コーヒーは熱々の方が美味しい
海洋汚染が深刻な社会問題だと謳われているかたわら、マイクロプラスチックゴミを体内へ溜め込み、浮力にして泳ぐフグが現れた。
これが俗に言う進化ってやつだ。
どんなに馬鹿げていて、滑稽に見えたとしても。淘汰されることなく生き延びられたのなら、その種こそが王道である。
とするのなら、私は現人類より数歩分だけ先をいっているのかもしれない。
——『十分前行動』に命をかけているからだ。
7時のアラームを止めるところから、私の一日は始まる。
時計の針は6時50分を指していた。
十分前行動に余念はない。
リビングに出ると、朝から朗らかな母と、寡黙な父が朝食を摂っていた。
私の席にはすでにコーヒーが淹れてあって、これが抜群に美味しい。
少し冷めていて、飲みやすく。
おそらく母が淹れてくれたのだろう、彼女はセンスがいい。毎日感謝である。
飲み終わる頃にはニュースが始まり、星占いが6位を発表したところで仕事へ向かう。
ちゃんと一位の星を気にしてはいる、でも確かめたことはついぞない。
別に聞いてからでも間に合うのだ、だとも十分前行動の前では些事だから。
始業の十分前に会社へおもむき、定時の十分前に帰り支度を整える。
帰路はスーパーへ立ち寄り、十分待ったら割引シールがはられると知りつつも、惣菜を手に取る。
風呂は湧き上がる十分前に入るから、水かさが低く肌寒い。
米を炊いた日には悲惨なことになるから、いつも母がやってくれる。
眠気が来る十分前に布団へ入り。
秒速一匹、柵を飛び越えていく羊たちを六百数え、まどろみに沈む。
私は十分前行動に命をかけている。
融通が効かない。
もっと柔軟に生きろ。
気楽にやれ。
何度言われてきたことか、でも私は、この生き方を変えられっこないのだ。
——命を救われたから。
昔はただの教えだった十分前行動。
それが信念に変わったのはいつかの夏。
祖父のお見舞いへ行くため、やはり電車が到着する十分前に駅へ着くと、前の便が遅延してやってきた。
ラッキー。乗り込むと、本来乗車するはずだった電車が脱線する大事故を起こしたのだ。
一度だけならまだ偶然で話はついた。
次は飛行機を乗り過ごした。離陸時間の10分前に空港へ到着するのは遅すぎるらしい、飛行機は墜落した。
二度目は奇跡だ。
どうにか約束の十分前に間に合った。直後祖父は微笑み、天寿を全うした。医師は私に、『祖父の命を、最期に心を救った』と言ってくれた。
三度目は必然だと思った。
私は十分前行動のおかげで絶滅を逃れられた。
私にとって十分前行動は、れきとした適者生存の戦略なのだ。
だから私は信念に従い、首に縄をかける。
椅子から足を離せば、あとは簡単に逝ける。
首吊り自殺。
なぜ死のうとしているのか。
『十分後、巨大隕石が地球に衝突し、人類は滅ぶ』からだ。
死ぬのだって十分前行動。
信念に生かされてきた人生、信念に殉じるのは自然の流れである。
後悔はない。恐怖は少しだけ。
さぁ、その一歩を━━。
「およしなさい」
ガチャリと音を鳴らし、父が部屋に入ってきた。
「君のことだ、そうすることは分かっていたよ」
手にはマグカップが握られていた。
湯気立つコーヒーが淹れてあった。
「最期に二人で話をしよう。君はコレが好きだろう? とても嬉しそうに飲んでくれる。毎朝君の笑顔を見るのが、僕の生存戦略なんだよ」
知らなかった。知れてよかった。
いつだって知る機会はあったはずなのに、十分前行動に固執した結果がこれだ。
たった一度でも早起きすれば済んだ話だった。
毎朝のコーヒーは、父が淹れていたのだ。
その後二人で、たくさんの言葉を交わした。
ついでに言うと、人類は滅びなかった。
某国ががんばった結果、隕石の軌道を逸らしてみせたのだ。
十分前行動をやめて、私は命拾いしたらしい。
もう、信念に期待できないな。
「コーヒー以外で君の笑顔、久しぶりに見たよ」
なーんだ、私はもっと、楽に生きていいんだ。
窓の外、朝焼けが澄んで見えた。
息が吸える。
心身があぁ、軽やかだ。
正直、疲れていたんだよね。
コーヒーは熱々の方が美味しかった。
翌日、私は初めて会社に遅刻した。




