世界で一番平凡な聖女様
「聖女様」
その声を聞くのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
マリアはゆっくりと振り返った。
白くなった髪に、深く刻まれた皺。若い頃よりも、わずかに丸くなった背中。
歳月は彼にも、等しく訪れていたらしい。
それでも、彼女にはすぐにわかった。
あれほど長い間、忘れようとしてきた人だったから。
「……お久しぶりです、ニコラス様」
思っていたよりも、小さな声だった。
聞こえなかったのではないかと、もう一度口を開きかけたときには、彼の口元にすでに淡い微笑みが浮かんでいた。
彼は昔と変わらず、礼儀正しく頭を下げた。ただ、背筋を伸ばすまでに少し時間がかかった。そのわずかな間に、マリアは彼が自分よりも先に歳を重ねたのだということを実感した。
もしかすると、自分がずっと、彼を若い頃の姿のまま覚えていたせいなのかもしれない。
「こちらには、どのようなご用事で……」
「近くを通りかかったので、立ち寄りました。聖女様がまだこちらにいらっしゃると聞きまして」
それきり、会話は途切れた。
不思議なものだった。
若い頃は、彼と話したいことがあんなにもたくさんあったのに。いざこうして再会してみると、何から話せばよいのか、さっぱりわからなかった。
元気にしていたかと尋ねるには、あまりにも長い時間が過ぎていた。どこで、どのように暮らしていたのかと聞くには、自分が彼の人生をほとんど知らずにいたという事実が、心に引っかかった。
マリアは彼の手に目を落とした。
昔は、あれほど大きく、たくましく見えた手だった。剣を握っていた指は節くれ立ち、手の甲には薄い染みが増えている。
手袋を外した手首には、古い傷痕が残っていた。彼女の記憶にあるよりも、ずっと多くの年月が、その手に積み重なっていた。
「剣を置かれてからは、どのようにお過ごしだったのですか?」
彼が剣を置いたのは、マリアが聖女として生きている間のことだった。正確にいつだったかは覚えていない。ただ、その知らせを淡々と受け止めたことだけは覚えていた。
あの頃のマリアは忙しかった。
毎日のように訪れる患者を治療し、貴族たちの招待に応じ、王室から下される命令をこなさなければならなかった。彼の近況を詳しく尋ねる余裕も、そうする資格も、自分にはないと思っていた。
「特に変わったことはありませんでした。引退してからは領地に戻ったのですが、兄が早くに亡くなりましてね。甥たちの教育を引き受けることになったのです。そうしたら、思いのほか忙しくなってしまいまして」
彼が今も独身であることは、噂に聞いて知っていた。
けれど、その理由まで尋ねることはできなかった。若い頃に聞けなかったことを、長い年月が過ぎた今になって尋ねる勇気など、なおさら持てるはずもなかった。
彼が独りで生きてきた理由に、自分が関係しているかもしれないなどと思うほど、マリアは思い上がってはいなかった。
ただ、折に触れて耳にする近況の中で、彼がまだ結婚していないということを知った。それだけだった。
彼は引退した騎士だ。領地の仕事も、すでに大半は甥たちに任せているのだろう。ここまで訪ねてきたのも、特別な用事があったからではないと言っていた。
それなら、今日の彼には、帰らなければならない時間も決まっていないのかもしれない。
マリアは、そのことが嬉しかった。
ほんのささやかな、どこかおかしくなるほど小さな喜びだった。
* * *
マリアが聖女に選ばれたのは、十五歳になったばかりの頃だった。
自分が聖女になるなど、考えたこともなかった。神聖力がまったくなかったわけではないが、特別優れていたわけでもない。神殿で定期的に行われる検査でも、いつも平均を少し上回る程度の数値が出るだけで、奇跡を起こしたことも、神の声を聞いたこともなかった。
美しいと言われることはあったが、誰もが振り返るほどの美貌ではない。性格もまた、特別に高潔だったり、慈愛に満ちていたりするわけではなかった。
人並みにおいしいものが好きで、気に入った服を見れば欲しくなった。自分を嫌っている相手の前では、どれほど努力しても笑顔を保てなかった。
誰かの不幸を目にすれば気の毒に思ったが、世界中のあらゆる悲しみを自分のことのように感じられるわけでもなかった。
彼女は、ただの平凡な少女だったのだ。
だからこそ、次代の聖女にマリアが選ばれたとき、彼女の胸に浮かんだのは喜びよりも不安だった。
マリアが聖女になるのとほぼ同じ頃、ニコラスは騎士になった。
マリアより六歳年上の彼は、幼い頃から剣を握り、いつか王国でも指折りの騎士になるという夢を抱いていた。マリアの父とニコラスの家が長年親しく付き合っていたこともあり、二人は幼い頃から顔見知りだった。
マリアが初めて彼に会ったとき、ニコラスは十一歳か十二歳くらいだったはずだ。
正確には覚えていない。ただ、自分よりずっと背の高かった彼が腰をかがめて目線を合わせ、手を差し出して握手を求めてくれたことだけは、今でも鮮明に覚えている。
その日から、ニコラスはマリアにとって、世界で一番格好いい騎士になった。
マリアは暇さえあれば彼に会いに行き、ニコラスも面倒がる様子ひとつ見せずに、彼女の相手をしてくれた。
もう少し遊びたいと駄々をこねて叱られたことも、夢中で走り回って転び、わんわん泣いたことも。そんなことさえ思い出せなくなるほど、幸せな時間だった。
そうして何年かが過ぎるうちに、二人は少しずつ成長していった。
ニコラスは騎士団に入り、マリアは聖女候補となった。
そして十五歳の誕生日を迎えて間もなく、マリアは聖女に選ばれた。
そのときから、ニコラスはマリアを名前で呼ばなくなった。
「聖女様は、これから王国の希望となられるでしょう」
聖女に任命された日、大神官はそう告げた。
マリアは頷いた。何と答えればよいのかわからなかった。
自分が、王国の希望。
まだ十五歳になったばかりの少女には、あまりにも大げさな言葉に思えた。
その日の夕方、祝福のために訪れた人々の中にニコラスの姿を見つけたとき、マリアは誰よりも安堵した。
いつものようにきちんとした礼服を身にまとい、腰には剣を佩いている。
まだあどけなさの残る顔には、緊張の色が浮かんでいた。騎士団に入ったばかりの彼にとっても、今日は特別な日だったのだろう。
マリアは人々の視線を避け、彼のもとへ歩み寄った。
「おめでとうございます、聖女様」
その言葉に、マリアは足を止めた。
「……ニコラス様も、そうお呼びになるのですね」
「はい?」
「いいえ。何でもありません」
マリアは笑った。
口元を持ち上げることくらい、難しくはなかった。聖女に任命されてから、彼女は笑い方を覚えたのだ。嬉しい日も、悲しい日も、どうしても笑う気になれない日でさえ。
ニコラスはしばらく彼女を見つめていた。何かを言いたそうに唇を動かしたものの、結局、口を閉ざした。
代わりに腰の剣へと目を落とし、どこかぎこちなく笑って言った。
「これからは、聖女様にお会いすることも難しくなりそうですね」
「……そうなのですか?」
「聖女様は、これからとてもお忙しくなられるでしょうから。私のような一介の騎士が気軽にお訪ねできる方ではなくなってしまうのでしょう」
マリアは、その言葉が嫌だった。
彼が自分を聖女と呼ぶことも、これからは会いにくくなると言うことも。まるで二人の間には、もう越えられない壁ができてしまったかのように話すことも。
十五歳の少女は、その夜、なかなか眠りにつくことができなかった。
* * *
ニコラスの言ったとおり、聖女としての生活は想像していた以上に忙しかった。
残されたわずかな神聖力を絞り出すようにして、人々を癒やす毎日。感染症に苦しむ患者、目を背けたくなるほどの傷、誰なのか見分けもつかないほど損傷した遺体。それらを目にすることは、いつしか日常になっていた。
過酷な戦場にも、国境の果てにある辺境の地にも、行かなければならなかった。
それでも救えなかった人は数え切れないほどいた。助けられなかったという理由で、恨まれることもあった。
救えなかった者の家族から石を投げつけられたこともある。ひどいときには、命を落としかけたことさえ何度かあった。
夜になると、よく泣いた。
誰もいない寝台に横たわり、毛布を頭からかぶって、家に帰りたいと思った。
聖女となった以上、彼女がいるべき場所は神殿だった。父と母は手紙を送ってくれたし、ときには遠い道のりを越えて会いに来てくれることもあった。
それでも、そのたびにマリアは大丈夫だと答えた。
つらくはないこと。人々を助けられるのが嬉しいこと。自分は元気に暮らしていること。
そんな言葉が嘘だということには、きっと両親も気づいていたのだろう。
もちろん、人々を助けることそのものが嫌だったわけではない。
長い間苦しんでいた病が自分の手によって癒えたときは嬉しかったし、戦場で死にかけていた兵士が再び家族のもとへ帰っていく姿を見れば、自分が聖女になってよかったと思った。
ただ、それだけでは耐えられない日もあったのだ。
そんな夜、彼女はささやかなものを思い出した。
大好きだったアップルパイ。優しい両親。いつも騒がしくて、ときどき、ほんのときどきだけは恋しくなる弟や妹たち。
そして、ニコラス。
彼は今、どうしているのだろう。
そんなことを考えながら、マリアは眠りにつくのだった。
* * *
マリアがニコラスを愛しているのだと初めて気づいたのは、二十一歳になった年のことだった。
その年の春、ニコラスが王都へ戻ってきた。
国境での戦いで功績を挙げた彼は、騎士団の副団長に任命されることになっていた。マリアはその知らせを聞き、心から喜んだ。
彼が帰ってくると聞いた日、マリアはいつもより早く目を覚ました。
何度も寝返りを打ち、ようやく目を閉じたと思ったのに、朝になるとすぐに目が覚めてしまった。窓の外は、まだぼんやりと明るくなり始めたばかりだった。
ニコラスが帰ってくる。
ただそれだけのことで、こんなにも心が浮き立つなんて。
おかしな話だと思った。
最後に彼に会ったのは、いつだっただろう。去年の冬だったか、それとも、もっと前だっただろうか。
「……会いたかったのね」
ふと、そんな言葉がこぼれた。
自分は彼が好きなのだ。
おそらく、ずっと前から。
知らず知らずのうちに口にしていた独り言に、マリアは思わず両手で頬を包んだ。熱を帯びた頬は、嘘をついてはくれなかった。
自分は彼を想っている。
聖女としてではなく、ただの少女として、一人の男性を。
けれど、その想いが誰かに届くことは、一度もなかった。
二十一歳のマリアは聖女であり、副団長となったニコラスは王国を守る騎士だった。
彼が守るべきものの中には、当然、聖女であるマリアも含まれていた。
ニコラスは彼女を聖女として扱った。それは当然のことだった。
二人はそれぞれの立場で、果たすべき務めを果たしている。それだけのことだった。
それでもマリアは、ときどき、彼に名前で呼んでほしいと思った。
ほんの一瞬でいい。
聖女ではなく、マリアとして。
もし、自分が聖女でなかったなら、どうなっていただろう。
父の領地で育ち、ごく普通の貴族令嬢として社交界に出て、友人をつくり、適当な年頃になれば誰かと婚約していたかもしれない。
好きな人ができたなら、何度でも会いに行っただろう。自分のことをどう思っているのか気になって、夜通し眠れなくなることだってあったかもしれない。
そして、互いの気持ちを確かめ合ったあとには結婚し、自分たちによく似た子供を授かり、ときには些細なことで喧嘩をしながらも、二人で年老いていく。
そんな人生が、自分にも許されていたらよかったのに。
もちろん、聖女にならなければ、今のように多くの人々と出会うこともなかっただろう。自分の手で救った人々の顔を覚えることも、世界には自分の知らない苦しみがどれほどあるのかを知ることもなかったはずだ。
マリアは、聖女になったことを後悔してはいなかった。
ただ、ときどき。ほんのときどきだけは。
「お久しぶりです、聖女様」
二十七歳になった彼の顔には、もう昔のような幼さは残っていなかった。その代わりに、一人の大人の男性としての逞しさと、落ち着きが備わっていた。
会いたかったと伝えたかった。
無事に帰ってきてくれてよかったと。今度はどれくらい王都に滞在するのかと。どうして手紙の一通もくれなかったのかと、少しくらい拗ねてみたかった。
けれど、彼女が口にできる言葉は決まっていた。
「お帰りなさい。副団長へのご昇進、おめでとうございます」
「ありがとうございます。聖女様も、お変わりなくお過ごしでしたか?」
「ええ、もちろん」
マリアは微笑んだ。
今では、何よりも簡単なことだった。
ニコラスは彼女の笑顔をしばらく見つめてから、口を開いた。
「もしよろしければ、少しご一緒に歩きませんか?」
思いがけない誘いに、マリアは思わず瞬きをした。
「お散歩ですか?」
「ええ。庭園に花が咲いていると聞きまして。私も、こちらへ来るのは久しぶりですから」
マリアは少し迷った。
何よりも、ニコラスと二人きりで歩くということが気にかかった。
もっとも、護衛がつくのだから、厳密には二人きりというわけでもないのだけれど。
彼に会えずにいた時間と同じくらい、会ったときに何事もなかったような顔をしなければならない時間が怖かった。
「もちろんです。私も久しぶりに庭園を見て回りたいと思っていたところですから」
それでもマリアは頷いた。
一緒に歩きたいという気持ちに、最後まで抗えなかったのだ。
庭園には、少し早咲きの薔薇が咲いていた。
まだ春の気配が満ちきっていないせいか、花びらを大きく開いた薔薇は少なかった。ほとんどは固く蕾を閉ざしたままで、ときおり先に咲いた花も、冷たい風に花びらの先を傷めていた。
「まだ少し早かったようですね」
ニコラスは、どこか照れくさそうに笑った。
彼の笑顔を見るのも久しぶりだった。
騎士になってからの彼は、いつも厳かな態度を崩さなかったから。
「もう少し待てば、きれいに咲きますよ」
二人は並んで庭園を歩いた。
こうして一緒に歩くのも、ずいぶん久しぶりのことだった。
ニコラスは、隣を歩くマリアを横目で見た。
幼い頃の彼女は、いつも自分についてくるのに精一杯だった。少し歩いただけで疲れたと文句を言い、転んで膝を擦りむけば、痛みよりも新しいドレスが汚れたことを嘆いた。それでも、彼が手を差し出せば、さっきまで泣いていたのが嘘のように笑って立ち上がった。
あの頃のマリアは、とても素直な子供だった。
嬉しいときは嬉しいと言い、嫌なときは嫌だと言った。
自分が訓練で遊んでやれない日には、あからさまに頬を膨らませた。何日か家を空けることになれば、帰ってくる日まで何度も手紙を送ってきた。
それほどまでに、感情を隠すことを知らない少女だった。
そんな子が、ある日突然、聖女になった。
人々は彼女を取り囲み、祝福の言葉を口々に贈った。マリアはそのたびに微笑み、頷いていた。
けれどニコラスは、彼女がぎゅっと指を握りしめていたことを見逃さなかった。
そばへ行きたかった。
大丈夫かと、怖くはないかと聞いてやりたかった。昔のように頭を撫でて、心配することはないと伝えてやりたかった。
けれど、それはできなかった。
彼は騎士団に入ったばかりの未熟な騎士で、彼女は王国の聖女だった。
あの日、彼女にかけられる言葉は、ほかの貴族たちが贈ったものと大して変わらなかった。
「おめでとうございます、聖女様」
その言葉を口にしたとき、マリアの顔をかすめた一瞬の表情を、彼は今でも覚えている。
けれど今のマリアが何を考えているのか、彼にはわからなかった。
彼女はいつも微笑んでいた。
誰にでも親切で、どんな頼み事にも滅多に腹を立てない、穏やかな女性。人々はそんな彼女を、聖女にふさわしい姿だと褒め称えた。
ニコラスは、ときどき、その言葉が嫌いだった。
「マリア」
小さく囁いた名前は、彼女の耳には届かなかったようだった。
* * *
それから、さらに何年もの月日が流れた。
マリアは三十歳を過ぎ、ニコラスは三十七歳になっていた。
彼は騎士団の副団長から団長へと昇進し、王国の幾多の戦いで功績を挙げた、名高い騎士となっていた。縁談も何度か持ち込まれた。
中には、家同士の関係を考えれば断りにくいものもあったが、彼はそのたびに結婚するつもりはないと答えた。
マリアはその知らせを聞くたび、そんな自分が嫌になった。
ニコラスが結婚しない理由はわからなかった。ただ、縁談が持ち上がるたびに、彼が丁重に断っているという話を耳にするだけだった。
家の事情で結婚を急がなければならないわけでもなく、彼にはまだ果たすべき務めがあった。だから、結婚を急ぐ必要はないと考えていたのかもしれない。
それでもマリアは、彼が独りでいることに安堵していた。
自分には彼に何もしてあげられないくせに、彼がほかの女性と幸せになることだけは、どうしても耐えられなかった。
なんて身勝手な聖女なのだろう。
人々は彼女を賢明だと称えた。
長い年月を聖女として生き、世のあらゆる苦しみを目にしてきた彼女は、誰よりも寛大で、人々の痛みを理解できる人なのだと。
けれどマリアは、ニコラスにほかの誰とも結婚してほしくなかった。自分に会いに来てほしかった。ときには、彼が今でも自分を特別に思っていてくれたらと願った。
それなのに、本人には何ひとつ尋ねられなかった。
そんな胸の内を、人々は誰一人として知らなかった。
こんな気持ちを抱えたまま、何十年も生きてきたのだと思うと、おかしくなった。
ある日の朝、一通の手紙が届いた。
ニコラスが引退したこと、騎士団の役職からも完全に退いたことが記されていた。
マリアは、その手紙を長い間読み返していた。
引退。
その二文字が、ひどく不思議なものに思えた。
いつも剣を帯びていた人。いつも王国を守らなければならないと言っていた人。
ときには、自分を守るためにも剣を振るってくれた人。
そんな彼が、ついに剣を置いたのだという。
それなら、これからはどのように暮らすのだろう。
朝、目を覚ましたら何をするのだろう。誰と食事をするのだろう。天気のいい日には、どこを歩くのだろう。夕暮れにお茶を飲んでいて、ふと退屈になったら、誰に話しかけるのだろう。
マリアは手紙を畳み、引き出しにしまった。
そして、いつもどおり一日を始めた。
聖女には、やらなければならないことがたくさんあった。
そんな日々を送りながら、いつしかマリアも五十歳を過ぎていた。
* * *
「聖女様?」
その声に、マリアはようやく物思いから我に返った。
「ああ、申し訳ありません。少し考え事をしておりました」
マリアは小さく笑って、首を横に振った。
ニコラスは気にしていないというように手を振り、彼女の向かいに置かれた椅子を指し示した。
「座ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。長いこと立たせてしまいましたね」
ニコラスは椅子に腰を下ろし、ゆっくりと息を整えた。
遠くから歩いてきたせいなのか、それとも単に歳を重ねたからなのかはわからない。
彼はもう、昔のように軽やかな足取りでどこへでも行ける人ではなかった。
それは、マリアも同じだった。
「お茶はいかがですか? ちょうど、新しい茶葉が届いたところなのです」
「ありがたくいただきます」
マリアは傍らの呼び鈴を鳴らし、侍女を呼んだ。
ほどなくして、茶と菓子が運ばれてきた。二つのティーカップから、細い湯気が立ち上っていた。
「領地では、お変わりなくお過ごしですか?」
「ええ。甥たちも思いのほか立派に育ってくれまして、最近はそれほど忙しくもありません。長兄の息子は領地の運営を引き継ぎ、次兄の息子は事業に精を出しています。末の甥は、まだ結婚する気がないようですが……」
そこまで話して、ニコラスは笑った。
「そういうところは、私に似てしまったのかもしれませんね」
マリアはカップを持ち上げかけて、ふと手を止めた。
「まだ、ご結婚なさるおつもりはないのですか?」
尋ねてから、失礼だったかもしれないと思った。
けれどニコラスは、少しも不快そうな様子を見せずに笑った。
「この歳になって、今さら結婚を考えるというのも、おかしな話ではありませんか?」
「そうでしょうか。最近は、遅い年齢で結婚される方も珍しくありませんよ。私の知り合いの侯爵夫人も、五十歳近くになってから再婚なさいましたもの」
「それなら、私にもまだ遅くはないのかもしれませんね」
マリアはそこで初めて、彼が自分を見つめていることに気づいた。
ニコラスの目尻には深い皺が刻まれ、白いものの混じった髪は、こめかみから額の近くにまで広がっていた。
「……そうですね。良い方に巡り会えたなら、今からでも遅くはないのでしょう」
ニコラスは答えなかった。
ただ、カップを持ち上げて一口、茶を飲んだ。
「聖女様は、私が結婚しなかった理由が気になりますか?」
マリアは少し迷ってから、正直に答えた。
「……少しだけ」
彼はカップを置き、マリアを見つめた。
「私は、長い間、一人の女性を想っていました」
「……その方は、私の知っている方ですか?」
「もちろんです」
マリアは笑おうとした。
彼に愛する人がいたとしても、それは彼が歩んできた人生の一部にすぎない。
自分がその人を知っていようと、知らなかろうと、今さら何かが変わるわけではなかった。
けれど、ニコラスは続けた。
「その方は、私が想いを寄せてもよいのかどうかさえわからないほど、高い場所へ行ってしまわれたのです。聖女様になられたのですから」
「……」
カップの中の温かな茶が、かすかに揺れた。
自分の耳が聞き間違えたのではないか。五十を過ぎた耳が、とうとうありもしない声を聞くようになったのではないか。
マリアはただ、ニコラスを見つめていた。
深く優しい彼の瞳は、少しも揺らぐことなく、まっすぐにマリアを見つめ返していた。
何度も口を開きかけては閉じた。それでも、喉からは何の言葉も出てこなかった。
「今でも……今でも、その方をお好きなのですか?」
「はい」
ニコラスは、ためらうことなく答えた。
「長い間、ずっと想ってきました。おそらく、これからも変わらないでしょう」
マリアはしばらく、何も言えなかった。
ずっと聞きたかった言葉だった。
一度でいいから、彼にとって特別な人になりたかった。
聖女様ではなく、マリアという名前で呼んでほしかった。
それなのに、自分の想いを口にした瞬間、今まで守ってきたものがすべて壊れてしまいそうで、彼女は生涯、何ひとつ尋ねることができなかった。
それが、今になって。
これほど長い年月が過ぎた今になって、彼は何でもないことのように、自分を好きだと言うのだった。
「私、近いうちに聖女の座を退くことになりそうなのです」
マリアは、ようやく口を開いた。
「後任も決まりましたし、あとは残された手続きを済ませるだけです」
笑って告げたつもりだったが、声がかすかに震えた。
五十を過ぎて、こんなことで緊張することになるとは思わなかった。
マリアは両手を握りしめた。
「ニコラス様」
「はい、聖女様」
「……そう呼ばないでください」
思いがけず、そんな言葉が口をついて出た。
自分が何を言ったのか、遅れて気づいたマリアは慌てた。
「あ、いえ、申し訳ありません。私は何を……」
「マリア」
幼い頃、彼はいつも彼女をそう呼んでいた。
その名前を再び聞くまでに、人生の半分が過ぎてしまった。
「……はい」
マリアは笑おうとした。けれど、口元に浮かんだ微笑みは、とうとう形にならなかった。
「来月になれば、私はもう聖女ではなくなります。ただのマリアとして生きていくことになるのでしょう」
言葉を続けようとしても、何度も喉が詰まった。きちんと話せているだろうか。おかしな顔をしてはいないだろうか。
それでも、何より伝えたいことがあったから、彼女は話し続けた。
「人を治療することくらいしか取り柄がなくて、庭仕事も苦手で、長い間聖女として生きてきたせいで世間知らずな、歳を取った女が一人残るだけかもしれません」
マリアは笑おうとしたが、今度もうまくいかなかった。
「それでも、もう聖女だからという理由で、自分の気持ちを隠さなくてもよくなるのでしょう?」
マリアは息を整え、ニコラスを見つめた。
「ですから……今度は私にも、機会をいただけませんか?」
声が震えた。
「誰かを好きになって、その人と一緒に過ごして、ときには会いたかったと言えるような機会を。いつか二人で、共に歳を重ねていく未来を夢見る機会を……」
言い終えた途端、顔が熱くなった。
五十を過ぎて、ようやく口にした告白にしては、あまりにも欲張りだった。受け入れてもらえる保証などないのに、生涯隠してきた想いを、一度にすべて吐き出してしまった。
二人の間に沈黙が落ちた。
マリアには、その短い沈黙が耐え難かった。
生涯隠してきた想いを、ようやく言葉にできたというのに。いざ伝えてみると、何よりも先に恥ずかしさがこみ上げてきた。
もう少し落ち着いて話せばよかった。
この歳にふさわしい、もっと大人びた告白だってできたはずなのに。
いや、もしかすると、何も言わないほうがよかったのかもしれない。
「私は今でも、マリアが好きです」
彼は先ほどと同じ言葉を口にした。
けれど今度は、少しだけ違って聞こえた。
「ですから、私にも機会をいただけませんか?」
「……え?」
「マリアと一緒に時間を過ごしたいのです。天気の良い日は庭園を歩き、雨の日には窓辺に座ってお茶を飲みたい。マリアの好きな食べ物も、何をしているときに嬉しくなるのかも、今から少しずつ知っていきたいのです」
ニコラスは、そこでいったん言葉を切った。
「もちろん、歳を取ったせいで、昔のように速く歩くことはできません。庭で花を摘んで差し上げようとしても、腰をかがめるのに時間がかかるでしょうし、夜遅くまで話し込めば、翌日は疲れてしまうかもしれません」
「そんなこと……」
「それでも、マリアがよろしければ、これからの時間を一緒に過ごしたいのです」
目の前の男性は、歳を取った。
彼女もまた、歳を取った。
二人が共に過ごせなかった年月はあまりにも長く、これから一緒に過ごせる時間は、若い頃に夢見ていたものよりもずっと短いだろう。
その事実は悲しかった。
けれど同時に、これほど短い時間であっても、まだ残されていることが信じられないほど嬉しかった。
ニコラスは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
それは、これまでにないほど丁寧な動作だった。
彼は震えるマリアの両手を、自分の手でそっと包み込んだ。
若い頃に剣を握っていた手は、節くれ立ち、かつてのような鋭さを失っていた。
それでも、その温もりだけは、彼女が長い間夢見てきたとおり、どうしようもないほど温かかった。
過ぎ去った年月を取り戻すことはできない。
その間に逃してしまった、数え切れないほどの瞬間をやり直すこともできない。
それでも、まだ残されている時間があった。
マリアは目を閉じ、そっと囁いた。
今この瞬間、自分は世界で一番幸せで、平凡なマリアなのだと。
誰かを愛し、愛されることを願い、ときにはささやかなことで喜んだり、悲しんだりする、ただの一人の人間なのだと。
そして彼女は、ようやく、どれほど遅くなったとしても、自分の望んだ人生を歩んでいくのだろう。
それこそが、マリアにとって何よりも大切な奇跡だった。




