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河中の小石

転がる小石に躓く世界よ。


 明確な指針を得た二人の足取りは軽い。眠りから醒めない街を音もなく駆け抜け、月よりも速く残像を残す夕暮れの者どもは、円環技研にも帝國重工にも負けず劣らず人間離れした身体能力を当たり前に操り、西浦で最も古い公園の一つを破壊しようとしていた。

「地下水路とは聞きましたが、どこから繋がってるんですかねえ。」

「周りにも入り口は見当たらねえ。一杯食わされたんじゃねえのか?」

 割れかけた石畳、いつの間にか片付けられた通路にも怪しい行き先は無く、すっかり煤けた噴水にも違和感は無い。歯車の街の戦後を長く見守ってきた、優しき水の彫像である。

「しかし不自然なのは確かなんですよお。拡張主義のこの街で、この噴水周りは妙に古すぎるんですう。きっと何かの目印なのかも……。」

「屋根の上から見てみたが、周囲の地面に手を加えた形跡は無え。あるとするなら噴水本体だけだ。」

 地面に目を凝らし、石のマス目を丹念になぞる音々の後頭部を眺め、野火は笑いを堪える。

 邪な視線に気付いた彼女からふと注意を外し、天頂の月を見上げたその視界に何かが光った気がした。

「……ん?」

 噴水の内側、中心部に据えられたモチーフの分からない人間の彫像の根本。星明かりのゆらめく水面の奥、造作というには不自然な金具が錆に塗れ、僅かな灰白色を覗かせていた。

 よくよく顔を近づけて確認しようとすると、背後から迫る魔の手が二本。

「なーに見てるんです、かあ?」

「っぶふあ!何しやがる!」

 張り詰めた野火の意識の隙間、まともな人間ならば認識すらできぬ糸を容易く弾く音々の手が背中を張り倒す。お世辞にも大柄とは言えない体躯は完全に体幹を失い、つんのめって水中に導かれた。

「邪な目で見たお仕置きですよお。」

「何で気付いてるんだよ全く……。それよりこれ、見てみろ。」

 触れてみて初めて、その金具が下側に何かが繋がった円環である事に気づいた。ざらつく鮫肌に指先を刺されつつ引っ張れば、軋む異音と共に朽ちかけた杭が姿を現す。

「これは留め金、って事ですかねえ。動くのは噴水本体ですか。野火さん、やっちゃって下さいよお。」

「人使いの荒い……。」

 文句を言っても手を貸すような女ではない。水垢に滑る足元を踏ん張り、渾身の力で押し出してみる。

 少々の抵抗の後、その巨大な造形に見合わず案外軽い力で上物は動き出した。きゅるきゅるとした音にしばし耳を傾けると、彫像はその両眼で丁度西浦の中心を見据えて止まるのだった。

「うーん……特に罠は無さそうですねえ。野火さん、どっちから入りますう?」

「どうせ俺なのは分かってる。灯りは一応あるらしいが、足元には気を付けろよ。」

 恐らくは円環技研の、さらには西浦という街の建築初期から用意されていたのだろう。石と木で組まれた古い水路は半ば切れかけた小さな電灯に照らされ、終端の見えぬ程に遠く延びていた。所々を金属板で補強されているあたり、誰も通っていないというわけではないらしい。縁に固着した塩の塊も、適度にこそぎ落とされていた。

「刺客がいてもすぐに気付ける構造だが……こっちの隠れる場所も無いな。」

「気付かれたところで今更ですからねえ。さ、急ぎますよお。」

 二人の足音が僅かにズレて反響する。自分の影も溶けて消える様な暗さに目を凝らすのは早々に諦め、野火は反響の感覚で辺りを把握していた。寸鉄を仕込んだ草履から発せられる、金属混じりのかさついた擦過音。上背があるというのに、今にも暗渠の水音に呑まれてしまいそうな音々の靴音。

 駆けても駆けても変わらない景色に崩れない歩調。ゆらめく水面は一時として同じ音を奏でることは無く、時折弾ける白波だけが意識を今へと引き戻す。走りながらにして眠っている様な心地を覚えた野火は、気付け代わりにふと口を開いた。

「……音々。お前、今の状況をどう見てるんだ?」

「状況ですかあ。その言葉をどう捉えるにしろ、こちら側が優れている部分が無いのが辛いところですねえ。」

 中ノ湾と東潮の対立に巻き込まれてきた野火だったが、これまで面と向かって帝國重工の人間と対峙した事は無かった。刃を交えたのはいつも自動人形であり、洗脳されて正気を失った木偶の坊ばかり。意志と意志を叩き付け合う武人の流儀を貫いてきた野火にとって、今の帝國重工は敵とするにも味方とするにも雲を掴む様な存在だった。

「でも一つだけ何か鍵があるとするなら、それは野火さんでしょうねえ。自覚は無いと思いますが。」

「俺がか?冗談にしても趣味が悪いぜ。」

 笑い飛ばそうとした声は、狭い水路に反響もしなかった。振り返った音々の表情は全くもって真面目で、その台詞が嘘でも何でも無いと示していた。

「村山さん夫妻は当初、中ノ湾の誘いを無視するつもりだったそうですう。重工もが今になって露骨に探りを入れて来たのも、そうすると思っていたからなんでしょうねえ。」

「そうだったのか。……それが俺と何の関係が?」

「あなたが二人と出会ったから、ですよお。東潮であなたが村山さんと会って、二人は中ノ湾に賭けてみようと思ったそうですう。正直、二人にとって出日ノ国の趨勢などどうなろうと構わないわけですし。」

 中ノ湾を出てから会っていない二人の事を思う。何故か見送りに来なかった重蔵は、出会った当初から妙に野火のことを気に入っていた様だった。その理由が血縁に関わるものでは無く、単純に野火自身に興味があったからだと知ってからも、野火はどうにもその実感が無いのであった。

 不可解が空気に溶け出たか、音々はもう一度振り返ってふわりと笑って見せた。野火も、音々本人でさえも知らぬ事だが、その表情は彼女が生まれてこの方五櫻吉光にも、ヨモギにも、自分自身にすら見せた事が無い眼差しなのだった。

「偶にいるんですよ、そういう素質を持った人。」

「素質?どんな?」

「居るだけで、生きているだけで人を動かしてしまう人。大河に少し頭を出した小石の様に、周囲の流れを変え続けてしまう人です。あなたはきっと、それなんでしょうね。」

 傍らに流れる暗い海水の面に、野火は突き出る岩を幻視した。それこそが自分だと言われても、矮小さだけが示されている様にしか思えなかった。

「……よそ見してるとぶつかりますよお?」

「あ?」

 そんな事を考えていたからか。いつの間にか目の前に現れていた重厚な鉄の扉に気付かなかった野火は、額に目立たないこぶを一つ作った。

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