染み込む人形
初めから黒塗りだったカンヴァスに僅か白を落とした様に、二人の目の前七メートルほど先の道路。その中心にそれは立っていた。否、置かれていたと表記する方が近いかもしれない。その様は自発的な力みなどまるで感じられず、骨の抜けた人形の部品のみを絶妙なバランスで重ねた作品の如きであった。そう、賽の河原にでも積むべき人形の様だったのだ。
「……なあ、野火。あれ、見えるかい?」
「奇遇だな。俺にも見えている。……列車では気づかなかったが、今ははっきり聞こえるぜ。きりきりしゅうしゅうと蒸気の音が、はっきりとな。」
「そうか。つまりは……僕の街に土足で踏み入る侵入者、だな。」
「ああ、助太刀が欲しくなったらいつでも言えよ。」
「ふふ、黙って見ているといい。無限軌道の真価に君こそ腰を抜かすなよ。」
響一郎の声が一瞬怒気を孕んだ。触発されて鯉口を鳴らした野火の出鼻を片手で制し、若き取締役は鋼鉄の両拳を握りしめる。吹き込む風にネクタイが翻り、革靴の踵をかつりと鳴らした。
彼のベストに描かれた歯車が、野火の目の前で幻覚でなく回り始めた時、僅かに開かれた唇が張りのある声で唄い出す。
――四方 解放 一律法
あまねく終わりの円環に
我らが風の道ぞあり――
「西浦の風は、僕の味方だっ!」
束の間、西浦の空気を見た。月明かりが照らす塵がその流れを緩め、体表を撫ぜる不可視の手の平の動きが奇妙に遅くなる。
野火がその違和感をはっきりと自覚したのは唄を紡ぎ終えた響一郎が目の前の人形に向かって踏み出した時。何事も無い様に歩く彼とは対照的に、野火の身体は一歩進む毎に数倍の負荷をもってその意思を縛める。それはさながら、彼の周囲だけ時間がゆっくりと進んでいるかの様な現象だった。
「な……んだ、これ?」
「無限軌道は基本的に重機や車両を動かす動力源として使われる。それはあらゆる外的影響を無視して一定の速度で回転するという固有の性質を活かした結果だ。」
弛緩した空間で一人平然と響一郎は歩く。さしたる障害も無く振るわれた拳は呆気なく人形の頭部を打ち抜き、再利用も叶わぬ廃材の山へと変えた。
「だが、使うべき者が手にした時無限軌道はその回転に意味を持つんだ。……何だと思う?」
「時間の停滞……いや、違う、な。それは不可能だ。」
野火は大きく後ろに離れ、小さな土塊を彼に向かって蹴り上げる。実に数学的な放物線を描いて飛翔する砂粒は、響一郎から一定の距離に近づいた瞬間、唐突にその垂直の値をゼロへと返した。
「落ちるべくして、落ちたわけだ。そういう事だろ?」
「ご名答。現象としては単純、エネルギーの吸収だ。発動者を中心とした一定距離内で発生する全ての運動エネルギーは、僕のベストに縫い込まれた無限軌道が強奪する。範囲内は常人なら指一本動かせないだろうが、君なら大丈夫だろう?その下手な演技、そろそろ面白いぞ?」
「……ははっ!なんだ、もうバレてたのか。」
一転、悪戯っぽく口の端を歪めた野火は平然と収奪の領域に踏み込む。猫背気味の背中をぽんと叩くその足取りは僅かも揺らぐことは無く、全て世は事も無し。
結局のところ、運動エネルギーが奪われるなら初めから考慮に入れて筋肉に指令を出せば良いだけの事である。彼には十分、それをこなすだけの技量と弾力を持ち合わせていた。
「しかし、また随分と浸透されたみたいだ。全部破壊したところで朝までに掃除が間に合うかな?」
「全部東潮のせいにしておけば良いさ。丁度良いプロパガンダになる。」
辺りに響く風鳴りに、いつしか異音が混ざり込んでいた。きりきり、きりきり。しゅうしゅう、しゅうしゅう。響一郎には聞こえないが、野火の耳にははっきりと届いている。無機質な視線が油臭い殺意と共に、四方の闇から滲み出す。
「二手に別れた方が効率が良さそうだが、どうする?」
「いや、人形に紛れて蒸隠機関の手練れがいないとも限らねえ。……その領域、何処まで広げられる?」
「測った事は無いが。まあ、君のやりたい事は出来ると思う。」
一瞬目を合わせ、ニタリと笑う。響一郎は呼吸を整え、野火は重心を前へ倒して駆け出す体勢へ。
波長すらも重なる声が三つを数え終わった瞬間、風の隙間に鋳鉄が舞う。瞬きの終わりに余裕を持って、彼らの正面三つの人形が砕け散る。
間髪入れず踵を返し、目を閉じて緩く立つ響一郎の背後に視線を配れば中途半端な姿勢で硬直した四体の人形が映る。何かをしようとしている事は察したがそれが何かまでは分からなかったようで、悍ましい体躯から生み出される運動エネルギーは大半を奪われ哀れな傀儡となっていた。
続けざまに感慨も無く、芯の刃を露わにする機会も無く振るわれる燎原がその蛮行に意味を持たせろと泣くように瞬く。生命擬きを粉砕する感触は見た目に違わず硬質で、歪な薄気味悪さを一層加速させる。
西浦に落ちる月の影がその角度を砂粒ひとつ分変えた頃、彼らを取り巻く地面には新しく小さな星空が生まれていた。
「……野火。一体くらいは残してくれると思ったんだけどな。」
「食べ残しは行儀が悪い。当たり前だろう?」
「いや、分解して調べるつもりだったんだ。」
「……本当に悪かった。」
粉砕された人形達の間を縫い歩き、部品の幾つかを矯めつ眇めつする響一郎の顔がふと曇った。手元を覗き込んでみると、鋼鉄の籠手先に握られていたのは真鍮色の小さな球体。蒸気機関の本体だろうか、繋がった幾つかの電線からばちばちと火花を散らすそれを黙って袂に仕舞い込んだ。上げた視線は既に通りの先ではなく自分が元来た方向、円環技研の社屋を見上げていた。
一瞬野火を横切った両目に浮かんでいたのは、怒りと当惑に諦めを混ぜ込み淀んだ深い深い黒色なのだった。
「……響一郎、どうした?」
「野火。僕は少し行く所が出来た。」
「何処だ。俺はいるか?」
「技研の地下だ。機密事項だから君は来るな。」
後は一人で頼むと言い残し、響一郎は踵を返して来た道を戻って行く。残された野火はため息に困惑を吐き出し、渡された地図を眺めた。迷わず周りきれるだけの情報量ではあったが、これまでの成果から恐らくこの先も外れだと思っていた。音々は結局のところ、野火を信用していない。それ以上に自分自身を全く信用していない。そんな彼女がわざわざ自分の足跡を残す様な真似はしないだろうと野火は初めから踏んでいた。つまり、こちらから探す必要など本来は無いのだ。
「音々、見てるんだろ?もう出て来て構わねえぞ。」
「……野火さんも少しはわたしの事、理解したみたいですねえ。それとも最初から気づいてましたあ?」
「あそこまで露骨までに見られてりゃ気付く。それで、何があった?」
少し嬉しそうな響きが滲む声が、背後から放られた。振り返れば街灯に背中を預け、音々が左手で自身の髪を弄びながらぼんやりと立っていた。
「丁度、日が沈んだ頃の事だった筈です。」
妙に歯切れが悪い声で音々は喋り出す。自分で自分の言葉が正しいか分かっていない様な、口から流れる言語が自分で理解できていないかの様だった。
「思った以上に東潮の目が潜り込んでいたので対処に手間取っていたんですよお。金墨が連絡しなかったのはそのせいでもありますねえ。」
「道理で。それで、何があった?金墨は何処だ?」
野火に対しては徹頭徹尾人を食ったような態度を崩さない彼女が、そのひと時だけはっきりと不安な表情を晒した。口から流れ出そうとしたからかいの文句は、その視線が網膜を舐めた瞬間に消え失せていた。
「……わたしは所詮、一般人の思考回路しか持ち合わせてはいません。だから、この世に分からない事だって数多くあります。わたしが根猫蛇として生きていられるのは、無数の知識でその回路を拡張し続けているからに過ぎません。」
「ああ、それは知ってる。尊敬に値する努力だ。」
「でも、今起きている事は完全にわたしの知識の外にあるんです。もしかしたら野火さんなら何か糸口を掴めるかもしれません。……金墨ほどの男を瞬きする間に目の前から消し去る事は、可能ですか?」
少なくとも野火の印象において、金墨は文句無しに凄腕の武人だった。不意打ちならともかく、生半可なやり方では返り討ちにされて終いだろう。だが、音々は殺すでもなく気絶させるでもなく、消し去ると言った。
人一人を消滅させる、不可能では無い。十分な時間と金をかけ、方々への根回しと口止めを徹底すれば、出日ノ国から人間を一人存在しなかったことにするなど簡単ではある。その手順も野火は心得ていた。だが、それは瞬きする間に実行されたと言う。
「視界外に攫う、それだけを念頭に置けば不可能では無え。だが奴は腐っても命のやり取りを理解している側の人間だ。それにお前の五感から完璧に偽装するなんて不可能だな。多分、重蔵の旦那でも無理だろうさ。」
「……では、もう一つ教えて下さい。」
普段はしない回りくどさと緩慢な仕草で、音々は空を指差した。つられて天蓋を見上げた野火は初め、その視界に映る光景が全く異様だと気付けなかった。
不可解と日常の狭間。
かく在れと願ったがゆえに、直面する現実と実態はそんな束の間乖離する。
「……どうして、夜が明けないんですか。」
Why?




