない立場に置かれてしまう。


日本では、人のことを慮る文化があるので、こうして我慢をしている人のこともやさしいと呼ぶ。

けれども、ここでは弱い人であり、能力に欠けた人になるので、利益を得られない人として、しばしば馬鹿にされる。


つまり、日本でやさしいと思われる行為は、ただ単に気弱で無能で愚かしく見えることがあるということだ。

しかし、わがままはいけないと言われて育った人間は、それ以外の行動を取るように学んで来たわけで、この行動パターンから、なかなか抜け出せない。

そうすると、常に我慢をし続けて生きることか、こちらの人たちと同じように、日本ではわがままに見えるほどの自己主張をするように努力をして行くか選んで生きることになる。

これは、年齢が高ければ高いほど、変えて行くのにストレスを感じる難しいことだと思う。


でも、これが日本の中でも起こるのだと気が付いた。

私の親戚のほとんどが田舎の人なので、彼らは純朴でやさしい。

積極的にも消極的にも、底がないくらいにやさしいのだ。


やさしい人は、みんなに好かれる。

でも他人を受け入れ過ぎて、自分の生き方ができず、他人に振り回される。

わがままな人間は、人に嫌われる。

でも、競争社会で勝てば、結果はしたい放題だ。


さて一体、どちらが良い生き方なのだろう? と考えてしまう。

宗教的に「まわりまわって幸せがやって来る」というような考え方をしても、なかなか難しい。


やさしい人は困っている人や辛い人が気になり、同情心や助けるところから恋愛に入るので、上手く行かないこともしばしば。

ところがわがままな人は、他人の思惑を考えずに、自分の好きなように行動をするので、成功すれば幸せに恋愛ができる。


昨夜のレストランで、一つ一つは個性的で豪華でおいしいものだったけれど、私には、脂っこく感じられ、メインもデザートも、半分も食べることができなかった。

私はやっぱり、あっさり系で地味で目立たなくても、日本の家庭料理の方が好きだなぁと思う。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ