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教え子

学び学ばせ、教え教わり。

 極めた武術家同士の立ち合いはさながら舞の様であるという。

 かつて蒸隠機関において叢雲の名を掲げていた頃、本気を出した重蔵と対等に打ち合えるのは同じく真鍮兵装を持つ三人の最上級工作員と筆頭戦闘師である村山菜穂子、当時は木乃葉菜穂子だけであった。蒸気機関の補助のみを頼るステゴロともなれば重蔵に勝てる者はおらず、数多の実力者が彼の閃光の裏拳の下に沈んでいった。

 未だ伝説として残る百四十人抜きの称号を持ったその老戦士をかつて師と仰いだ時、唐紅は三つの法度を教えられた。

 曰く、戦ってはならない。殺し合ってはならない。そして、殺されてはならない。

 蒸気機関とは存在しながら存在しない生き物。裏の裏のそのまた裏の世界の裏から表の光をせせら笑う、人でありながら人を否定する在り方。そんな工作員にとって、死の香りは強すぎるのだと。

「唐紅、だったね。一つ問おう。戦いとは何だ?」

「生命と、意志の奪い合いじゃないか。」

「それは単なるごろつきの答えだ。僕らにとって戦いとは情報のやり取りでしかない。それは単なる殺し合いでも、殺意そのものにも同じ事が言える。」

 殺意も、意志も、蒸隠機関には不要。自らの信念を笑い飛ばし、心の底に刃を秘めて、敬意を持って世界に向き合うべし。情報の真髄を理解すれば、あらゆる状況において殺し合いに持ち込むのは二流以下であると察せるだろう。真鍮の右手に教本をひらひらと扇ぎながら叢雲は言った。先だっての大戦に勝ち逃げを決めた出日ノ国、その勝利の要因こそが我々蒸隠機関による諜報網の構築だという真実を添えて。

 だが今、それを教えてくれた本人は機関を裏切って唐紅の目の前に立ちはだかり、教本を摘んでいた手で真鍮の大槌を握って彼の全身を視界に収めて居る。立ち姿には何一つの力みも見受けられず、まるで馴染みの蕎麦屋の開店を待つそれであるが、同時に欠片程の隙も感じさせない。下手に斬りかかれば一瞬の後、一枚の不可思議な肉煎餅が中ノ湾の地面に盛り付けられるだろう。

 その実力差が途方も無く大きい事など全く理解していた。ゆえに先んじて少しでも無力化を試みんと後ろに回り込み、肩甲骨を砕きにかかる。あまりにも理想的な位置、あまりにも理想的な体重移動から放たれた一閃は、しかし無為に空を切った。間合いを見誤ったのではない。その程度の駆け引きをしくじる程、唐紅は手抜きをする男ではない。

「……何をした?」

「ふむ、元教官としては喜ぶべきなのだろうね。」

 大仰な動きで振り返った重蔵は、少し目を細めて一歩だけ間合いを詰める。それだけで唐紅の足は意志に反して二歩、後ろへ下がった。あり得ないものを見る目で自分の足に視線を落とす彼の仕草に、かつての教官はようやく小さな笑顔を見せた。

「染み付いた習慣はそう消えない。特に痛みを伴うものは。僕の間合いをよく覚えていたね。」

 上段に構えた大槌を緩慢な動作で振り下ろす。明らか仕留めんとする速度では無いにも関わらず、身体は回避に動かない。頭上に掲げた刀が打面に接触した瞬間、空が落ちた程の重みが肘関節を軋ませる。

「っつ……、馬鹿力は、衰えちゃいないか!」

「君と違って僕の中身はそういう型式の機関だからね。ほら、いつもと同じだ。対策を取らなければ死ぬよ。」

 身体が強張り、骨が妙な音を立てる。いつもと同じ、など出任せにもならない。当たり前ではあるが、重蔵にとって唐紅は既に鍛える相手ではないのだから。へし折れどころか軋みもしない刀が頼もしく重蔵を受け止めたとて、この身体が耐えられなければ意味が無い。

 さて、果たしてそうか。

 わざわざ受け止める必要性が何処にあろうか。

 受ける、躱すも無理ならば。

 つと、万力の如く込めていた力を手先から順番に抜いてみた。水平に構えていた刃がふわりと傾き、相対する全てを打ち砕いてきた真鍮の打面が火花と共に刃先に流れ落ちる。

「むっ……ようやく気付いたか。しかし再現性が無ければ習得とは言わないね。」

 大地を打ち据えた真鍮の凶器が返す刀で襲い来る。丹田の高さを水平に走る軌道は飛んで避けるには高過ぎて、伏せて避けるには低過ぎる。後ろに下がるも間に合わないなら試してみるのも無駄ではない。

 身体ごと前に飛び込み、先程とは逆に切先を力の下に添える。力の流れに合わせ、攻撃の波に自分を溶け込ませていく。

「そうか……こういう事か!」

「そう、満点だ。昔の上級にも、土壇場でこれ程柔軟な思考の出来る者は少なかったな。流石だよ、唐紅。」

 即ち剛力に抗するは剛力にあらず。マイナスの剛力たる脱力をもってこそ、剛力は無価値となる。いわんや人外の膂力を誇る叢雲においてをや、というわけであった。

 手ずから鍛えた教え子の成長を目の当たりにし、とうに枯れたはずの何かが臓腑の底で揺らぐ。それは教官としての父性なのか、それとも対峙するに値する敵としての殺意なのか、彼自身にも既に分かりはしない。ただ、この一瞬をもって唐紅を明確な脅威として認識した事は確かだった。

 遠い昔に失い、真鍮に置き換えられた右手が微かに震える。腕の延長の様にしか感じなかった大槌が、俺を忘れるなとばかりに重さを主張した。

「ふむ、ダイタラも戦いたいらしい。付き合ってくれるね、唐紅?」

「……ようやく夜明けというわけか。」

 刀を握り直す若き挑戦者の姿。かつて暴力の化身と呼ばれた男の口角が僅か、軋む様に上がる。数分前の父親じみた微笑と比べればそれはお世辞にも笑顔とは呼べず、まるで獣の如く犬歯が露わになる。しかしてその目は全くもって冷ややかに、氷点下の理性と豪熱の闘気が混ざり合うことなく同居していた。

 乾いた呼気と共に真鍮の風が目を覚ます。鎖骨と肩甲骨が連動するのを見てとった瞬間、唐紅は考えるよりも先に全力で後ろに飛び退いた。

「……最後の授業だよ。」

 殺してみたまえ。その一言を聞き取る余裕は無く、そもそも聞く必要も無かった。破裂音を伴って駆け抜ける凶器は何よりも雄弁であった。明確に心臓を狙った一撃が目の前一寸を過ぎて行く。辛うじて腕を畳んでいなければ、刀ごと右腕を落とされていただろう。

 だが、既に振り抜かれた質量は引き戻すのにより大きな力を必要とする。それは偽ることの出来ぬ単純な物理学。であるがゆえに唐紅はその瞬間を隙と判断し、全力をもって間合いを詰めた。

 最短距離で閃く黒刃、その一撃目は目眩しに使う。顔面に向けて空振らせた得物を放り出し、意識の逸れた身体を沈めて背後に回り込む。同時に懐から取り出すのは蒸隠機関謹製の毒ナイフ。切先が届きさえすれば仕込まれた猛毒が発動し、直接手を下すまでもなく相手の息の根を止められる。重蔵は未だ振り抜いた姿勢から立て直していないまま、広い背中を無防備に晒していた。

「……っ!」

 透明に濡れた死の手が、ようやく師の喉笛に届く。その瞬間、唐紅はこちらを向いていないはずの重蔵の視線が冷ややかに自身を刺しているのを自覚した。

 全てを餌に誘い込まれたと理解した時には、既に踏み込んだ右の膝が逆方向に蹴り砕かれていた。凍り付いた視界の中で重蔵だけがゆっくりと振り向く。ナイフを握った右腕が肘ごと大槌で吹き飛ばされ、鳩尾を正面から蹴り飛ばされる一連の流れはあまりにも淀み無く滑らかで。

 これが蒸隠機関最優の男と評された工作員の体術かと感動を覚えた長い長い一瞬の後、唐紅は中ノ湾の固い地面に叩き付けられた。

「……戦いとは情報のやり取り。敵に対して嘘を交えるのは当たり前のことさ。」

「……そう、かよ。やっぱりあんたは、性格が悪い。」

 一撃で中身まで破壊されたのだろう、どれほど力を込めようとも、身体はびくとも動かない。埋め込まれた蒸気機関も、既に稼働を停止しているのが分かった。

「同僚のよしみだ。何か言い残すことがあれば聞こう。」

「ははっ……。一度くらい、勝ちたかったなあ。……死にたく、ねえなあ。」

「そうか。……どうして欲しい。」

「ああ。……殺せ。」

 満面の笑顔で言い放つ。せめて少しは傷になれと、振り下ろされる真鍮の照り返しに透かし見た顔は相変わらずのものだった。

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