トンネル
上野公園の中で順調に勢力を伸ばしてきている自警団。F氏はそこのトップであり、アレッハンドロはF氏の右腕だった。
彼らの組織のシノギには麻薬密売も含まれている。
しかし御徒町駅南口で発生したような道路陥没事故が頻発することにより、違法トンネル摘発に向けた機運が高まっていた・・。
この大して広くもない上野公園と日本人たちが呼んでいた公園の中を、複数のグループで争いあっている。先月はグエルモが右腕を折られた。カルロスが撃たれたのは、その翌月だ。他人のシマの中に事務所(というか掘っ立て小屋だが)を建てて、自分達のシマだと勝手に言い張る馬鹿が現れて、そしてその馬鹿を殺す馬鹿がまた現れるに及んで、もう誰にも止められなくなった。誰かが秀逸に例えた。
「檻の外まで動物園になってしまった」
けれども動物園の中で飼われている動物達は、押し並べて人間よりも余程大人しい。誰も人を殺そうとしないし、与えられた餌と水だけで満足している。それ以上を求めて暴れるなんて事はしない。人間に飼いならされているだけかも知れないが。だからという訳ではないだろうが、今やこの公園ごと壁で囲まれている。そりゃあ野生の動物より狂暴な連中が中に犇めいているんだから、分厚い壁で隔てもしたくなるのだろう。だがもう少し穿ってみる必要がある。誰しも嫌なもの、汚いものは見たくないのだ。そして俺たちは汚くて危険だ。それでもメキシコに居た頃よりかはだいぶ居心地が良い。なにより公園の中には電気も通じていれば水道も通っているし、あまつさえWiFiが通じている所すらある。フアレスに居た頃は週に1,2回風呂に入るだなんて暮らしは考えることも出来なかった。だがここではそういう暮らしが実現してる。警官たちも善良だ。悪徳警官といったって、精々が賄賂をせびって来る程度。ヤクザ者のお先棒を担いで誰かを誘拐するなんて事はしないし、ましてや地元のヤクザとつるんで俺たちを襲ってきたりしない。
なんて天国なんだ・・・。
と当初は思っていた。ここは楽園の小島だ。外敵がいない環境で、ぬくぬくと生きていても殺されることはない。でもそうであればこそ、本国の連中が見逃す筈もなかった。カルテルの連中が日本で本格的に麻薬の卸売りを始める様になってから全てが変ったと思う。F氏自身は麻薬密売なんぞに手を染めたくはなかったが、公園の中にいる連中は一人、また一人と麻薬の売人になり下がっていった。すると麻薬の卸元へ多額の上納金を納めればならなくなる。今ではF氏たちの組織が上げる収益の3,4割が、本国のカルテルへ送金されていた。きっかけは数年前だった。ホンジュラスのそれを真似た巨大刑務所がメキシコ中に出来上がった。1万人は優に収容できる程の大きさだ。他人を殺したことがあって、身体に入れ墨が彫ってある連中は手当たり次第に終身刑にしていくなんて無茶苦茶な事を連邦警察と軍が共同でやり始めてからというもの、少なくともメキシコの中の治安は良くなったようだ。メキシコの中に限っては。でも家の中に害虫が居なくなったからといって、世の中から害虫が消える訳じゃない。住処を変えるだけだ。丁度この(日本|ハポネ)は住み心地が良かった。だからカルテルの連中が新しい市場を探してやってきて、俺たちを狙って売人に仕立てあげ。。。気が付くと俺は売人の元締めとして上野公園で顔役になっているという訳だ。
はぁぁぁ、F氏は溜息を着く。
メキシコ陸軍に所属していた頃は、起床ラッパとそれに続く兵舎内放送が朝の始まりだった。割とラクだった様に記憶している。何しろ三食飯が保証されているし、寝床も整備されてる。おまけにカルテルに脅されなくても済む。天国の様な環境だ!更にタダで勉強までさせてくれる。軍に入隊するまで、中学校くらいしか通ったことのなかったF氏にとって、軍隊は何もかもを用意してくれる最高の場所だったと言える。元々手先が器用で、実家ではしょっちゅう壊れるトラックやトラクターの整備ばかりやっていたせいだろうか、工兵となって部隊の色んな機材を修理させられていた。結局16の誕生日に軍へ入隊してから22で退役するまで、まるまる6年間軍隊にいた事になる。今でもF氏は、あのまま軍を退役したりせずにそのまま働き続けていれば違う人生もあり得たのかな、などと考えたりする。そういう事を考えるのは、今目の前にいるアレッハンドロみたいな輩が持ち込んだ厄介な問題から逃げたいが故の現実逃避だろう。
朝ごはんとして並べられているのはトルティーヤのチラキレス。トルティーヤを具材で巻いてから、サルサソースを掛けた典型的なメキシコ料理だ。F氏はチラキレスをフォークで弄り回しながらも、なかなか食べる気になれない。昨日寝酒として呑んだテキーラの量が多すぎるせいなのか?それとも今目の前でテーブルを囲んでいる、このアレッハンドロのせいなのか?
「アミーゴ。溜息付くと幸福が逃げるぜ?」
とぬけぬけと言いながら、このお調子者はトルティーヤを黒豆スープで包んだエンフリホラーダスを美味そうに食べている。このアレッハンドロこそが、F氏の人生を狂わせた人間だろう。F氏が退役したのは、この男に誘われての事だ。アレッハンドロとはソノラ州の農村に居た頃からの腐れ縁だ。中学までは同じ学校に通い、軍に入隊してからも色々と顔を合わせる機会は多かった。とはいえ何か一つの物事を突き詰めてこなそうという根気強さに欠けている所があった。F氏は工兵として黙々と修理したり、教科書と向き合いながら勉強したりしている傍らで、アレッハンドロは軍の兵舎の仲間達と一緒に上官の目を盗んで酒を呑み交わしたり、場合によってはその上官をも巻き込んでどんちゃん騒ぎに興じたりしていた。本当に要領の良いだけで生きていた。だがこの男がいるだけで、部隊の中の人間関係が滑らかになる。但しその方法はといえば、カネと女と酒とクスリを通じてなのだが。だからという訳か、アレッハンドロの表情はつるりとしていて、芯を感じさせる所がなかった。どんな台詞もアレッハンドロの口を通すと意味のない言葉に聞える。
そう思っているのが伝わったのか、アレッハンドロは急に苛ついた口調になった。
「おいおい。お前、俺がいつも厄介ごとばっかり持ち込んでるだなんて思ってはいねえよな?見てみろよ、この店!女の子とにゃんにゃん出来て、クスリもキメられて、こおんな良い仕組みを考え付いたのは、一体何処の誰なんだ?」
そうである。元兵士主体のF氏の組織が非合法に稼ぎだしたおカネを元手にして、比較的マトモな事業を取り仕切っているのはアレッハンドロだった。具体的には、シャブを楽しめるディスコホールとか、闇賭博場とか、クスリを決めながらセックスを楽しめるマッサージ屋とか、思う存分クスリをキメることが出来る煙タバコ専門店である。確かに麻薬密売人という職業と比較すれば、健全である。それにこの女ったらしは、ことカネ勘定が絡んでくると人が変ったように真面目になるのだ。いつものひょうきん者という仮面を簡単に脱ぎ捨てる。
2人が話し合っているのは旧博物館動物園駅付近に設置されたコンテナの中だった。この廃止された駅の近くには、往時は小洒落ていたであろうガーデンテラスだの、道を挟んで都美術館だのが建っていた。それらは既に閉鎖されている。国立博物館法隆寺宝物館を取り囲むように20feetコンテナが4,5段積み上げられた状態で何列も並んでいる。コンテナ群には建設現場でよく見るような足場が周りに備え付けられており、即席の階段となっていた。表面が錆びついたコンテナに金属材の足場が纏わりついている様は、何故か何日も頭の毛を洗わないフケまみれの頭を連想させるのだった。金属材の足場といっても柵が辛うじて付いているだけのシロモノ。腐食加工など望むべくもないので、やはりコンテナの表面と同じく足場も錆びが目立ち始めている。まだ2年と経っていないのに、とは思わない。F氏が怪しげな筋からこのコンテナを調達したときには、ともかく使えればいいんだ、といって品質や保管状態は二の次三の次だった。今になってみれば、もう少し錆が目立たないコンテナと足場の方が良かったのではないかと後悔している。そんな具合なので、エレベーターなどついていない。水洗トイレなどもってのほかだ。だから用を足すには、コンテナの外に設置されている簡易トイレを利用せねばならない。簡単な仕切りがしてあるだけの汲み取り式便所だ。4,5階あたりに住んでいる住民にとっては面倒なので、連中はお丸に糞をする。そうして溜まった糞を朝方や夕方にでも汲み取り所へ流し込むのだった。汲み取り所といっても、地面に大きな穴が掘ってあるだけである。その中に皆は汚物をぶちまけている。時には死体がこの中に突っ込まれている。無数のコバエやらゴキブリやらが穴の中にある汚物に群がるその様は、見る度に鳥肌が立つ。だからここへお丸の中身を処分しにいく作業を誰もが嫌がった。
「今朝も俺が賄賂払ってる警官から連絡が来た。”いい加減にしろ、俺達で抑えきれねえってな”。また道路陥没があったらしい。今度は御徒町南口だ」
アレッハンドロは押し黙るしかない。
「・・・別にトンネル管理はお前さんだけの責任じゃない。俺の元部下だってトンネル掘りをやってる。でも専門の業者使わずに未認可で掘るのはもう限界だ。あっちゃこっちゃで隣のトンネルブチ抜いたり、光ファイバーぶった切るとかしてりゃあ、そのうちお咎めが来るだろう」
「だとしてもどうすればいいんだ?トンネルなしでどうやって銀行回していけってんだよ?頼むぜおい。まさかそこらの建設会社に『僕たちが密輸に使うトンネル掘ってください』と言えとでも?」
それはその通りだ。F氏は心の中で心底同意する。
ー現金はいい奴だ。電子マネーや口座振替は敵だ。
初めて麻薬の卸元の連中と会ったときに言っていた言葉。F氏はその時に一体何のことか解らなかったが、次第に呑み込めてきた。
自分の足跡を残さずに決済しようと思うなら電子マネーや口座振替なんて使ってはならない。現金だけが友達だ。汚れたカネを使う場合にはとりわけそうだ。どんなにカネを稼いでも使えなければ意味はない。現金はカネの行方を見えにくくする最高の手段だ。大量の現金を壁の検問所に持ち込むなど、自分から自殺しにいくようなもの。そこで少し気の利いた送金手段が、必要となってくる。地下銀行だ。
地下銀行はスマホとメモ帳一冊、そして絶対に裏切らない仲間と大量の現金さえあれば誰にでも始めることが出来る。例えば壁の外に置かれた『支店』ー大抵は飲食店やコンビニエンスストアなどの表のシノギを持っているーにおいて、自分の口座へ100万円分入金しておく。そうして何食わぬ表情で警察の検問所を通過し、壁の中に置かれた『支店』ーこちらは主に売春宿の遣りて婆だの闇賭博場の胴元が兼業しているーにおいて、自分の口座から100万円分引き出す。こうすれば上野交番近くに置かれた検問所を通過することなく、無事に100万円分送金できることになる。その後この現金は、闇賭博場やら売春宿で消費されることとなる。上野公園内部に縄張りを持つ組織は大抵そういった自前の地下銀行を構えているものだ。
ただここで問題が一つある。このやり方では、壁の外側から内側へ送金する金額と内側から外側へ送金する金額が釣り合っていないと、壁の内側にある『支店』では現金が足りなくなり、壁の外側にある『支店』では現金が余ってしまうのだ。トンネルはそういった問題を解決する為にも掘られるのである。壁の外側で余っている現金を壁の内側に持ってくるにあたり、トンネルが一番安全確実だった。だがこうしたトンネルを掘っての非合法なやり取りは警察として見過ごせる訳がない。だからこそ日夜トンネルを探索したりして、違法に造られたトンネルは片端から閉鎖されていくのだけれども、完全に鼬ごっこの様相を呈していた。
「お前さんの『銀行』にはいつも感謝してるさ。そのお陰で高利貸しを営んだり、色々な買い付けも出来るってんだからな。だがもう少しトラブル起こさずに掘れないもんなのか?」
「今でも十分気ぃ付けて掘ってるんだぞ」
「でも事実こうして事故が起きてるだろうが」
トンネルこそが、上野公園内部に住み着いた難民たちにとっての生命線である。といっても彼らが全て独力で作り上げた訳ではない。旧博物館動物園駅跡地に勝手に住み着いたりだとか、戦前に掘られてから忘れ去られたトンネルを活用しながら、だましだまし再生させていったという方が実情に近いのだ。F氏が軍隊時代に工兵として活躍していた経歴が活きてきた。数十年前のトンネル壁面は何処も表面が剝がれており、場所によっては穴すら空いている。こういった隙間口から鼠だのなんだのが出入りする。更にトイレの水も当初は使えなかったから、ポンプ室を工事して、水を引き込む。さらにコンクリートを上塗りして補強したり、LED照明を取り付けたり。更に近くの電線から盗電する配電工事も欠かせない。勿論、東京電力や上野警察署へ事前に賄賂を渡して黙認して貰う必要もある・・・。F氏はこういった事前の根回しを非常に得意とした。暴力一辺倒のメキシコ本国の連中には真似できない芸当だ。こういった作業の積み重ねを経て、漸くここらのトンネルが本格的に稼働する様になってきたのだ。
このトンネルを通じて、壁の内側にご法度の白くて純度の高い粉を仕入れたり、銃器を始めとする非合法な品物を搬入出来ているのだ。だがそれ以上に生活必需品を輸入したり、電子機器やら盗品のスマホを使えるようにしてくれたり、といった事が可能になる方が嬉しい。それに麻薬の密売はルートさえ押さえて居れば、別に上野公園内部でなくとも幾らでも売上高を伸ばすことは出来る。
「ここの警察は真面目なんで助かるって言ったら、こないだ本国の連中がビックリしていたよ」
とアレッハンドロは笑い話でも話すかのように語るのだった。ソノラ州では州警察が女学生の誘拐を働くこともある。ソノラ州に限らず、メキシコ全体でそういった事は珍しくもない。
「そしたら傑作でさ
『お前弱みでも握られてるのか?大丈夫か?誰か差し向けようか?何人必要か言ってみろ』
だとさ。だから、そういうのを辞めろっていう意味で喋ってるんだけどな。通じねえんだな。こりゃ」
本国のカルテル連中は解ってないのだが、重武装すれば良いというものでもないのだ。日本はメキシコではない。この国では警官殺しは重罪だし、役人たちも総じて真面目だ。暴れずとも賄賂を渡して適当に持ちつ持たれつの関係を築き上げるだけで十分カネ儲けできる。そうして稼いだカネの資金洗浄、壁の内側での店の管理など全てを請け負っているのが、このアレッハンドロだった。今もコイツが居るからこそ、F氏たちのグループは比較的纏まっているのだろう。それはF氏にも解っている。
「今日日本人どもと話し合いをしてどうにかなるもんなのかね・・・トンネル摘発の話なんて不動産屋相手にやってもしょうがないだろう」
「しかし俺達が直接役所と話し合う訳にもいかんしな。誰かが間に入って話し合ってくれないとどうしようもない」
「話し合ってどうするんだ?」
「役人共がどれくらい本気なのかを調べるんだよ。口先だけなのか、それとも本腰入ってるのか」
アレッハンドロは話にならない、という風に両手を差し出した。本当であればF氏もそうしたい所だ。だが彼は難民組織のリーダーであり、責任というものがある。
「ともかく俺たちで悩んでいても始まらないだろ」
そういってF氏はコンテナの外へ出る。
「何処へ行く?」
「朝の見廻りと例の封鎖されたトンネル現場を見ないとな。お前も来いよ」
そういって2人はコンテナ内部に隠された階段を降りていく。京成電鉄の旧博物館動物園駅へと繋がる秘密の通路は無数にある。あり過ぎて誰にも全貌が把握できていないが、誰一人としてそれを問題視していない。
旧博物館動物園駅は、上野動物園や国立博物館に行く休日の客向けに建設された駅だった。元々利用客がそこまで多くなく、その後忘れ去られた様になっていた駅の入り口付近にまず最初に掘っ立て小屋が並びたち、手狭になってくれば今度はコンテナ住居が出来上がり、更に廃駅の扉を勝手に壊して中に不法侵入していった。アレッハンドロにはこの駅が神殿への入口か何かに思える。だから無意識のうちに十字架を胸元で切ってから駅の入口を降りていく癖があった。F氏はいつもそういう彼の癖を面白そうに眺めており、視線に気づくとアレッハンドロは何かを弁明するように
「誰にだって苦手なものはある。暗いところとか」
と呟くのだった。
「あぁ俺にも苦手なものはある。カネと女だ」
とF氏がからかうように返すと、
「そういうのを日本では饅頭怖いっていうんだよ」
とアレッハンドロは話を遮った。
階段を降りていくと、踊り場には早くも屋台が開いていた。上野公園の中がバラックやプレハブ小屋、そして違法コンテナで埋め尽くされようとしているのであれば、この地下トンネルは屋台だの闇賭博場だの地下銀行の支店が犇めいていた。それも致し方ない。上野公園の中は既に人間で溢れかえりそうであり、また老舗と呼ばれるようになった名店も営業している。後から新しく商売を始めようとするならば、トンネルの中で始めるしかない。
京成電鉄の旧博物館動物園駅に繋がっている通路を補強・修復して使っている。上野公園を覆うようにして作られた壁など、こういった通路や新たに掘られたトンネルを使えば苦も無く迂回できる。警察や難民の間では周知の事実だ。これも壁やら検問所というのが、ジェスチャーに過ぎないことの一例である。旧博物館動物園駅の出入口から通路、そしてホームに至るまで最早びっしりとホームレスやら難民たちが住み着いており、全ての人間を退去させることは誰の目にも不可能だった。地上には検問所じみた交番を構えている警察連中ですらそこは解っている。トンネルの中で発生する大抵の揉め事は、F氏の組織の人間が解決する。
薄暗いトンネル内部には、無数の吸気口や排気口として使われるダクトが取り付けられていて、さながらこのトンネル自体がうめき声を出しているかの様だった。だがそれでも空気は地表近くと比べると淀んでいる。本来の給排気設備はとっくの昔に故障しており、急ごしらえで応急処置を施した所で限界があった。不動産屋に専門の業者を呼ぶようにお願いしているが、何やかやと理由を付けて修理に来ようとはしない。法的には閉鎖中である筈の、誰も利用者がいないことになっているトンネルを不法占拠している客などと関わりを持ちたい人間の方が珍しいだろう。
未だ朝の8時というのにトンネル内部は活気付いている。これから壁の外で仕事に就く連中は、この時間帯から食事をしておかないと間に合わない。日本人は神経質なまでに時間に厳しいのだ。壁まで作っている割に意外ではあるが、難民が壁の外で働く口というのは結構ある。そもそも不法入国に限りなく近い立場の難民というのは、建設現場や飲食現場で求められる恰好の労働力なのだ。安値でこき使うことが出来て、要らなくなれば首にすればいい。代わりなど掃いて捨てるほど居る。
だが難民が低賃金に我慢して働くと、日本人や合法的に移民してきた連中の仕事を難民が奪うと非難される。かといって難民連中に働かせないようにすると、犯罪行為か違法すれすれの行為に手を染めるしかない。そして難民が壁の外で働くときに使う通用口は、やはりトンネルだった。警察が運営するゲートを通り抜けることなんて不可能な、不法滞在者、前科者、テロリストetc・・。そういった連中を建設現場へ向かわせるには、違法なトンネルを使うしかなかった。だがこういったトンネルが最近次々と摘発対象となって閉鎖されてきている事もまた事実だった。
「まさか日本に来るとは思ってなかった」
とアレッハンドロがいうと
「あぁ俺もそうだ」
とF氏も返す。難民として上野公園に送り飛ばされてきた直後の日々を思い出していた。そう、飛ばされてきたんだ。国境沿いの砂漠を死ぬ思いで乗り越えて、テキサス州のエルパソ市街地で息を潜めるように暮らしていたら、ある時あっけなく移民警察に摘発されたのだった。どうやらその時働いていた内装工事の請負業者が垂れ込んだらしい。給料日ギリギリまで働かせ、その手前で通報するという手口だった。だがそういった手合いが詐欺で摘発される事は滅多にない。
ーあの頃に比べれば、今の自分は確実に豊かになった。それに自分に付き従って来る部下も大勢出来た。どこまで信用できたものかは解らないが。
F氏は鏡を見なくなった。自分の顔を見るのが恐ろしいからかも知れない。今の自分は間違いなく昔とは人相が変っていることだろう、と自覚はしている。時折目つきが矢鱈と鋭い人間が鏡に映っているなと思うと、実はそれは自分自身なのだ。思わず眼をそむける。仕方がない。いつも不安に苛まれて、気を張っているせいかもしれない。目元の険しさはなんだ、昔の俺であればまず話しかけなかったぞ、こんな人間には。それに眉間に出来た皺。いつも顔を顰めて敵対する組織とのあれやこれやばかりを考えているとこうして皺が刻まれていくのか。
トンネルは銀座線上野駅やらJR上野駅やらに繋がっていた。F氏のグループだけではなく、他の難民組織も自前のトンネルを絶えず掘っている。だからこそトンネルの全体像は誰にも把握できなくなっている。それぞれのグループとしてみれば言い分はある。いつ警察から既存のトンネルを閉鎖されてしまうか解らないから、一か所でも多く非公式なトンネルを掘っておきたい。それも自前で。他人の掘ったトンネルを使えば借りを作ることになる。だがトンネルを掘るのは、誰にでもできる作業ではない。大抵は既に掘ってあるトンネルを貫通してしまう。しかも上野御徒町界隈には地下水が流れており、地面の土や砂を運んでいくので常に地盤沈下が発生している。そういった地盤に関する知識もなく適当に掘り進めると、ある日突然道路陥没などを引き起こすのだ。
従って最近では非公式に警察、区役所、難民組織などで協議体が造られて調整していたが、そもそも難民組織というのが流動的であって一体誰がトップなのか判然としない。それに幾ら非公式にとはいえ、警察や区役所の面々が、実態はヤクザ同然な連中と会うのはどうなんだ、という声もあって、結局は失敗に終わった。
トンネル内部で交わされるのはスペイン語が多数を占めるが、太平洋の島嶼諸国で話されている言葉もしばしば聞えてくる。国ごと海に沈んでしまった太平洋にある島国から来た難民たちもトンネル内部で商売しているのだ。泥縄式に難民がやってきたので、統制的に区域割りなどされている訳ではない。だが大雑把にいって上野駅やゲート(と呼び習わされている検問所)にほど近い場所には中南米系の難民が多い。
F氏とアレッハンドロは御徒町駅南口付近のトンネル削岩場所まで移動する。
「実際にみてみると、酷いもんだな」
とアレッハンドロが言った通りだった。既に止水処置は済んでおり、水道管を破れた所へバイパスする臨時の管まで取り付けられていた。勿論、後で本格的な工事をしなくてはならない。こんな応急処置でも2,3ヶ月はもつのだろうが。但しまたぞろ、難民への風当りが強くなりそうな一件とはなった。更にこういった事故は今後も生じるであろうから、そろそろ警察やら市役所やらに賄賂を渡してコソコソと工事するというやり方から決別する必要があった。
だたF氏は
「けれども今あるトンネルはドンドン閉鎖されていってるしなぁ・・」
と零している。違法マーケットの温床、もっと言えば無法地区が上野公園の中に収まっているうちは、当局も何も言ってこなかった。だが今やそんな事は言ってられなくなった。警察の黙認があるとはいえ、情勢が変っていつ摘発されるかは解らない。だから絶えずトンネルの出入口は増やし続けるようにしていた。今は賄賂をばら撒きつつ地元警察とも上手くやっているが、所詮警察など国家の犬、信用できない。更に最近はトンネル一斉摘発なども実施している。幾ら大衆へのパフォーマンスが必要とはいえ、そんな事をされたら日常生活を送ることすら敵わなくなってしまう。
「右手で殴り合い、左手で握手か・・。」
「それ、誰の言葉?」
「ナガサワだよ、あの不動産屋。やっこさんも元日本陸軍だからな」
F氏は軍人あがりを信用していた。危険な任務を引き受けた連中は特別だ。だからこそ、今日もナガサワとウエハラに会うのである。そこらの不動産屋であれば会う積りもなかった。