これは、ふたりだけの秘密。
「は~、誰もいないと集中できるわ~」
誰に言うともなく呟いてみた。
オフィスビルの一角、フロアの灯りはもうほとんどが消えている。
時刻は早くも23時を回ろうとしていた。
この時間まで残業している人間はいつも私くらいしかいない。
でも、私には今からが一番興の乗ってくる時間帯だ。
静かなフロアに私のタイプ音だけが鳴り、すぐに薄闇の中へと吸い込まれていく。
と、出し抜けに外の廊下をコツコツと駆けるヒールの音が聞こえてきた。
足音はこちらへ近づいてきているようだ。
顔を上げると、フロアの入口に片手をかけて寄りかかり、荒れた息を整えようとしている女性がいた。
よく見慣れた顔、同僚の果歩だ。
「どったの、こんな時間に」眉を上げ、少しおどけた口調で訊いてみる。
「絵美里さん、今日も残業ですか」
今日「も」か。走ってきた勢いで思わず出てしまったのだろう、その声色には仕事女に対する皮肉がうっすらと滲んでいた。
一度帰宅して着替えたのか、とろみ感のあるブルーグレーのブラウスに、ミモレ丈の白いプリーツスカートを合わせた彼女の姿は、夜の薄暗いオフィスではどこか異物のように浮いて見えた。
私はすっと目を細め、それでも何も言わずに視線を向けていると、痺れを切らしたように果歩が続けた。
「こっちに卓也来ませんでした?」
「いや、見てないよ」平静を装って答える。
「ほんとですか?うちのビルの方に走っていったんだけどな…」果歩が訝しむようにフロアの薄闇へと視線を巡らせる。
「まあいいや。絵美里さん、集中しすぎてまた終電逃さないでくださいね」
それだけ言うと、返事も待たず来た時と同じように高らかにヒールを鳴らしながら去っていった。
一言余計なんだよなぁ。その後ろ姿を見送りながら私は思う。
だからこんなことになるんじゃないかしらね。
心のうちでそう呟きながら、視線を足元、デスクの陰へ向ける。
「果歩、行ったわよ」
「絵美里ちゃんナイス。独り言も尖ってて痺れたよ」
そこには、すらりと伸びた大きな体を小さく丸めた男がうずくまっていた。
体格に似合わず小動物を想起させるような愛嬌のある笑顔でこちらを見上げてくる。
「あんたも懲りないわね」
「まあね。でも、絵美里ちゃんが匿ってくれるからさー」
そう言って体を私の脚に摺り寄せてくる。
「職場でちゃん付けはやめなさいって言ってるでしょ。それに、私はまだ仕事してるの」
「そうやって仕事しすぎて、終電逃したの?」
「ん?あぁ、違うわよ。それは卓也とホテルに泊まった日のこと」
先ほどの果歩の声色を思い出し、あえてはっきり言葉にする。
そうすることで、プライドが甘美な思いで満たされていくのを感じる。
わかってる、果歩?
あなたは、あなたが見下してる仕事女に彼氏を寝取られてるのよ。
ざまあないわ。
一言ずつ嚙み砕くように、直截的な言葉を思い浮かべる。
そんな風にして自尊心を満足させようとすることに愛想をつかす自分もいる反面、すっかり気を許し安心しきった様子で脚にまとわりついてくる卓也の体温を感じ、体の奥がほのかにうずいてくる自分がいることもまた事実だった。
優越感とはどうしてこうも甘い心地がするのだろう。
その甘さに微かに心拍数が上がったのを感じた私は、足元へ手を伸ばした。
「ねえ、あと30分くらいで終わるから、待っててくれる?」声が湿り気を帯びていることを自覚する。
「もちろん、何分でも待ってるよ」私が伸ばした左手に、卓也が右手を絡めてくる。
二人だけの秘密。
彼を匿った夜だけの、限定付きの関係。
それ以上深みにははまらないと思う自分と。
いつか抜け出せなくなるのではないかと思う自分。
ただひとつ確かなのは、体を重ねるごとに、まろやかな甘さが毒のように心を侵していくことだ。
不確かな関係の間で揺れ動く私をよそに、夜は深まっていった。




