音々という女
ねねねねねねねねねねねねねねねねねねねねねねねねねね。
気付けば固い座席に頭を落としていた。開こうとする睫毛がわずかに抵抗を伝え、動かす首がみしみしと音を立てる。顔の角度を変えないように起き上がると、目を覚ました菜穂子に膝枕をしたままの重蔵が窓の外を見ていた。
歪な絵だった。
「ようやく起きたか。ほら、中ノ湾の駅が見えて来たよ。」
「重蔵の旦那……ずっと起きてたのか?」
「慢性の不眠症でね。菜穂子程じゃないが僕も身体炙られてる身なんだ。」
視線を逸らした重蔵が窓の外を指した。
逆光に煙る窓に鋼鉄が映える。この国で二つしかない帝國重工の商売敵の内の一つ、五櫻鉄鋼の本拠地が近づいていた。
東潮から中ノ湾まで、南の空を仰ぎながら止まる事なく走り続ける黒い列車。東潮と中ノ湾の間は海も山も挟まないが、その距離ゆえに全速でも一晩かかる。遠隔通信など望めない距離ではあるが、帝國重工が管理する列車に乗っている時点で隠密も何もあったものではない。
「あの駅から既に捕捉されていたとすると、こっちでも待ち伏せされてると考えるのが自然だよな。重蔵の旦那、策はあるのか?」
「それについては神代が手を回してくれているらしい。最悪、押し通れば済む話だけどね。」
「平和に行きたいもんだ……。」
ぼやきながらも、重蔵から預かったままの杖を握りしめる。
何事もなく終わるわけが無いことは三人とも分かっていた。それでも口に出さずには、小さな希望を捨てずにはいられなかった。それすら失ってしまったらもう終わりだということも分かっていた。
ブレーキが軋みながら速度を食らい尽くし、軽い音を立てて列車の扉が開く。なのに最後尾のこの車両だけは開かない。
「妙だな。」
「故障かな?」
甲高い金属音と共に車両が軽く揺れる。そのまま汽笛が鳴り、列車は滑る様に駅を出て行った。野火たちの乗る車両を残して。
「……故障か。よくある事だね、うん。」
「そうだな。ヤマモトの店もよく水道が止まったもんだ。」
「それはきっと彼がずぼらなだけじゃないかな?」
「はっはっは。違い無い。」
「男共は現実逃避が上手いねぇ。」
乾いた笑いもそこそこに扉をこじ開けにかかる。が、開かない。油圧式の横開き戸は僅かも動かず、中の客など居ないとばかりに佇んでいた。
「……壊すか?」
「壊そうか。野火くん、少し離れていたまえ。」
「少しでいいのか?この車両、廃車になるんだろう?」
「君なら大丈夫だろう?」
「まあそうだがな!」
「……お前さま?その扉の右手にある文字を読んでくれるかい?」
「え?」
非常用開扉ボタン
「……。」
「……。」
「お馬鹿男どもめが。」
「面目無え。」
ボタンを押すと扉は嘘の様に開いた。いい年をした女性であるのは承知しているが、見た目が明らかな子供に罵倒されるというのは何やら妙な気分になるものだった。
場を支配する生温い空気が脂汗を呼び始めた頃、嗅ぎ慣れない匂いが鼻をつく。清涼感の中に腐敗の生臭さが同居するこの匂いは昔嗅いだ事がある。
「……潮風?海が近いのか?」
「野火くん、ここは五櫻鉄鋼の工場都市だよ。」
「ああ、だからか。」
鉄鋼に限った話では無いが、工業というものには大量の水が必要だ。大規模にやるとなると海際に工場を建てねば供給が追い付かなくなる。
「で、どうする?海水浴にでも行くか?」
「それもいいけど、今の私は潮風に当たれないからねえ。」
「菜穂子と入れないなら海もただの水溜りと変わらないからね。今回は遠慮しておこうかな。」
「それでは中ノ湾の魚でもいかがですう?今の時期は新米も入ってますからね、最高ですよお?」
「新米か!それは良いね。魅力的な響きだ。」
「美味い魚も最近食ってないからな。……待て、誰だお前。」
「はい?」
当たり前の様に会話に滑り込んだばかりか売り込みまで敢行する面の皮は賞賛に値する。丁度腹が減っていたのも事実。
「しかしせめて前から来るくらいの常識を持ってくれ。背後からこっそり来るな。当然の様に会話に割り込むな。お前誰だ。」
「なんだ、気付いていなかったのかい。さっきから見られていたよ?てっきり気付いているものかと。」
「坊主もまだまだだねえ。気配と視線の感じ方、教えてやろうか。」
「神代さんからは手練れがお二人と聞いていたんですがねえ。あなたこそどなたです?」
猫の様な、蛇の様な女だった。重蔵よりも頭一つ高く、細長い肢体を港町風のからりとした衣装で包み、耳元で切り揃えた栗色の髪は一房だけを腰まで伸ばしている。なんとも目立つ風貌をしていた。そうでありながら欠片も気配を感じさせず会話に割り込んで来る。
異常なのは野火だけか。もう分からないが、きっとそうではないだろう。
「彼は僕らの弟子の様なものさ。神代は何か言っていたかい?」
「何かと危なっかしい奴等だから気を付けてやってくれと言われてますよお。申し遅れましたがあたし、ネネと言います。音々と書いてネネです。ちなみに名字は根猫蛇と書いてネネコダと読みます。面白いでしょう?」
「ネネコダネネ、か。中々聞かない響きだが不思議としっくりくるな。」
「私の名前よりもよほどハイカラじゃないかい。可愛らしくて良い名前だよ。」
「うへへへへ。褒めても宿とご飯しか出ませんよう?車も出すんで着いてきてくださいな。」
「結構出るじゃないか。」
嬉しさか長身をくねくねと揺らす音々に連れられ、入り組んだ駅の廊下を行く。彼女曰く用心の為だそうだが、この街は他よりもまだ安全でもあるらしい。
「ここは五櫻鉄鋼の企業都市ですからねえ、少なくとも表立って重工は手出し出来ないんですよお。なんで、暫くは羽を伸ばしてくださいな。根猫蛇の名において中ノ湾での生活は保証しますう。」
変に間伸びしてはいるものの、不思議と不快感を感じさせない喋り方で彼女は話し続ける。今日の天気から海外の金の動きまで、絶えず口から放たれる言葉に終わりは無い。最後には神代の一件についてこちらから聞かねばならないほどだった。
「ああ、そうでしたねえ。忘れてましたあ。」
神代が訪れたのは丁度今から二月と少し前らしい。普段であれば必ず事前に何か知らせてからの訪問だというのに、その時は突然だったそうだ。
「その時は我々の組織もちょっとしたごたごたを抱えてましてねえ。巻き込む訳にもいかず言伝だけもらってお帰り頂いたんです。全く、神代さんの方で助かりましたよお。他だったらこうはいきませんね。」
「二月というと、手配書が出回る一月前か。神代って奴は随分と先読みをするんだな。」
「情勢の先読みが出来るだけの知識を蓄えているからね、彼は。……音々さん、言伝というのは先程ので全部かい?おそらく続きがあると思うんだが?」
「鋭いですねえ!流石です重蔵さん。という訳でそこに今から向かうんで、乗って下さいな。」
そう言って顎で示した車は随分と古ぼけ、既に大分凹んでいた。座席に座ってみれば、何やら生臭い匂いが鼻をつく有様。淀みない仕草で鍵を回し、変速器を叩いて加速する。四の車輪を手足のごとく操る、中々堂に入った作法である。
「これはお前さんの車かい、音々ちゃん?」
「いえ?先週知り合いの魚屋さんからサイコロで巻き上げてきましたあ。手先の器用さには自信があるんですよお。」
「オンボロとは言え車を賭け事一つで、かよ。随分な治安だな。本当に安全なのか?」
賭け事の相場は街の治安と反比例する。相場が安ければ安いほど街は表も裏も制御が効いているという事になる。反対に簡単に身を持ち崩せるほどの相場なら、元締めがそれを煽っているかそもそも存在しない。大体において、そんな裏稼業はすぐに破綻する。
「何を勘ぐっているのか知りませんがあ、むしろ中ノ湾は治安良い方ですよお?少なくとも女の子一人で夜に独り歩きできるくらいは安全ですう。素敵なお薬もここ数十年は出回ってませんから。」
「西浦と東潮に挟まれたこの街でそこまで出来るとは、流れ者の系譜は伊達じゃないという事だね。頭は中々に聡明な人間の様だ。一度挨拶しておきたい。」
「……その流れ者って言い方、あまり好きじゃありませんねえ。あたしは気にしませんけど、他の人には言わない方がいいですよお?下手したら殴られます。」
「おや、これはすまなかったね。忘れてくれ。」
気にするなと掌を振る音々。静寂を魚臭さが侵食する時間を暫く過ごし、車はようやく何処かやたらと広い駐車場に停まった。
「そういえば音々さんよ。聞いてなかったがここ何処なんだ?」
「あれえ?言ってませんでした?ここは五櫻鉄鋼の製品試験場ですう。」
「うん、嫌な響きだ。嫌な予感。」