第5話 同棲サジェッション
「そうだ、同棲をしよう」
唐突に栴は言った。
今日は(定期的な)デートの日で、場所はいつもの喫茶店。他に行く場所といえば本屋や道具屋、服屋に装飾品の店だ。だから、私と彼にとってはいつもの喫茶店の方が落ち着いて会話ができる。
「同棲……って」
そういえば私達、婚約関係でしたね。
言われて、ハッとした。
結婚前提の婚約関係なら、同棲をしていても何も問題はないですね。
気づくの遅くありません? 彼もだけど、私も。
「急にどうしたんですか?」
「鼓くん。君と一緒に暮らすことで君の安全を守り、僕達の未来をより具体的に考えたいんだ」
栴の言葉に私は驚きつつも、その真剣さに心を動かされた。
「栴さん、私もあなたと一緒にいたいです。でも、同棲って……どうすればいいんですか?」
「心配しなくていい。僕が全て手配する。君が安心して暮らせる場所を用意するよ。最近ずっと君の事について考えていたのだが、同棲を行えば諸々の問題が解決するだろうと気づいたんだ。やはり、僕は天才だね」
「でも急にそれって、私の意見どうなります?」
「……つまり、君は同棲をしたくないということかな?」
「いえ、私の気持ちを聞かないで決定しているのか確認しようと思って」
「無論、君の意見は反映させるとも。住処は僕の持っている屋敷になってしまうのは申し訳ないが。新たに屋敷を購入するのは手間がかかってしまうからね。でも君がどこの部屋に住みたいか、部屋にどのような機能を求めているかは自由だ」
「そ、そうなんですね」
「それで。君はどんな部屋に住みたい?」
「えっと……」
ずい、と彼が身を乗り出してきたので思わずのけぞる。この人の顔が好みだったの時折忘れて、その美しさに打ちのめされかけてしまう……!
「わ、私は。自身の荷物があらかた入れば、特に不満はないと思います……っ! 壁が薄かったので騒音には慣れていますし、多分治安も悪くないでしょう?」
「何? 君、割と悪い環境に住んでいるようだね? ……もう少し早めに気付くべきだったか。そうと決まれば、早速同棲の準備を整えようじゃないか。荷物の運び出しも僕に任せたまえ。僕は天才陰陽師だ。何も臆することはないよ」
そう言って、栴は引越しの手伝いを買って出てくれた。
……まあ、私の荷物って着替えの服くらいしかないのだけれど。家具は持っていくものはないし、食器類もなにもないのだ。
自室を飾っているものは、彼からもらった花束の生き残り(まだ長持ちしている)くらいだし。
同棲の提案をされたあと、彼は私の両親に同棲の報告をした。妹の萩は困惑していたし、両親も反対していた。けれど、彼が何かを告げた後に大人しくなる。……何を告げたのだろうか。
引越しの際に「君、こんなに少ない荷物だけで本当に大丈夫なのかい?!」と栴に心底驚かれてしまった。……やっぱり、彼は育ちのいいところで生まれたんだなというのを再確認できました。
×
栴の住処は、宮廷近くの静かな区画に位置する小さな邸宅だった。そこは宮廷や城下町の喧騒から離れながらも、仕事に通いやすいだろう距離にある。邸宅は庭付きで術の結界が施されており、外部からの侵入や監視を防ぐ設計になっていた。
「ここならわざわざ外出しなくとも君と話せるし、僕たちのプライベートも守られる」
私は新しい家を見て、感激した。正直にいうと腐っても男爵令嬢である私の家よりは当然小さいのだが、掛かっている術の防御が考え得る中で完璧だったからだ。
「本当に素敵な場所ですね。栴さん、私に同棲を提案してくれて、ありがとうございます」
術の具合から見て、見るからに彼の巣なのだ。つまり、彼は自身の場所に私が入る事を許してくれた。
こんなにも心を許してくれていると分かる対応に、私は驚きが隠せない。
「(……彼は、私を信頼してくれている。それに、私も応えなきゃ)」
それともう一つ。この邸宅にはほとんどお手伝いさんがいない。支度の大半を、自身の式神や手下で済ませている様だった。
本物の人間のお手伝いさんは、お菊と言う母親くらいの年齢の女性とその家族だけらしい。
やはり、彼は私を信頼してくれているのだ。
私と栴の二人で引っ越しの準備を始めた。
まずは、私の部屋の位置決めからだ。
「僕の部屋は術の肝になっているから、防犯上移動させることができない。でも、君の部屋はどこだっていいからね」
栴はそう言ってくれる。……でも。
「私は、部屋の位置はもう決めているんです」
そう言い、私は妻の部屋となる場所を選んだ。
貴族の建物には、屋敷の主の部屋とその伴侶のための部屋がある。彼の部屋は主の部屋にあったので、迷うことはなかった。
「……本当に、そこでいいのかい?」
少し驚いた後、彼は確認するように問うた。
「もちろんです。だって、私と栴さんは婚約者であり、将来は結婚するんですから。それなら、私の部屋はここがいいでしょう?」
「わかった。君がそう望むのなら」
それから私は自分の荷物を整理し、栴は預かっていた私の荷物を運び込んだ。それと私は自分の絵画道具も持ち込み、別の部屋の一角に小さなアトリエを作ることにした。
「これから、よろしくお願いします」
「そうだね。君と一緒に、この空間を作るのが楽しみだ」
×
荷物を運び終えた私は、栴が「術の調整」と称して書斎にこもった後、邸宅の台所へと足を運んだ。新しい生活の第一歩として、せめてお茶くらい淹れてみようと思ったのだ。だが、広々とした台所に並ぶ道具はどれも見慣れず、どこに茶葉があるのかさえ分からない。
「困った顔してるわね、鼓さん」
突然、背後から穏やかな声が響いた。振り返ると、そこにはお菊が立っていた。母親くらいの年齢の彼女は、麻のエプロンを身に着け、髪をシンプルに束ねている。その笑顔は、まるで昔から知り合いだったかのように柔らかかった。
「え、あ、すみませんでした! 勝手に台所に入ってしまって……」
私は慌てて頭を下げる。貴族の家では、台所に令嬢が入るなんて珍しいことだ。だが、お菊はくすりと笑い、手を振った。
「いいのよ、気にしないで。ここは栴様の家だけど、これからは鼓さんの家でもあるんだから。――お茶でも淹れようとしてたの?」
「はい、でも……どこに何があるか分からなくて」
「だろうと思ったわ。栴様ったら、術や仕事の話は天才らしいけど、生活の細かいことはほんと雑だから。ほら、茶葉はここの棚よ」
お菊は慣れた手つきで棚から茶葉の入った罐を取り出し、湯を沸かす準備を始めた。その動きは無駄がなく、どこか安心感を覚える。私は彼女の隣で、ちょっと気まずく立ち尽くしていた。
「ありがとうございます、お菊さん。……あの、私、こういうの慣れてなくて」
私の言葉に、お菊は少し驚いたように目を丸くし、それから優しく微笑んだ。
「そうなのね。でも、鼓さん、栴様があなたを選んだのよ。立派な家柄とか、慣れた振る舞いとか、そんなの関係なく。あの人は、心を見てるのよ」
「心……ですか」
私は思わずつぶやく。お菊の言葉は、胸がざわついた。彼女はそんな私の表情に気づいたのか、茶葉を急須に入れながら話を続けた。
「栴様はね、昔から人を簡単には信じなかった。術の結界だの、式神だので自分を守ってたのよ。でも、あなたのこと話すときの目は、なんだか柔らかいの。初めて見たわ、あんな栴様」
「そんな……私、特別なことなんて何も」
「特別じゃなくたっていいのよ。鼓さんが、鼓さんでいるだけでいい。あなたがここに来てくれて、栴様もこの家も、ちょっと明るくなった気がするの」
お菊はそう言うと、淹れたお茶を小さな湯呑みに注いで私に差し出した。湯呑みから立ち上るほのかな香りに、私は少しだけ緊張が解けるのを感じた。
「ありがとう、お菊さん。私、栴さんの役に立ちたいんですけど……私にできることって、なんだろうって」
「そんなに焦らなくていいわよ。まずはこの家に慣れて、栴様と一緒に笑って過ごすこと。それが一番。ほら、栴様、笑顔が少ない人だから。あなたの笑顔で、ちょっと救ってあげて」
お菊は茶目っ気たっぷりにウィンクする。私は思わずくすりと笑い、湯呑みを手に持った。
「はい、頑張ってみます。お菊さん、これからもいろいろ教えてくださいね」
「任せて! 料理も掃除も、術の邪魔にならないコツも、なんでも教えるわ。――さ、栴様にお茶持ってってあげて。書斎で難しい顔してるはずだから」
私は頷き、湯呑みをトレイに載せて書斎に向かった。お菊の言葉が、胸の中で温かく響いていた。転生者だろうと、ただの男爵令嬢だろうと、私がここにいる意味を少しずつ見つけていけるかもしれない。そんな希望が、初めて芽生えた気がした。
私はお菊の言葉に心から感謝し、もっと栴の役に立ちたいと思うようになった。……だけど。転生者であるけれど、ただの男爵令嬢である私にできる事ってなんだろう。