第115話:23歳の落第生 ―― 痛みのリハビリ
【舞台:聖都・商業区 ―― 喧騒と色彩の迷宮】
「……アスカ、これ、本当に私が着てもいいのでしょうか。なんだか、布地が少なすぎて、落ち着かないのですけれど……」
聖都の目抜き通りにある高級ブティック。姿見の前で、レイは顔を真っ赤にして身を縮めていた。 彼女が試着しているのは、最新流行のボタニカル柄があしらわれた、肩の大きく開いたサマードレスだ。23年間、首筋から足首までを厚い法衣で覆い隠してきた彼女にとって、空気が直接肌に触れる感覚は、ほとんど「事件」に近い衝撃だった。
「非論理的な恥じらいね、レイ。計算上、そのドレスの露出面積は、周囲の女性の平均値と完全に合致しているわ。むしろ、その法衣のような生活こそが異常だったのよ」
アスカは、店のソファにゆったりと腰掛け、魔導端末で何らかの演算を行いながら素っ気なく答えた。その傍らでは、シュシュが陳列されたリボンを肉球でつつきながら、黄金の瞳を輝かせている。
「レイ様、とっても似合ってますニャ! その色も、とっても素敵ですニャ!」
「シュシュちゃんまで……。あ、でも、この『綿』という素材は、とても不思議ですね。聖女の絹のように滑らかではありませんが、太陽の匂いがして……なんだか、自分がこの街の一部になったような心地がします」
レイは恐る恐るドレスの裾を摘み、鏡の中の自分を見つめた。そこには「犠牲の聖女」ではなく、ただの、少し戸惑った表情の美しい女性が映っていた。
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【舞台:日常の洗礼 ―― 靴擦れの旋律】
「……っ、いたた……」
店を出てしばらく歩いたところで、レイが突然立ち止まり、顔をしかめた。
「どうしたのですニャ、レイ様? また悪い魔力の残滓ですニャ!?」
シュシュが警戒して辺りを見渡すが、敵の気配はない。
「いえ、そうではなくて……右の足首のあたりが、熱くて、ヒリヒリするのです。何か、毒のトゲでも刺さったのでしょうか……」
アスカが溜息をつき、レイの足元を覗き込んだ。新調したばかりの革靴の縁が、レイの白い肌を赤く擦りむいている。
「……それが『靴擦れ』という現象よ、レイ。物理的な摩擦による、ごく一般的な生体損傷ね。……おめでとう、一人の女性として、あなたは初めて『自分だけの痛み』を獲得したわ」
「靴擦れ……。これが、あの……」
レイは、その小さな赤みを、まるで宝物でも見るかのような敬虔な眼差しで見つめた。
「数万人の苦しみを知っている私が、自分の足元のたった一箇所の擦り傷に、こんなに狼狽えてしまうなんて……。痛みって、こんなに鮮やかで、自分勝手なものだったのですね」
「そうよ。他人の絶望は数式で処理できるけれど、自分の靴擦れは自分で絆創膏を貼るしかない。……それが、生きているということの最小単位よ」
アスカは無造作に魔導陣を展開し、瞬間的な治癒を行う……かと思いきや、鞄から一枚の布きれを取り出し、不器用そうにレイの傷口に当てた。
「……今日は歩きすぎたわね。計算外の運動量だったわ」
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【舞台:キッチン戦線 ―― 攪拌される混沌】
その日の夕刻。ロッジに戻った三人は、さらなる難題に直面していた。 「料理のリハビリ」である。
「アスカ、この『卵』という球体は、どの程度の圧力で破壊すれば最適なのですか? 私が力を込めると、中身が……その、次元崩壊したように飛び散ってしまうのですが……」
「……レイ、それは単に握りつぶしているだけよ。いい、包丁の背で一点に衝撃を集中させて、クラックを発生させるの。……ほら、貸して」
アスカもまた、普段はゼノスに任せきりなため、実はそれほど料理が得意ではない。 二人の美女が、たかが卵一つの前で、魔導兵器を設計するかのような真剣な表情で向き合っている光景は、端から見れば滑稽そのものだった。
「アスカ様、アスカ様! 鍋から黒い煙が出てますニャ! 炭素化が始まってますニャ!」
シュシュがパニックを起こしてコンロの周りを走り回る。
「……っ、熱い! 湯気が……! 目が、目が開けられません!」
「レイ、慌てないで! 蒸気の熱伝導率を計算に入れなさい……あ、ちょっと、それは塩じゃなくて砂糖よ!」
結局、出来上がったのは「正体不明の甘いオムレツのような何か」だった。
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【ラストシーン】
食卓を囲む三人。窓の外には、聖都の灯りが星屑のように広がっている。 不恰好な料理を口に運び、レイはふふっ、と声を立てて笑った。
「……ひどい味ですね、これ」
「……ええ。私の計算史上、最低のスコアだわ」
アスカも苦笑いしながら、フォークを置いた。
「でも、美味しいです。……自分が失敗して、自分が痛い思いをして、自分が笑える。……聖女だった頃の私は、世界を救えても、一杯のスープを完成させることさえできなかった。……アスカ、私をここへ連れ出してくれて、本当にありがとう」
レイは、絆創膏が貼られた自分の足首をさすりながら、窓の外の夜風を浴びた。 それは、かつての冷たい「絶望の風」ではない。買い物帰りの人々の活気や、どこかの家庭から流れる音楽を孕んだ、温かな「生活の風」だった。
「落第ね、レイ。……普通の女の子になるには、あと数万時間の演算が必要だわ」
「はい。……喜んで、一生かけて履修させていただきます、アスカ」
星空の下、ロッジからは絶えない笑い声が漏れていた。 一人の女性が、自分の人生という名の、美しくて厄介な計算式を解き始めた。その足跡は、靴擦れの痛みと共に、確かな土の匂いを刻んでいた。




