フリージア咲く丘から
魔王討伐した勇者と、氷の魔女の物語。
「おや、おぬしまた来たのかい」
「まぁな。仕事なもんで」
全てが雪と氷で覆われた世界に、二つの声が響く。
一つは凛とした青年の、もう一つは若い娘のようでありながら、何故か老婆の口調をした女の声。
しかし、そこには腰に剣を携えた精悍な青年の姿しかなかった。前後左右、青年の周りには雪と氷しか存在していない。
だが、確かに声は二つ聞こえ、青年は姿無きその声と言葉を交わしていた。
「んふふ。ただの一度もわらわの姿すら拝めておらぬというのに、勇者というのは大変じゃのぅ」
「そう思うんなら、そろそろ姿を見せてくれねぇか? 氷の魔女さんよぉ」
「それは嫌じゃ。わらわより弱い者に姿を見せるなど、無駄なだけじゃからな」
続けて「おぬしがもう少し強ければ、楽しめるのにのぅ」とさも残念そうな女──魔女の声に、青年──勇者の額にぴくりと青筋が浮かぶ。勇者と呼ばれたこの青年は、誰もが認める大陸最強の剣士だというのに。
まるで子供をあしらうような態度に、勇者はぐっと奥歯を噛み締めた。言い返そうと口を開いた勇者だったが、それを制するように魔女の不満げな声が耳を打つ。
「それにのぅ。こんな可憐なレディのもとへ通っておきながら、土産の花一輪も持って来ぬなんて。そんな野暮な男に付き合うてやる義理などないわい」
「はっ、どこに可憐なレディなんているんだよ」
「ここにおるが? あぁ、おぬしには見えんのじゃったなぁ。かわいそうに」
「……大体、こんなクソ寒いところに花なんざ持って来れるわけねぇだろが。そんなに花が見たいんなら、この雪を溶かせば何百本でも持ってきてやるよ。だからさっさと溶かせ、今すぐに」
「レディに対してなんと口の悪い。さてはおぬし、まだ懇ろの仲になった女がおらぬな?」
「っ、余計なお世話だ!」
「なんじゃ、図星か! 大陸最強の勇者とやらも、まだまだ初じゃのぅ」
嘲笑うように、くすくすと魔女の笑い声が辺りに響き渡る。その声に、勇者の苛立ちはますます膨れ上がっていった。
ついに怒りが頂点に達し、剣を抜こうとしたその時――
「……さて。今日はもう終いじゃ」
直後、勇者の周りに吹き飛ばされそうなほどの強風が吹き荒れた。
風と雪に襲われながらも慌てて剣を構えるも、時既に遅し。足元に魔法陣が出現し、青白い光を放つ。
「──くっ!」
「ではな、弱き勇者よ」
「待て! 氷の魔女‼︎」
勇者の叫びも虚しく、魔法陣は一際強く輝きを増した。眩い光が視界を覆い、吹き荒れる雪と風が勇者の身体を飲み込んだ。
遠ざかる意識の中で、誰かが小さく息を吐く気配がした。
そして、どこか寂しげな声が耳元を掠める。
『──もう来てはいけませんよ』
それが誰だったのか。
考える暇もなく、次の瞬間には勇者の意識は完全に闇へと沈んでいた。
◇◆◇
勇者が意識を取り戻すと、そこは雪と氷の世界の外側だった。
「あーくっそ! なんだってあんなに魔力が強いんだ!」
「ちょっと、治療中は大人しくしてっていつも言ってるでしょ」
仲間の聖女から治癒魔法を受けている間、勇者は苛立ちを散らすように頭を掻きむしる。そんな勇者の情けない姿など見慣れた聖女は、溜め息を吐きながらも治癒魔法をかけ続けた。
「それにしても、王様も人使いが荒いわよね。魔王討伐の次は、『国を滅ぼし南の地を雪と氷の世界にした、悪しき氷の魔女を討伐せよ』だなんて」
「ほんとだぜ。面倒ごとばっか押し付けやがって」
「その面倒ごとを報奨金チラつかされて引き受けたのは、どこの誰だったかしらねぇ」
「……」
「というか……魔王を倒した勇者様のくせに、なんで魔女一人倒せないのよ?」
「……倒す以前に、魔女の姿すら見たことねぇんだよ」
勇者は不機嫌そうに吐き捨てる。
あの雪原へ足を踏み入れれば姿なき氷の魔女に散々弄ばれ、最後は決まって強制転移の魔法によって追い返されてきた。
剣を交えることすら叶わない。勇者として、これほど屈辱的なことはなかった。
「……何度行っても同じだ。姿も見せねぇし、魔力の発生源も特定できねぇから、今のところ手の打ちようがねぇ」
治癒魔法の光が消えるのを見届けた勇者は、立てた膝に頬杖をつき雪原の方角を睨みつける。
「じゃあ諦める?」
「はっ、誰が諦めるか。俺は魔女を倒して王様から報奨金をたんまり頂くって決めてんだ」
「はぁ……理由が最悪」
額へ手を当てて項垂れる聖女に対し、勇者は悪びれもせず「ふん」と鼻を鳴らした。
「綺麗事だけじゃ飯は食えねぇんだよ。今後働かなくていいくらい金を貰って、とっとと勇者稼業なんざ引退してやる」
「世間が憧れる勇者様の中身がこんなだなんて、どこかのお姫様が知ったら泣いちゃうかもね」
「まったくです」
聖女の呆れ声に重なるようにして、落ち着いた声が差し込まれる。二人が振り返ると、そこには煤汚れたローブを揺らし、歩み寄ってくる仲間の魔法使いの姿があった。
「やっと帰ってきたのか。途中で用事ができたとか言っていなくなりやがって、この薄情者」
「色々と調べ物をしていたんですよ。あなたを一人で放り出したわけではありません」
勇者の口の悪い悪態を軽く受け流し、魔法使いは短く息を吐きながら二人の横に腰を下ろす。長杖を膝に置き、疲労の滲む目元を指で揉んだ。
「調べ物って?」
「真正面から挑んでも勝てないので、魔女の正体から特定しようと思いまして」
「正体ねぇ……。それで? 俺を単独で魔女討伐させるだけの成果はあったのかよ」
「……そう、ですね。推測ではありますが、大体分かりました」
僅かに重みを帯びた声色に、勇者と聖女は思わず居ずまいを正す。
二人の反応を見て小さく頷いた魔法使いは、杖をひと振りした。淡い光とともに魔法陣が足元へ広がり、その中心に一冊の古びた本が姿を現す。表紙は擦り切れ、ページの端は黄ばみ、今にもバラバラになりそうな代物だ。あまりの酷い有様に、勇者は眉を顰めた。
「何だその本?」
「これはとある村の蔵で保管されていた、歴史書です。これには、魔女がいるあの土地……かつて一夜にして滅んだ亡国について記されていました」
「それって何百年も前に氷の魔女に滅ぼされたっていう、王族や国の名前すら残っていない国のことよね」
「ええ、それが一般的な逸話です。……ですが、この歴史書には、全く違う記述が見つかりました」
骨の節が浮き出た手が、破れそうなほど乾燥した古書のページを慎重に捲っていく。カサリ、と乾いた音が妙に耳へ残る。先ほどまで軽口を叩いていた勇者でさえ口を閉ざし、魔法使いの手元へ視線を向けた。
「ここです」
「……読めねぇ」
「……ところどころしか分からないわ」
「古い言葉ですからね。仕方ないですよ」
勇者と聖女は揃って古書を覗き込むが、黄ばんだ紙にびっしりと並ぶ文字は、見慣れた文字とは似ても似つかない。勇者は早々に手を上げ、聖女も困ったように首を横へ振った。
唯一正しく読み解ける魔法使いはその古びた文字を指先で静かになぞり、一行ずつ確かめるように視線を滑らせる。やがて指先がある一文で止まり、小さく息を吐いた。
「……ここには『魔族の襲撃に王国は滅びゆく。国一番の術者たる王女は力及ばず、されど命を賭して国ごと氷に封じ、魔族を世界より隔てた』──そう記されているんです」
「……氷に封じた?」
「えぇ。……最初にあそこへ足を踏み入れた時から違和感はあったんです」
魔法使いは古書を静かに閉じると、雪原の方角へ視線を向ける。頭の中で散らばっていた違和感を一つずつ並べるように、人差し指をゆっくりと立てた。
「まず一つ。あの氷の魔法は、外からの侵入を拒みません。それでいて、中にいる者を外へ出さないよう構成されている。あなたが追い出される時も、毎回転移魔法でしたよね?」
「……あぁ。自分の足で出たことねぇ」
「つまりあの魔法は、外敵を防ぐ結界ではなく、中にいる何か──歴史書が正しければ、魔族を閉じ込めるための『檻』だと考えられます」
勇者は腕を組み、雪原での出来事を思い返す。確かに毎回追い返されるが、侵入自体を拒まれたことは一度もない。
嫌でも見慣れてしまった雪原の景色が、別の何かへと塗り替えられる感覚に襲われる。勇者が無言で考え込むのを見届けると、魔法使いは二本目の指を静かに立てた。
「そして次に。あなたは何度もあの地を訪れていますが、魔女の姿を見たことがありますか?」
「……ない。声は確かに聞こえるし、気配なんて至るところにある。なのにどこにいるのか、魔力の発生源すらもさっぱり分からねぇ」
「歴代の討伐隊も全く同じ記録を残しています。……ですが考えてみてください。広大な土地を氷で覆い尽くす巨大魔法で、発生源が見つからないなんて、本来ならあり得ません」
「……魔女が巧妙に隠してるんじゃないの?」
聖女の言葉に、魔法使いは静かに首を振る。
「きっと魔女は、隠していない……いえ、隠す必要すらないのでしょう」
魔法の理を長年学び続けてきたからこそ見えてしまった、ただ一つの可能性──
「雪も、氷も、冷気でさえも。あの空間にあるものすべてが、魔女の魔力の源なのだとしたら──」
「……っ、まさか」
導き出されたあまりに異質な正体に、勇者の背筋を冷たい悪寒が走った。じわじわと胃の奥が縮みあがるような錯覚に、思わず呼吸が浅くなる。
「魔女の正体は……あのアホみたいに広い氷の世界そのものだっていうのかよ……⁉︎」
「おそらく」
「で、でも、そんな魔法聞いたこともないわよ?」
「……当然です。そんなもの、人の理を外れていますから」
その一言で、場の空気がさらに重く沈む。魔法を生業としない勇者でさえ、次に続く言葉が碌でもないものだとは察することができた。
「できるとしたら──命を代償にした、禁忌魔法だけでしょう」
「……禁忌、魔法」
聖女が呆然とその言葉を繰り返す。禁忌魔法──人の理を、世界の理をも外れた、禁断の術。その術が発動した時点で、術者に待つ結末など考えるまでもない。
勇者は無意識に拳を握り締め、聖女も唇を強く噛んだ。
「それと……最後に一つ」
青ざめた表情のまま黙り込む二人に、三つ目の指が立てられる。
「これまで何百年もの間、魔女に挑んだ者は数多くいます。しかしながらどの資料を調べても、魔女に殺された者はただの一人も存在しません。負傷者はいても、死者はゼロ。追い返されるだけなんです──あなたと同じように」
「……!」
「本当に悪しき魔女なら、侵入者を容赦なく殺すはず。ですが魔女は……どれほど疎まれ、討伐隊を送り込まれようと、誰一人として殺してなどいなかった」
それは、今まで積み上がった推測を一本の線で結びつけるには十分だった。滅んだ王国。氷の檻。姿なき魔女。禁忌魔法。そして、誰一人殺さなかったという事実。
それらを繋げれば、導き出される答えは一つしかない。
「魔女は……いいえ、」
静まり返った空気の中、魔法使いはゆっくりと辿り着いた結論を口にした。
「亡国の王女様は、禁忌魔法で自らの存在を氷の檻へ作り変え、魔族を封じ込めた。……それから何百年もの時が流れ、真相を知る者がいなくなり、いつしか『国を滅ぼした氷の魔女』と呼ばれるようになったのでしょう」
「……はっ、姿を見せないんじゃなくて、俺はずっと見てたのか。……雪と氷に成り果てた、魔女の姿を」
「冗談にしても笑えねぇよ」と勇者は、乾いた声で呟いた。聖女と魔法使いは静かに目を伏せ、三人の間に重たい沈黙が流れる。
勇者は無言で、静かに己の手を見下ろした。
あの雪原で何度も投げかけられた、不躾で、けれどどこか楽しげだった声。あれは何百年もの孤独の中、それでも消えることなく残り続けた、魔女の人間らしさの名残だったのだろうか。
そして『もう来てはいけませんよ』と耳元で囁いた、あの切なげな声。あれはこれ以上人間だった頃の温もりを思い出してしまわないための、悲しい願いだったのではないか。
何百年もの間、『国を滅ぼした魔女』として語り継がれてきた氷の魔女の正体。それが自分の命を賭け、存在自体までも捻じ曲げ、世界を護るために戦った王女なのだとしたら。
これでは、王女があまりにも報われないではないか。
綺麗事は好きじゃない。
でも、こんな不条理を前にして、平然と踵を返せるほど腐ってもいない。
なにより魔女を──王女を、このままにしておくなんて、できるはずがないだろう。
勇者は覚悟を決めると、再び拳を強く握り締めた。
「……なぁ」
沈黙を破ったのは、勇者の低い声。
「今の話が正しければ、俺たちが魔女を倒すと……いや、その魔法を解くと、封じられている魔族が出てくるってことだよな?」
「十中八九、そうなります。その魔族こそが、かつて王国を滅ぼした元凶でしょう」
「そいつを倒さねぇ限り、あいつ……あの魔女の役目も、終わらねぇってことか」
勢いよく立ち上がった勇者は、腰の剣の柄を強く握りしめる。その瞳には、かつて魔王を討ったときすら凌ぐ、揺るぎない決意が宿っていた。
「あの魔法、お前なら解けるか?」
「……命を代償にした禁忌魔法です。正攻法では解くことはできません」
「つまり、正攻法じゃなければ何とかなるってことだな」
口角を吊り上げた勇者は「なら話は簡単だ」と、肩を回して出立の準備を始める。
「簡単って、あんた正気⁉︎」
聖女が立ち上がり、詰め寄りながら叫んだ。
「仮説が正しければ、魔法を解いた瞬間に何百年も前の魔族が出てくるのよ⁉︎ 強さも、規模だって分からないのにっ」
「関係ねぇよ」
鞘から剣を抜き、その切先を雪原へと向けた。
「姿も見せねぇ奴ならともかく、実体のある魔族なら叩き斬るだけだ。……あんな冷たい場所で何百年も一人で耐えてきた奴に、これ以上格好悪いとこ見せられるかよ」
「……っ、でも」
「それにさ」
勇者はニッと不敵に笑い、二人を見やる。
「今時、魔王倒したって話だけじゃ地味だろ? だから王女を救って、後世に語り継ぐ勇者の逸話を増やすのに、ちょうどいいじゃねぇか」
「……あんたって、そういう奴だったわね」
金のためだなんて言いながら、弱きを見捨てたりしない。逸話を増やすためなんて言いながらも、誰よりも情に厚くて、取りこぼすことなく救い上げる。
そんな勇者だからこそ、これまで信じて付いてきたのだ。聖女は呆れたように肩を竦めながら、その唇には頼もしそうな笑みが浮かんでいた。
仲間の意を決した表情を確認した勇者は、魔法使いに向き直る。
「準備にはどれだけかかる?」
「……あなたならそう言うと思って、ある程度準備は整えていますよ」
「はっはは! さすが!」
豪快に笑う勇者に、魔法使いは目を細めて小さく笑う。これまでも何度も無茶振りばかりしてきた勇者の考えなど、とうにお見通しなのだ。
二人の様子を見た聖女はわざとらしい溜め息を吐くと、観念したように立ち上がる。
「あーもう! 二人がそこまでやる気なら、私だけ残るなんてできないじゃない」
「よし、決まりだな」
三人は互いに視線を交わし、拳を突き合わせた。
向かうは、雪と氷に閉ざされたかつての王国。
魔女を倒すためではない── 何百年もの間、たった一人で世界を護り続ける王女を救うために。
◇◆◇
「なんじゃおぬし、また一人で来たのか。懲りぬやつじゃのぅ」
雪原の中心に足を踏み入れた勇者の耳に、聞き慣れてしまった嘲笑が風に乗って届いた。
いつもと変わらず姿を見せない魔女。勇者は剣に手を掛けることもなく、ただ静かに、何もない雪原を歩きながら問いかける。
「なぁ、魔女」
「なんじゃ勇者よ」
「あんたはここで何をしてるんだ?」
「……何を、とは?」
「こんな辺鄙な土地をただただ氷の世界にするだけで、誰も殺しはしない。……俺を追い返す時だって、転移魔法で移動させるだけだ」
「おぬしが知らぬだけで、多くの者を殺めておるやもしれぬぞ?」
「嘘つけ。ここ数百年の記録を全部洗ったがな、お前に殺された奴なんて一人もいねぇんだよ。魔王を倒したこの俺を散々弄ぶほどの魔力があるなら、人一人殺すなんて造作もないはずだろ」
「……」
「なのに誰も殺さず、ただ追い返して……あんた、ずっと一人で何を護ってるんだ」
「……ふん、ただの気まぐれじゃ」
「気まぐれ、ねぇ……」
勇者は足を止め、氷に覆われた空を真っ直ぐに見据える。
「……今日はよく口が回るのぅ。わらわを倒すのは諦めて、世間話でもしに来たのか?」
「いいや。ちょっと手を変えてみようと思ってな」
「ほぅ? 一体どんな手を……待て、おぬしまさか」
「お、気づいたか?」
声色を鋭く変化させた魔女に、勇者はにやりと口角を上げた。
「愚かな真似を……!」
今まで勇者を軽くあしらっていた魔女の声が、初めて焦りを帯びて引き攣る。直後、地鳴りのような揺れが雪原全体を襲った。
「他にも隠れておったのかっ!」
「誰も一人だなんて言ってねぇだろ」
勇者が一歩横へ退くと、その背後に結界魔法で潜んでいた聖女が、愛用の聖杖を雪原へ力強く突き立てていた。
同時に、魔女の魔法の外側からも巨大な魔力が雪原を揺らす。内外から挟み撃ちにする形で、氷の魔法へ一気に魔力が叩き込まれた。
「準備完了です!」
「それじゃ、強制解除するわよ!」
魔法使いと聖女が同時に魔力を流すと、巨大な魔法陣が姿を現し、少しずつひび割れていく。空を覆う氷の膜にも、幾重もの亀裂が走り始めた。
何百年もの間、魔女の命を代償にして維持されてきた強大な魔法が、内と外からの干渉を受けて音を立てて崩壊していく。
「……やめよ、やめてくれっ! 魔法を解いてはならぬ! あれが解き放たれてしまうッ!」
雪原に響き渡る、魔女の悲痛な叫び。
その瞬間、氷の底から怨嗟の叫びに似た恐ろしい咆哮が地鳴りのように轟いた。
バリバリと音を立てて凍てついた大地が砕け散り、亀裂からまがまがしい黒い瘴気が噴き出す。氷の底から現れたのは、かつて王国を滅ぼし、王女がその身を犠牲にして封じ込めた古代の魔族たち。
しかし現れたのは、魔族だけではなかった。
「ぁ……あぁ……!」
瘴気の中から蠢き出てきたのは、禍々しい異形へと変貌したモノの大群。それらが姿を現した瞬間、魔女の絶望に染まった声が勇者の鼓膜を揺らした。
「……あんたが本当に護りたかったのは、こっちか」
朽ちかけた鎧を纏い、自我を失った瞳で剣を握る騎士たち。
魔族の毒に蝕まれ、醜い魔物へと姿を変えられた幼子や平民たち。
そして、群れの中心で冷たく歪んだ玉座に座す、頭部に禍々しい角を生やした巨大な魔物──かつて国を治めていた、国王の無残な成り果て。
彼らは魔族に襲われ命を落としかけた瞬間、瘴気によって死すら与えられず、醜い魔物へと作り替えられていたのだ。
王女が命を賭して氷の中に封じ込めていたのは、魔族だけではない。魔物と化してしまった愛する家族と民たちを、世界から隠し、護り続けるためでもあった。
「……くそったれッ!」
勇者は静かに剣を抜き、刃を鋭く閃かせた。
「なんで……なんてことをしたのだ……! わらわがずっと一人で……ッ、幾百年の苦労を、おぬしたちは……!」
「だからだよ!」
勇者は姿なき声へ叫びながらも、その瞳は目の前の魔族だけを鋭く射抜いていた。魔物へと変えられた民たちへの哀悼と、その元凶たる魔族を決して生かして返さないという怒りを、一振りの剣へ込めて。
「もうあんたが一人で背負う必要なんてねぇんだよ! ……何百年も遅くなっちまったが、勇者様御一行の到着だぜ、王女様!」
「──っ! なぜ、それを……」
息を呑む気配が届くと同時に、勇者は剣を力強く握り直し、黒い瘴気の中へと迷いなく飛び込んだ。
押し寄せてくるのは、魔物へと姿を変えられたかつての王国民たち。自我を失い、死すら許されずに襲いかかってくる彼らに対し、勇者は剣の腹を叩きつけ、あるいは柄頭で弾き飛ばして道を開いていく。
「ッ、馬鹿者、なぜ殺さん⁉︎ その者たちは……それらは、もう人間ではないのじゃぞ!」
「うるせぇ! あんたが命を捨ててまで護ってきた民だろ! それを簡単に殺せるわけねぇだろッ!」
勇者は気迫の怒号とともに、元国民たちを必要以上に傷つけぬよう巧みな剣さばきで受け流し、その隙間を縫って群れの奥へと突き進む。
標的は、後方で歪んだ笑みを浮かべる魔族たちだ。
「だが──お前らは別だッ!」
手加減の一切ない、閃光のような一閃。
元凶である魔族の肉体を、勇者の解き放った凄まじい斬撃が容赦なく一刀両断にした。しかし、魔物の数があまりにも多く、死角から無数の爪が勇者の背中へと迫る──
「させないわよ!」
後方にいる聖女が聖杖を掲げると、眩い神聖魔法の光が弾けた。
勇者へ向けられた攻撃が光の結界に阻まれ、さらに聖女の浄化の光が、もがき苦しむ元王国民たちの動きを優しく縛り上げて足を止めさせる。
「くらいなさいっ!」
すかさず駆けつけた魔法使いが杖を頭上に掲げると、その先に凝縮された巨大な魔力の塊が組み上がった。元王国民たちが巻き添えにならないように限界まで制御されたその高密度の魔法は、無防備となった魔族たちの頭上へと一直線に振り下ろされる。轟音とともに爆炎が巻き起こり、魔族たちが悲鳴を上げて吹き飛んだ。
立ち昇る煙を切り裂き、仲間がこじ開けてくれた唯一無二の道を、勇者は一気に踏み込んで駆け抜ける。
「援護は任せるぞ!」
「了解!」
「あなたは目の前の魔族だけに集中を!」
頼もしい仲間たちが放つ魔法陣が、雪原を眩く照らす。
何百年も凍りついていた不毛の地で、勇者たちの叫びと剣閃が吹き荒れた。
「……」
激しく飛び交う剣閃と魔法の光の中。姿なき魔女はその光景を目に焼き付けるように、勇者たちの戦いをじっと見守っていた。
何百年、誰も成し得なかった氷の檻を破り、自分を──全てを救おうと奮闘する、ずっと心のどこかで待ち望んでいた英雄たちの姿を。
◇◆◇
「……ッ、これで、終わりだ!」
激しい戦いの末。勇者が最後の一閃を放つと、魔族の首領が断末魔と共に黒い霧となって霧散する。同時に、魔物と化したかつての王国民たちもまた、淡い光の粒子となって空へと溶けていった。
後方では、限界まで使い果たした聖女と魔法使いが、その場へ崩れるように膝をつく。
「はぁ……はぁ……お、終わった……?」
「え、えぇ……すべて、片付いたようです」
静寂を取り戻した土地は、魔女の魔法が完全に消滅したことで、辺りを覆っていた雪と氷が徐々に溶け始める。
その中央で、ぽつりと。
青白い光の粒が集まり、一人の女性の姿を形作っていた。
透き通るような銀髪に、青く澄んだ瞳。純白のドレスを纏ったその姿は、語り継がれた悪しき氷の魔女などではない。美しくも儚い、可憐な王女そのものだった。
「……はぁ……勝った、ぞ」
勇者が剣を収め、息を切らしながらその姿を見つめる。
「……馬鹿な男じゃ」
魔女──王女は呆れたように、それでいて愛おしそうに目を細めた。
「魔物に成り果てたあれらも切ってしまえば、そんなに苦労せんかったろうに」
「……はっ、……結局、勝ったんだからいいんだよ」
「強がりを言う。ボロボロのくせにのぅ」
「うるせぇ。……そういえば」
息を整えた勇者は、以前の魔女の言葉を思い出すと不敵に口角を吊り上げた。
「あんた、俺を『弱き勇者』って言ったよな」
「そんなこと言ったのぅ?」
「言った。で? 俺はあんたが倒せなかった魔族を倒したんだが?」
「……んふふ、なんて意地の悪い奴じゃ」
言葉とは裏腹に王女はその顔に笑みを乗せると、どこか楽しげに、けれど少しだけ誇らしそうに胸を張った。
「撤回しよう。おぬしは弱くなどない。……わらわが知る長い年月の中で一番強い、最高の勇者じゃ!」
「……はっ、当然だ」
勇者が満足そうに鼻を鳴らした、その時だった。
王女の身体を形作る光が、淡く揺れ始める。氷の魔法が解けたということは、存在を繋ぎ止めていたものがなくなったこと。それを誰よりも理解している王女は、胸に積もっていた重荷がすっと溶け落ちたかのように、晴れやかな表情を浮かべた。
「ありがとう、勇者よ。おぬしのおかげでわらわは……我らは、ようやく終われる」
王女は勇者のもとへゆっくり歩み寄り、血で汚れた頬にそっと手を伸ばした。光で形作られたはずのその指先は、不思議なほど確かな感触を伴って頬へ触れる。
「……死ぬのか」
思わずそんな言葉がこぼれ落ちた。目の前の存在は確かに息づいているように見えるのに、その手が驚くほどに冷たかったから。
王女は勇者の言葉に目を丸くすると、ふっと可笑しそうに笑った。
「なにを言うか。もうとっくに死んでおる身、自然の摂理に還るだけよ」
「……」
「何て顔をしておる。おぬしは氷の魔女を倒した英雄ぞ? そしてわらわのことを救ってくれた、わらわの英雄じゃ」
眉間に皺を寄せた勇者を、まるで幼子を安心させるかのように優しく抱きしめる。氷のように冷たい抱擁は、目の前の王女がもう生者ではないのだと、残酷なまでに突きつけてきた。何も出来ない自分の無力さに憤り、勇者はぐっと拳が白くなるまで強く握りしめる。
「あんただって、国民を……世界を護ろうとした英雄じゃねぇか。なのに、こんな終わり……」
「んふふ。口も意地も悪いくせに、おぬしは優しいのぅ」
「……うるせぇよ」
弱々しく悪態を吐く勇者を、王女は慈愛に満ちた顔で見つめる。自分のために悔しがり、憤ってくれる優しさに触れ、何百年も胸の奥底にしまい込んでいた小さな願いが、そろりと顔を出す。
「……のぅ、勇者よ。一つ頼みを聞いてくれぬか?」
「……頼み?」
「ここに……この地に、花を植えてはくれないだろうか」
「花?」
王女は雪と氷が溶けゆく景色を見渡した。その瞳は、遥か昔を懐かしむように細められる。そして慈しむように微笑みながら、願いを口にした。
「……この地はな、かつては色とりどりの花々が咲き誇る、それはそれは美しい場所だったんじゃ」
「……」
「もう何百年も、雪と氷しか見ておらぬ。……できることなら、最期にもう一度だけ、あの花畑を見てみたいんじゃ」
「……でも、その頃には……」
「別にやらんでもよい。亡霊の戯言と思え」
カラカラと少女のように無邪気に笑う姿は、この世に何も未練がないようだった。
「……そろそろ、本当に終いのようじゃ」
はっとして王女を見ると、足元から徐々に光の粒子となって空へと溶け始める。
「最期に会えたのがおぬしたちで良かった」
そう言うと勇者と少し距離を取り、ドレスの裾を持ち上げて優雅に一礼した。
「勇者様、そしてお仲間の皆様。この度は本当にありがとうございました。あなた方のおかげで、我が国の民たちの魂も穏やかに還ることができたことでしょう」
今までの態度を一変させ勇者へ向ける立ち居振る舞いは、気高く威厳に満ち溢れ、まさに一国の王女に相応しい姿。
王女はもう一度勇者の頬を撫でると、その額にそっと口付けを贈った。すると、額に小さな光が宿り、やがて全身へと巡り消えていく。
それは、王女から勇者へ捧げる祝福──
「我らが英雄たる勇者様のこの先に、祝福があらんことを」
「っ、待ってくれ! あんたの名前は何ていうんだ⁉︎」
消えかかった手を咄嗟に握り、勇者は必死に叫ぶ。目の前にいる王女を、歴史の彼方に埋もれたままにしたくない。確かに存在したのだと、明確な何かが欲しかったのだ。
しかし必死な勇者とは対照的に、王女は「あぁ、そういえば名乗っておらんかったか」と、あっけらかんと笑う。勇者の手に自分の両手を重ねると、最後の魔力を込め、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
その笑顔を、勇者は生涯忘れないだろう。
「わらわの名は────」
その声は雪に溶けるように静かで、それでいて不思議なほど鮮明に、勇者の胸へと刻まれる。
その名を呼び返そうと唇がわずかに動くが、声になるよりも早く王女の身体は光の粒子となって風に舞い、やがて空へと還っていった。
勇者の手の中に残されたのは、美しくも儚い一輪の氷の花。
勇者はその花を壊さぬようそっと両手で包み込むと、王女が確かに存在した証を胸へ抱き寄せ、静かに目を閉じた。
激しい戦いを終えた圧倒的な脱力感と、もう二度と交わすことの叶わない声への切なさが、胸を満たしていく。固く結んだ唇から溢れ出すように、熱い一滴が目元を伝い、静かに頬を伝い落ちていった。
冷たいはずの氷の花は、勇者を慰めるかのように不思議と穏やかな温もりを宿していた。
◇◆◇
「よくやった、勇者よ」
謁見の間に、重厚で威厳に満ちた声が響き渡る。勇者を讃えるのは、大陸一の国力を誇る大国の王。かつて魔王討伐を、そして今回の氷の魔女討伐を命じた張本人であり、勇者の故郷を治める君主でもあった。隣には豪勢なドレスを着た王女様が、勇者に熱い眼差しを向けている。
豪奢な絨毯の上に膝をつき、勇者は静かに頭を垂れた。その後ろには、聖女と魔法使いも同じく頭を下げて控えている。
「幾百年の悪夢を払い、我が国のみならず世界を救ったその功績、実に見事であった。約束通り、相応の褒美を遣わそう。おぬしは何を望む?」
「……それは、いかなる望みであっても叶えていただけるのでしょうか」
低く澄んだ勇者の言葉に、王は満足そうに口角を上げた。
「無論だ。一番の功労者はおぬしなのだからな。一生遊んで暮らせるだけの大金でも、爵位でも好きにやろう。……あるいは、我が娘を娶りたいと言うならば、それも拒まんぞ」
王様の言葉に、謁見の間に集まった臣下たちの間に緊張が走る。
普段から「金にならねぇ仕事は嫌だ」「さっさと引退して一生遊んで暮らす」と陰でのたまう勇者のことだ。国が傾くほどの大金か、破格の地位か。または、全てを望むかもしれない。一部大臣たちや貴族たちは冷や汗を流しながら、王女様は期待を膨らませた表情で、勇者の次の言葉を見守った。
期待、羨望、不安、そして品定めするような無数の視線。
それらを全身に浴びながらも、勇者の瞳には一切のブレがなかった。まっすぐに、静かな熱を湛えて王様の眼光を見据える。
「いいえ、王様。私がほしいものは、ただ一つ──」
勇者の願いを聞いた王様と王女様は、思わず目を見開き言葉を失った。大臣たちも呆気に取られて、王の間には痛いほどの静寂が広がる。
だが、背後に控えていた聖女と魔法使いだけは違った。勇者の望みに「やっぱりね」と言いたげに視線を交わすと、示し合わせたように小さく笑いをこぼした。
魔王を討ち、幾百年もの時を越えて氷の魔女を救い、大陸を平和へ導いた最強の勇者。
その勇者が、莫大な褒賞のすべてを蹴ってまで望んだもの。
それは──
◇◆◇
暖かな春の風が吹く、小高い丘の上。
しゃがみ込んで何かをしている小さな背を見つけると、男は優しく声をかけた。
「ここにいたのか」
「あっ、パパ!」
しゃがんでいた少女はばっと振り返り、声の主を見つけると目を輝かせて走り寄って抱き着いた。
パパと呼ばれた男は抱き着く少女を愛おしげに見つめると、小さな体を軽々と抱き上げる。突然高くなった視界に、少女は「きゃー!」と興奮して男の首にぎゅっとしがみついた。
「ここで何してたんだ?」
「見て見て! これ、いっぱい咲いてたの!」
「おぉ、すごいな」
腕の中に抱き上げた少女が、誇らしげに小さな手を差し出してくる。
その手には、鮮やかな一輪の花が握られていた。
「きれーでしょ! ねぇ、これなんていうの?」
「ん? これか。これはな──フリージアだ」
「ふりーじあ?」
「そうだぞ、フリージア」
男が名前を呼ぶと、少女は目を丸くしてパッと顔を輝かせる。
「すごーい! わたしとおんなじ名前のお花なの⁉︎」
「あぁ。それに、誰よりも勇敢で、優しい王女様とも同じなんだぞ」
「わたし、王女さまともおんなじなんだ! やったー!」
腕の中で無邪気に喜び、花を持った手を高く掲げて足をバタつかせてはしゃぐ少女。男は落ちないようしっかりと支えながら、愛しい小さな体を抱きしめた。
「ねぇ、パパ。もっと採って、ママに持ってっていい?」
「いいけど、あまり採りすぎるなよ」
「はーい!」
腕から下りた少女は、彩り豊かな花の絨毯を弾みながら駆け回っていく。男は楽しげに駆け回る少女を穏やかな眼差しで見送ると、ゆっくりと懐へ手を差し入れた。
そこから取り出したのは、あの日からずっと消えずに咲き続ける、氷でできた一輪の花──フリージア。
「思ったより、時間掛かっちまったな。……ったく、面倒なこと頼みやがって」
男は悪態を吐きながらも、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
拝領したこの地に身を置いて数年。魔族の瘴気と氷の魔法によって、不毛の地に変わり果てた大地に花を咲かせるのは、魔王を倒すのよりも骨が折れる作業だった。
それでも諦めなかったのは、かつて王女が愛した美しい光景を、どうしても見てみたかったから。
「……待たせたな、フリージア」
授かった祝福を返すように、氷の花へそっと口付ける。すると氷の花は青く美しい光を放ち、音もなく砕け散った。
舞い上がった光は春風に乗り、丘一面を彩るフリージアへと静かに降り注ぐ。まるで最愛の王女の帰還を待ち侘びていたように、無数の花々が一斉に花弁を揺らした。
『── 最高の土産じゃ。ありがとう、わらわの勇者よ』
頬を撫でた冷たい風に乗って、どこか懐かしい、軽妙で可憐な声が聞こえた気がした。
最期に託された、たった一つの願い。
何百年越しに取り戻した、この花畑を。
フリージア咲く丘から、氷の魔女へ捧ぐ──
魔王を倒し王女を救った勇者と、氷の魔女と呼ばれた優しき王女の物語。




