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コーヒーは熱々の方が美味しい

作者: 海の字
掲載日:2026/01/11

 海洋汚染が深刻な社会問題だと(うた)われているかたわら、マイクロプラスチックゴミを体内へ溜め込み、浮力にして泳ぐフグが現れた。


 これが俗に言う進化ってやつだ。   


 どんなに馬鹿げていて、滑稽(こっけい)に見えたとしても。淘汰(とうた)されることなく生き延びられたのなら、その種こそが王道である。


 とするのなら、私は現人類より数歩分だけ先をいっているのかもしれない。



 ——『十分前行動』に命をかけているからだ。



 7時のアラームを止めるところから、私の一日は始まる。

 時計の針は6時50分を指していた。

 十分前行動に余念はない。


 リビングに出ると、朝から(ほが)らかな母と、寡黙な父が朝食を摂っていた。

 私の席にはすでにコーヒーが淹れてあって、これが抜群に美味しい。


 少し冷めていて、飲みやすく。

 おそらく母が淹れてくれたのだろう、彼女はセンスがいい。毎日感謝である。


 飲み終わる頃にはニュースが始まり、星占いが6位を発表したところで仕事へ向かう。


 ちゃんと一位の星を気にしてはいる、でも確かめたことはついぞない。

 別に聞いてからでも間に合うのだ、だとも十分前行動の前では些事(さじ)だから。


 始業の十分前に会社へおもむき、定時の十分前に帰り支度を整える。


 帰路はスーパーへ立ち寄り、十分待ったら割引シールがはられると知りつつも、惣菜を手に取る。


 風呂は湧き上がる十分前に入るから、水かさが低く肌寒い。 

 米を炊いた日には悲惨なことになるから、いつも母がやってくれる。


 眠気が来る十分前に布団へ入り。

 秒速一匹、柵を飛び越えていく羊たちを六百数え、まどろみに沈む。


 私は十分前行動に命をかけている。


 融通が効かない。

 もっと柔軟に生きろ。

 気楽にやれ。


 何度言われてきたことか、でも私は、この生き方を変えられっこないのだ。


 ——命を救われたから。


 昔はただの教えだった十分前行動。

 それが信念に変わったのはいつかの夏。


 祖父のお見舞いへ行くため、やはり電車が到着する十分前に駅へ着くと、前の便が遅延してやってきた。

 

 ラッキー。乗り込むと、本来乗車するはずだった電車が脱線する大事故を起こしたのだ。


 一度だけならまだ偶然で話はついた。


 次は飛行機を乗り過ごした。離陸時間の10分前に空港へ到着するのは遅すぎるらしい、飛行機は墜落した。


 二度目は奇跡だ。


 どうにか約束の十分前に間に合った。直後祖父は微笑み、天寿を全うした。医師は私に、『祖父の命を、最期に心を救った』と言ってくれた。


 三度目は必然だと思った。


 私は十分前行動のおかげで絶滅を逃れられた。

 私にとって十分前行動は、れきとした適者生存の戦略なのだ。


 だから私は信念に従い、首に縄をかける。

 椅子から足を離せば、あとは簡単に逝ける。


 首吊り自殺。


 なぜ死のうとしているのか。


『十分後、巨大隕石が地球に衝突し、人類は滅ぶ』からだ。


 死ぬのだって十分前行動。


 信念に生かされてきた人生、信念に殉じるのは自然の流れである。

 

 後悔はない。恐怖は少しだけ。


 さぁ、その一歩を━━。


「およしなさい」


 ガチャリと音を鳴らし、父が部屋に入ってきた。

 

「君のことだ、そうすることは分かっていたよ」


 手にはマグカップが握られていた。

 湯気立つコーヒーが淹れてあった。


「最期に二人で話をしよう。君はコレが好きだろう? とても嬉しそうに飲んでくれる。毎朝君の笑顔を見るのが、僕の生存戦略なんだよ」


 知らなかった。知れてよかった。

 

 いつだって知る機会はあったはずなのに、十分前行動に固執した結果がこれだ。


 たった一度でも早起きすれば済んだ話だった。

 毎朝のコーヒーは、父が淹れていたのだ。


 その後二人で、たくさんの言葉を交わした。

 

 ついでに言うと、人類は滅びなかった。


 某国ががんばった結果、隕石の軌道を逸らしてみせたのだ。


 十分前行動(自殺)をやめて、私は命拾いしたらしい。

 もう、信念に期待できないな。


「コーヒー以外で君の笑顔、久しぶりに見たよ」


 なーんだ、私はもっと、楽に生きていいんだ。


 窓の外、朝焼けが澄んで見えた。

 息が吸える。  

 心身があぁ、軽やかだ。


 正直、疲れていたんだよね。


 コーヒーは熱々の方が美味しかった。

 翌日、私は初めて会社に遅刻した。

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