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西浦の人

人と呼ぶには強すぎて、獣と呼ぶには弱すぎる。

「野火さあん、さっくり撒いてきましたよお。ついでに色々買ったので、遅いお昼にしましょうかねえ。」

 気の抜ける声と共に音々が戻って来る。当然の様に追っ手は一人も連れず、両手には何やら包みを抱えていた。埃臭い広場の寒風が甘辛いタレの香りに浸食され、朝から何も食べていなかった腹の虫が不満を訴え暴れ出す。

「遅かったな、音々。屋台飯か?」

「ご名答ですねえ。お団子と粉もんを幾つかですう。」

 夜明けの様な笑みを湛えて音々は油紙を剥ぎ、団子の串を差し出して来る。醤油と味醂の芳醇な香ばしさの中に混ざる爽やかさは、恐らく山椒の香りであろう。挨拶もそこそこに頬張る野火を眺め、音々も五平餅を口に運ぼうとする。

 だが傍らに立つ金墨の何とも言えない表情を認識した途端にその笑顔は抜け落ち、代わりに目の前を羽虫が飛び交っている様なしかめ面が表れた。

「ネズミじゃないですかあ。日和見野郎の分は無いですよお。」

「……お構い無く。流れ者の頭にたかる程落ちぶれていませんので。」

「鳥頭がほざきやがりますねえ。五櫻の用事じゃなけりゃあんたの血塗れの手なんか借りませんよお。」

「こっちは沢山の組員を抱えているものでね。根猫蛇と違って自分から動くにはそれなりの理由と義理が必要なんですよ。」

「こっちは少数精鋭なんですよお。無能と殺人鬼の集まりなんぞとは根っから違うんですう。」

 野火の事を笑いながら煽る口調とはかけ離れ、相手の事を心底嫌っているのが丸分かりである。根猫蛇の組織が協力を持ちかけていたのが彼の組ならば、聞く限りの情報でも日和見と呼ばれるのは理解出来るが、野火はふと彼女の言葉が気になった。

「手を汚してるのは俺達も同じだろ。何だってそこまで突っかかるんだ。」

 中ノ湾に来てすぐ、夜の路地裏。知っているだけでも彼女は一人以上を手に掛けている。野火自身も今までに他人の命を摘んだ事は何度もあった。ゆえに音々がそこまで目くじらを立てる理由が分からなかった。

 一生命を軽く見ているわけでは無い。彼女は社会の暗部を生きる者として、対峙する相手の生命よりも優先すべき事の為に刃を振るう事は割り切っている。殺した夜は煙草を吸わねば眠れないと言っていたのは、大きなエゴの為に奪われた未来への手向けでもあるのだろうと。

 その摂理は東潮であれど変わらない。全ての身分を捨てても尚、武人としての在り方を捨てられなかった野火は東潮で幾つもの争いに身を投じて来た。東潮の中心部、彼が根城にしていたヤマモトの店の周辺は特に数多くのゴロツキがちんけな縄張りを巡って日夜抗争を繰り広げており、撒き散らされた脳漿やら千切れた指が夜明けに照らされる事も珍しくなかった。野火はその闘争を終わらせて平穏な街で生きる為、殺される前に殺さねばならない事も飲み込み、拳を振るってきた。

「勘違いしないで下さいよお、野火さん。意地を通して浄土に送る事を嫌ってるわけじゃありません。わたしにそんな資格はありません。ただ、こいつはそんなゴロツキめいた命の奪い合いすら出来ないクズの中のクズです。……東潮にいたなら知ってるでしょう。人斬り鼠の話。」

「ああ、俺も元は火嶋の出だからな。」

 そんな東潮で一昔前に話題になった連続殺人事件があった。中身はと言えば白昼堂々の辻斬りというなんとも時代錯誤な案件だが、奇妙にも被害者は全て何かしらの武道を修めた者であり、誰一人としてその場から立ち去る犯人に追い付けなかったという不可解な事件だった。

 ヤマモトも胡散臭い自説を展開して面白がっていたが、この一件が洒落では済まないと分かってからは黙り込む様になった。

「あの事件の下手人はこの腐れネズミですよお。救えない愚か者ってわけですう。」

 汚れた手を拭う仕草をして、音々はふいとそっぽを向いた。普段の人を食った様な物腰からすると、それは妙に子供っぽく見えた。

「一応あれには理由も依頼もあると何度も言っているんですが……。今のあなたには話せないだけですよ。機嫌を損ねるのは結構ですが本題に入れなくて困るのはそちらでは?」

「人でなしが正論説かないで下さいねえ。お願いしたいのは円環技研頭取へのアポイント、会合中と会合後にわたし達が中ノ湾に戻るまで内部の蒸隠機関の連中を足止めする事。それ以外は求めませんし何もしないで下さい。対価は既に五櫻から渡っている筈ですよねえ?」

「初めからそういえば波風立たないんですが……それでも根猫蛇の名を継げるとは。全く、中ノ湾も大した……っ!」

 あくまで人を食った態度を崩さない金墨の口が最後まで言葉を紡ぐ事は無かった。咥えたままだった団子の串を噛み砕いた野火が音も無く燎原を抜き放ち、鈍色の刃を喉元に突き付ける。その動作は音々は勿論、かつて東潮を震撼させた人斬りでさえも全く捉えられない速度だった。

「何を勘繰ったか知らねえがな。無能集めてお山の大将気取ってるのはお前も同じだろう。まだその口は惜しいんじゃないのか?」

「……だから何です?」

 それでも尚動じること無く、金墨はまるで届いた新聞を手に取るかの如きあっさりと突き付けられた刃先を握る。当然、流れ落ちる血液さえも気にならない様だった。

「こちらもこちらで無能なりに世を見極めているんですよ。あなた方に与した結果、中ノ湾共々西浦が潰されるなんて事になったらどう責任を取るつもりですか?あなたは究極また逃げて東潮に沈めば良いとしても、こちらはそうはいかないんです。」

「俺は吉光さんから直々に交渉役に指名されて来た。受けたのは間違い無く自分の意志で、そこに二心はありはしねえ。この燎原だってあの人が俺を信用して託したんだ。ここまでを裏切ったらそれこそ男じゃねえよ。」

「男も女も意志も疑心も関係ありません。手を貸すに値するかどうかを実利で示しなさい。」

 実利。そこまで聞いて初めて、野火の目がきらりと光った。

 数刻前に彼が叩き伏せた金墨の手勢、その身なりはお世辞にも整ったものとは言えなかった。金墨本人のものも、正直なところ一組織を束ねる者のそれとしては見劣りする。恐らく、懐事情が相当に悪いのではないだろうかと持ち前の観察眼で彼は推察する。ならば、自分の出せる手札はこの男にとって理想的な一枚である可能性が高い。交渉が進まないと判断した時点で、音々もこの構図に持ち込む事をある程度期待していたのだろう。背中で感じる視線が物語っていた。

 であれば次に取るべき行動は一つ、こちらから吹っ掛けるのみ。

「一月毎に二百五十。期間は帝國重工が完全に海外侵攻を諦めるまで。受け渡しの形式はこちらが可能な範囲で好きにしろ。それでどうだ?」

「……四百です。綺麗な金なんでしょうね?」

「三百。そこは信用して良い。一応「火嶋野火」は書類の中で生きてるんだからな。」

「三百五十です。これ以上は譲りません。口座はどちらに?」

「良いだろう。帝國銀行、現金化していない資産も含めて東潮の本店金庫に入ってる。不自然に消える事は無いと思っていい。」

「基本は現金で。金墨の名前だけでこちらの人間には通じます。それでは成立で、よろしいですね。」

「ああ。下の奴等にも良い服着せてやれ。少しはまともに見えるだろうさ。」

 燎原の刃を返して右掌の皮膚を少し切り裂いた。血が滲むのを確認し、金墨と目を合わせて野火は黙って握手を交わす。流れた血が混じり合い、同じ色をして地面に落ちた。それは出日ノ国に残る数少ない古臭い伝統の一つだった。流れる血液が同じ色だと示す事で志を同じくする事を表す、今ではすっかり廃れた仕草。

「根猫蛇も見習ったらどうですか?これが交渉というものですよ。」

「……これも予定の内ですう。でも野火さん、本当に大丈夫なんですかあ?」

「これでも試合数は無駄に重ねていたから問題は無え。それに公式大会なら優勝してなくても随分金は出るんだぜ?なにせ母体が出日ノ国さまだから、な。」

「何か含みを感じますねえ。まあ、出せるなら良いんですけど。」

 虚空に散った声を見つめて野火は自身を嘲笑い、金墨にもう一本の団子を差し出した。受け取りつつ彼は何事か、素早く耳打ちをする。地獄耳の音々にもその内容は聞き取れなかったが、野火が訝しげな表情で頷いたのを見てとったのを確認し、冷めたみたらしを咥えるかと思いきや懐から取り出した笛を高らかに吹き鳴らした。

 直後、すっかりタレの香りの失せた広場に駆け込んで来たのは揃いの黒い制服を来た男達。明らかに警察と分かる数人が手早く野火を引っ立てて行く。

「え……何がどうなってるんですかあ?」

「ご依頼の仕事をこなしただけです。さあ行きますよ根猫蛇、まだまだやる事は山積みなんですからね。」

 金墨の理解できない行動に困惑する音々は、抵抗もせずに大人しく警察に引き摺られて行く野火の有り様をとりあえず目に焼き付けておいた。

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