第8話 緊張ウェディングナイト
春の夜。帝都の外れに佇む邸宅は、静寂に包まれていた。
洋風の建物に和の趣が溶け合うこの屋敷は
の、いわゆる夫婦寝室。夫婦が二人で過ごす場所だ。窓の外では、桜の花びらが月明かりに照らされてひらひらと舞い、庭の池に映る月がゆらめいている。部屋の中には、沈丁花の香りがほのかに漂い、煤けたランプの光が壁に柔らかな影を投げかけていた。
私は白無垢を脱ぎ、淡い桜色の寝間着に着替えた姿で部屋の中央にぽつんと座っていた。心臓が、とても高鳴っている。今日、私は礼拝堂で栴と誓いを交わして彼の妻となった。それなのに今この瞬間がまるで夢のようで、どこか現実感がない。
「鼓くん、緊張しているかい?」
低い声が部屋に響く。顔を上げると、栴が部屋の入り口に立っていた。黒のモーニングコートを脱ぎ、シンプルな紺の浴衣姿だ。眼鏡越しの彼の虹彩は、月光を映して深い紅に輝いて見える。普段の自信に満ちた微笑みは少し控えめで、どこか柔らかな表情がそこにあった。
「……はい、栴さん。少し、緊張してます。こんなの、初めてですから」
私は正直に答えた。私の前世は女子高生で終わってしまったし、乙女ゲームの知識ではこういう場面は「スキップ」されるかせいぜい「淡いキスシーン」で終わるものだ。つまり、知識も浅ければ経験もないのだ。無論、私はこの世界で今の年齢までちゃんと生きているので、この世界の淑女程度の知識はなくもない……けど。
栴は私の言葉に小さく笑い、ゆっくりと私の隣に腰を下ろした。
「そうかい。だが、安心したまえ。僕も、こういう場面は初めてだよ」
彼はそう言って、私の手をそっと握る。その手は温かく、まるで私の不安を溶かすように優しかった。
「え? 栴さんが、初めて?」
思わず声を上げると、栴は苦笑した。
「天才陰陽師たるもの、恋愛沙汰には縁遠かったさ。魂を見る目はあっても、人の心を掴むのは……まあ、君が初めてだ」
その言葉に、私の胸がじんわりと温かくなる。学生時代の「推し」だった彼。攻略対象ではなかったのに、こうして私のそばにいる。彼の言葉が本心かどうかはわからないけれど、その声の柔らかさに、私は少しだけ安心した。
部屋のランプが揺れ、影が壁に踊る。栴は私の手を握ったまま、静かに話し始めた。
「君の魂は、特別だ。転生者としての輝きがある。でも、今夜はそんな難しい話はしない。君が望んだ『愛のある結婚』を、これから少しずつ築いていこうじゃないか」
私は彼の目を見つめる。そこには、いつもの自信家な陰陽師ではなく、私を真っ直ぐに見つめる一人の男性がいた。乙女ゲームの主人公なら、こんな場面でどんな選択肢を選ぶだろう? でも私はもう、ゲームのヒロインじゃない。
「栴さん……私、どんな愛でもいいって言いましたけど……やっぱり。こうやって、そばにいてくれるのが一番嬉しいです」
私の言葉に栴は目を細め、そっと私の額に唇を寄せた。軽い、触れるだけのキス。まるで、月光のように柔らかく、温かい。
「君は素直だね。そこが、僕には眩しいよ」
彼の声は囁くように低く、どこか色っぽい。私は頬が熱くなるのを感じながら、思わず笑ってしまう。
「栴さん……ほんと、ずるいです。こんな大事な場面で、そんな声で言わないでください」
「ずるい? ふむ、陰陽師としては、君の心を少し揺さぶるくらいは許されるだろう?」
栴はそう言って笑い、私の手をさらに強く握った。部屋の中は静かで、ただ二人の呼吸と遠くで鳴る虫の声だけが聞こえる。
その夜、私たちは多くを語らなかった。栴は私の隣に居て、時折、私の髪に触れたり、転生者としての私の過去をさりげなく尋ねたりした。私は、学生時代の思い出や、ゲームの世界との違いをぽつぽつと話した。栴は真剣に聞き、茶目っ気のある笑みを浮かべる。
「君の『推し』だった僕が、こうして君の夫になるとはね。運命も、なかなか面白いことをする」
「ほんと、ゲームのシナリオライターもびっくりですよ」
私の言葉に、栴は心から笑った。その笑顔は学生時代の彼と重なり、私の心を軽くした。
やがて栴は私をそっと抱き寄せ、肩に寄り添わせた。強すぎず、弱すぎない、ちょうどいい力加減。私は彼の浴衣の袖に顔を埋め、沈丁花の香りと彼の温もりを感じた。
「これが、君の望んだ『愛』の一歩だよ。鼓くん」
彼の声に、私は目を閉じる。初夜は、華やかなイベントや劇的な展開ではなく、静かで温かな時間だった。でも、それが私には十分だった。この世界に転生して、初めて心から「ここが私の居場所だ」と思えた瞬間だった。
窓の外で、桜の花びらが月光に舞う。
×
「ところで、だが」
栴は私の髪を撫でながら、ふと真剣な目で私を見た。
「……なんですか?」
首を傾げると、彼は真剣な眼差しのままで私に近付く。そして、とある疑問を口にしたのだった。
「君はごく稀にこの世界が『ゲームのようだった』と言うようだが、具体的にはどのようなゲームなのだね」
「え……っと、」
「『ゲーム』と言うけれど、卓上遊戯のようなものや子供の遊びのようなものでもないことぐらいは容易に分かる。だが、詳細が掴みにくいのだよ。転生者達の語録も一応記憶しているのだが、それとどう違うのかも、確認したくてね」
そう告げる栴は、研究熱心な学者の目をしている。
それから、私は私の知っている『ゲーム』の説明をしたのだった。
「……ふむ。『乙女ゲーム』と呼ばれる恋愛系統のもの、だと。それで、ゲームの主人公が攻略対象と分類される者と恋愛をして世界を救うのか」
納得した様子で彼は頷いた。納得してもらえてよかった……っ! 私もスペシャリストじゃないから、ちゃんと説明できたから自信はなかったのだけれど。
「それで。僕はどこに分類される者だったのだね?」
「え、と。ら、『ラスボス』……です」
「『ラスボス』? また新しい単語が出てきたね。それの意味は?」
「ゲームのラスト……終わりに立ちはだかる、ボス……強い敵のことです」
「ふむ? 攻略対象ではない、と」
「そうです。ゲームでは、私と栴さんが結ばれる未来は存在しなかった」
「そうか。なら、この世界は君の言う『ゲーム』とは類似しているが別の世界なのではないのかね?」
「そうなんですかね?」
「僕がはっきりと答えを出すには、まだ情報が足りないが。ゲームではあり得なかった未来を掴んだのなら、現実はゲームではない。そうならないかね」
「なるほど……」
彼の言葉になんとなく納得してしまった。ゲームじゃないから、私は誰を選ばないという選択肢を出せて最終的に栴と結婚する未来を掴めた……と。
「と言うか、そもそもゲームに存在しない未来を生きているので、私もそこまでゲームに固着しているわけじゃないんですけれどね」
真面目に『ゲーム』について考察する彼が少しおかしくて、小さく笑ってしまう。もちろん、笑っていいことじゃないのもわかっているけれど。
「……それで。『ゲームでの僕』は、一体どのような行動を起こして世界を滅ぼそうとしたのだね」
……おっと?
言葉の不穏さに思わず私は、栴の顔を見上げた。うわ、真剣ですっごいかっこい顔! ……じゃなくて。悪い顔!
「栴さん、顔が怖いです。……教えません」
「なぜだね? 是非とも今後の参考にしたいと思っているのだが」
「だからダメなんですよ! 私、知ってるんですからね。本当の栴さんが優しい人じゃないってことは」
「……協力してくれる、と言ってくれたじゃないか」
「世界平和のためなら、いくらでも手伝ってあげられますけどね」
そう私がぷい、と顔を背けると、栴は少し拗ねた様子で私を抱きしめた。