ガキの癇癪
酒と魚と旨い飯。
「むっほほほ……これは、これは。この眺めだけでも中ノ湾まで来た甲斐があるねえ!」
興奮がおかしな方向に作用しているのか、引き攣れたような笑い方をする重蔵。それもそのはず、東潮では見た事もない様な高級品に庶民派問わずの種類に富んだ食卓は列車の旅に疲れた身には堪らないものがある。
「喜んで頂けた様で何よりだよ。ささ、先ずは中ノ湾自慢の魚から……うむ、やはり旨い!」
「身の色も鮮やかに歯応えに富み、風味豊かな脂の後切れも良い。素晴らしい魚だ。」
「俺は貧乏舌だから良く分からんが、この漬物は初めて食う美味さだ。これ何だろうな。」
「お前さま、この酒も絶品だよ。香り高くて艶やかで、キツく喉を焼いてくれる。音々ちゃんの目利きは確かだね。」
「うへへ……それ程でも無いですよお。でも喜んでくれて光栄ですう。」
西浦や東潮の食卓と違い、中ノ湾は皿の数を重視する。ゆえに一つ一つの品に細部まで手を入れるのは難しいのだが、五櫻鉄鋼は随分と腕利きの料理人を抱えている様である。これでは話も何もあったものでは無い。卓に並ぶ全てが白飯のアテであり、その白飯までが粒立った煌びやかな新米なのだ。
「長くなる要件だし食べながら話そうとも思ったが、これでは冷める前に平らげるのが礼儀だね。」
「うむ、同感だ。冷めた魚ほどしょぼくれた飯もないものだからな。」
目元を蕩かせながら煮付けを口に運ぶ老人達に合わせて箸の速度を落としながら、野火は食卓を観察する。試合の場以外での駆け引きなど知らぬ彼は、せめてそれしかできる事がなかった。
「この器……もしかしてこれも手製なのか?」
「あら?よく気付きましたねえ。ここの皿はほとんどあたしが焼いたんですよお。手先、器用なんでえ。」
「ほう。中々洒落た感性してるんだな。どう言ったら良いのか分からんが、均整のとれた感じがする。」
銀砂を散らした暗い地をとろりと硝子で覆った様な意匠は、名前があるのかも知らないが相当な技量を感じさせる。
目鼻と口で存分にもてなしを楽しみ尽くした頃にはどれだけの時間が経ったろうか。窓から差し込む光は黄昏時のそれだった。
「さて、食事も片付いた頃だし本題に入るとしようかね。吉光さんよ。」
「ああ。神代も居てくれれば一番良かったんだが、あいつも忙しい身故な。……帝國重工の対外動向が本格的にキナ臭くなってきていやがる。奴等、また戦を始めるつもりだ。」
「そうか。戦時法案の動きは無いみたいだが、もしや水面下で全てを終わらせるつもりなのかな?」
「恐らくそうですねえ。根猫蛇の網にもやたらと西浦の引っ掛かりが増えましたから。わたしらを取り込みたい様ですう。」
「……俺が聞いてて良い話なのか、これ?」
「当たり前じゃないか。坊主ももう私達と一蓮托生さね。」
ここまで乗り掛かっておいて、離れたらそれこそ消されるぞと菜穂子は軽く言う。重蔵ですらも逃げの一手を打つ帝國相手に野火一人で渡り合ったらどうなるかなど、それこそ火を見るよりも明らかである。
「ああ……。まあ仕方無いか。さて、そんなら俺は何をすれば良いんだ?と言うか、俺に何が出来るんだ?」
「ふむ。聞けば野火よ、君は火嶋流棒術の門下だそうじゃないか。その時の伝手が今どれほど残っている?」
「……すんません。俺はもうあの門を通れない身です。伝手、知り合いなら居ないこともないですが、あいつらには頼れません。それは許されない事です。」
「あのわざとらしい喧嘩殺法は、それが所以なのかい?」
「……そんなところだ。今のところの俺にあるのはちょっとの力と、取り敢えず五回ほど生き返って死ぬまで食うに困らない金だけだ。」
「え。野火さん金持ちなんですか?」
「うん。昔は色々持ってたからな。全部処分したらそれくらいの金になったんだ。今どれくらい残ってるかは数えて無いが、まだ大分残ってる筈、だ。多分。」
「そうか。ならばそこは問題無いな。何かとこれから物入りになるがあまり儂の財布を当てにしていられなかったのだ。」
「それは光栄ですが。俺の役目はそれだけですか?」
「それを伝えるかは君達全員に一つ問うてからだ。」
「……ふむ。」
「私ら全員にね。ごめんよ坊主、ここまで踏み込んでは本当にまともじゃ帰れそうに無い。」
「気にしないでくれ。……火嶋を捨ててから野垂れ死の覚悟は出来てるから。」
野火は、隣から注がれる視線に気づかないふりをした。火嶋流を破門されたその時から、彼はその在り方を自ら否定した。そのしがらみを他人に話すつもりも無かった。
「野火、重蔵殿、そして菜穂子殿。五櫻吉光の名において貴殿らを五櫻鉄鋼に迎え入れたい。待遇は応相談だが、限界までの譲歩を約束しよう。」
「……ほう。」
「……僕らを、か。それが何を意味するか分かって言っているんだな、吉光さん?」
食後の少し緩んだ暖かい空気が、その瞬間音を立てて冷え切った。座布団に正座したままの二人は特に姿勢を変えたわけでも、表情を変えたわけでもない。ただ、纏う気に殺気が混ざっただけだ。
それだけで野火は、咄嗟に部屋を飛び出しそうになった。閉所での戦闘において相手の間合いから外れるという染み付いた行動が出そうになったのだ。
錆びた元戦士は怯えた。予備動作も無しにそこまでの殺気を放つ戦闘機械にもであるし、その二人を前にして微動だにしない入道雲の如き小男にもであった。
そして野火は苛立った。何よりも何よりも、自分で手を貸したとは言えこれまで殆ど説明もせずに自分を引き摺り回すこの大人共にである。そして野火という男はこんな時、この力関係ならばどうすれば良いかを感覚的に心得ていた。
「……あんたら、殴り合いする前に一から十まで説明しやがれ。終いにゃ泣くぞ、俺。」
「……。」
「……。」
「……。」
「……あれま。本当に子供じゃないですかあ。」