第0話 プロローグ
「——……」
しまった。またぼんやりとしてしまった。だけれど、幸い、誰にも気付かれることはなかった。私は小花鼓、そう、思い出すように自身の名前を反芻する。
そうしなければ、私はそれを忘れてしまいそうで。
薄暗い廊下の隅で、私は雑巾を握りしめ、床を磨き続けている。木目の模様が私の手の下で少しずつ輝きを取り戻していく。単調な作業だ。けれど、この単調さが私を落ち着かせる。考えることを、ほんの一瞬でも止めてくれる。
「ちょっと鼓姉様、あなたまだその仕事をしているの?」
突然、鋭い声が私の耳を刺した。顔を上げると、そこには小花家の嫡子である萩が立っていた。彼女は私の妹だ。血のつながりはないけれど、彼女は私を「鼓姉様」と呼ぶ。愛情からではなく、ただの習慣だ。彼女の声にはいつもどこか棘がある。
私は初め、子に恵まれない両親に迎え入れられた。だが、私が4つになった頃に実の娘である萩を授かったのだ。それから両親は私に興味をなくした様子で、萩にばかり愛情を注ぐようになってしまった。
萩は私の手に握られた雑巾を、まるでゴミでも見るような目で一瞥した。「ふん」と鼻を鳴らし、「そこが終わったら次は出勤の時間まで外の掃き掃除をしなさいよ」と言い捨てると、くるりと背を向けて去っていった。
もう、ため息すら出ない。「あぁ、また仕事が増えた」と、ぼんやりと思うくらいだ。
私はいつまでこの生活を続ければ良いのだろうか。……なんて考えていても、答えは出ない。なぜなら、私が学生時代に攻略対象の誰一人とも結ばれる道を選ばなかったからだ。
この世界は、私が昔やっていた乙女ゲームによく似た世界だった。
全ては過去のこと。私は誰も選ばなかったし、私は誰にも選ばれなかった。——好きな人ができて、その人を眺めていたら他の人のことがどうでも良くなってしまった、から。
でも、私が好きになってしまった人はいわゆる「攻略対象」じゃなくて。だから、私は感情に蓋をしてしまったのだ。攻略対象じゃなきゃダメなんだ、と。
小花家は、この国の名門貴族の一族だ。古くからあり、男爵の身分を賜っている。華やかな舞踏会、きらびやかなドレス、権力と富に彩られた生活——そんな世界に、私はいる。
だが、今の私の立場はあまりにもみすぼらしい。小花家の養女として迎え入れられた私は、家族から「使用人同然」の扱いを受けている。
かつての私は、普通の女子高生だった。ある日突然、この世界に転生してしまったのだ。最初は混乱した。なぜ私が? なぜこの世界に? けれど、すぐに気付いた。この世界は、私が夢中になってプレイした乙女ゲームの舞台そのものだと。
ゲームの主人公は、今の私と同じ「小花鼓」という名の少女。名門貴族の養女でありながら家族に疎まれ、雑用を押し付けられる「ドアマットヒロイン」。どんなに辛い目にあっても他人に優しく、健気に耐え抜く彼女はプレイヤーだった私をいつも苛立たせた。
「なんでこんな扱いを受けても笑ってるの? もっと自分を大切にしなよ!」
画面の向こうで、私は何度そう叫んだことか。なのに、今の私はその「鼓」になってしまった。皮肉なことに、彼女の境遇をそっくりそのまま生きている。
廊下の掃除を終え、萩の命令通りに庭の掃き掃除に移る。春の風が冷たく、落ち葉が石畳の上を舞っている。私は箒を手に、黙々と葉を掃き集める。
遠くで、小花家の本邸から漏れる明かりが見える。そこでは今夜、盛大なパーティーが開かれているはずだ。貴族たちが集い、笑い合い、華やかな音楽が響き合う場所。私はそこに招かれていない。
招かれる資格がない、と言ったほうが正しいのかもしれない。
「……そろそろ、出勤の時間だ」
はっと意識を取り戻す。私はこの家で女中のようなことをしているが、ここで働いているわけではない。宮廷で、女中として働いているのだ。それは、この国の子爵や男爵のような身分の低い令嬢ではあまり珍しくない。宮廷だけでなく、公爵や侯爵、伯爵の家で給仕として働く人も居る。
これは全て、若い貴族の女性が安全に働き、かつ教養を得るための(花嫁)修行なのだ。
無論、教養を身に付けたい平民の人だって男性だって働ける。
「(——めんどくさい)」
着替えながら、内心でため息を吐いた。無論、口には出さず。
女中としての衣装に着替え、髪を整え化粧を施す。姿見はないので鏡台で軽く全身を確認して、気合いを入れた。
時折、自分の名前すら曖昧になる瞬間がある。まるでこの世界に溶け込んで、私という存在が擦り減っていくかのように。
×
朝の宮廷は、貴族たちの華やかな笑い声と、絹製の衣装が擦れる音で満ちている。だが、私がいるのはその輝かしい舞台の裏側だ。重い銀の盆を手に、厨房と貴族たちの控室を行き来する。足元の磨き上げられた大理石の床が冷たく、私の古びた靴を嘲笑うようだ。
「小花! そこの紅茶、早く持ってきなさい!」
鋭い声が私の背中に突き刺さる。振り返ると、子爵令嬢の茅が苛立たしげに手を振っている。彼女は宮廷で「花嫁修行」として働く貴族の娘の一人で、私と同じ女中だ。だが、彼女の家は小花家より格上で、彼女自身もそれを鼻にかけている。
「はい、すぐにお持ちします」と私は小さく頭を下げ、急いで厨房へ向かう。盆に載せた茶器がカタカタと震える。私の手が震えているからだ。疲れと、抑えきれない苛立ちで。
私だって、生きている人間だ。負の感情くらい湧くものだ。小さく深呼吸をして、落ち着かせる。
宮廷での女中の仕事は、貴族の令嬢にとって「教養を磨くための修行」とされている。平民も男性も働くことはできるが、貴族の娘には特別な意味がある。
優雅な作法を学び社交界での振る舞いを身につけ、ゆくゆくは良縁をつかむための足がかりだ。だが、私にとってこの仕事は、ただの「生き延びる手段」でしかない。
小花家の養女として、私はこの名門貴族の一員でありながら家族からは使用人と同等の扱いを受けている。宮廷でもそれは変わらない。女中仲間からは「小花家の厄介者」と陰で囁かれ、先輩女中や貴族の令嬢たちからは雑用を押し付けられる。
「鼓、そこの窓を磨いておきなさい。埃が目立つわ」
「小花、控室の絨毯にシミがあるわよ。すぐに掃除して」
次から次へと命令が飛んでくる。私は黙って従うしかない。反抗すれば、すぐに「養女の分際で」と蔑まれ、仕事はさらに増える。私の手は雑巾や箒を持つためにあるかのように、いつも荒れている。
昼過ぎ、ようやく一息つける時間が訪れる。厨房の隅で、硬くなったパンをかじりながら、私はぼんやりと考える。この世界は、私がかつてプレイした乙女ゲームの舞台だ。主人公の「小花鼓」は、どんな冷遇を受けても健気に耐え、愛らしい笑顔で周囲を魅了するヒロインだった。だが、現実の私はそんな強さを持っていない。笑顔を浮かべることすら、時折、苦痛だ。
「何、休んでるの? 仕事が残ってるのに!」
突然、背後から声が響く。厨房の監督を務める年配の女中、葛だ。彼女は私を特に目の敵にしている。理由はわからない。いや、理由など必要ないのかもしれない。私は小花家の「みすぼらしい養女」なのだから。
「すみませんでした、すぐに戻ります」
私は慌ててパンを飲み込み、立ち上がる。葛は冷ややかな目で私を見下ろし、「まったく、貴族の娘のくせに役立たずね」と吐き捨てる。
夕方、貴族たちが集う晩餐会の準備が始まる。私は銀食器を磨き、テーブル掛けを整え、燭台に新しい蝋燭をセットする。私の動きは機械のようだ。考えることをやめれば、少なくとも心は傷つかない。
だが、ふとした瞬間に窓の外に広がる宮廷の庭園が目に入る。色とりどりの花が咲き乱れ、貴族たちが優雅に談笑している。その光景は、私がこの世界に転生したばかりの頃、胸をときめかせたものだ。あの頃はまだ、ゲームの主人公のように「運命の出会い」を夢見ていた。
今は違う。私は誰も選ばなかったし、誰にも選ばれなかった。この冷遇された日々が、私の選んだ道の結果なのだ。
「小花! ボーッとしてないで、早く動きなさい!」
また声が飛んでくる。私は小さく息を吐き、銀の食器を手に取り磨き始める。私の居場所はここだ。薄暗い厨房と、貴族たちの影の中。いつまでこの生活を続ければいいのか、答えは見えない。
ただ、食器を握る手だけが、今日も黙々と動いている。
私は何かを間違えてしまったのだろうか、と小さく息を吐いた。何か、運命を掴みたい。そう、願う。