その二人
唄を歌いて打たれつつ。
「野火君。済まないが殿を頼んでいいかい?確認する事がある。」
「そりゃ構わんが。どうしたんだ?」
「少しね。菜穂子、記号は覚えているね?」
「当たり前さ。生命線だからねえ。」
裏路地の出口、駅へと続く大通りへの曲がり角に野火は一人取り残された。追っ手の一人もいやしないと思いながら仕方無く言葉通りにしてやる彼を背中に感じ、二人は並んで道行く人々を見つめ始める。
「……一人目から赤、黄、黒、活字の青だ。そっちはどうだい?」
「活字の黒、緑、橙、黄だねえ。無駄足になりそうだよ。」
「符牒か何かか?」
理解の追い付かないまま呟く素人に向かって悪戯っぽく笑う重蔵は、何も言わずに人差し指を立てて見せた。どうやら一応当たりのようだ。
「よく分からん事ばかりだ……。」
夜の黒布がゆったりと辺りを包む頃、終発が近くとも大通りの人だかりは途切れることが無い。この東潮は表も裏も眠らない街だった。
そんな群衆を掻き分け、重蔵は首を傾げて駅の階段に足をかける。しかしそのまま登ることも無く、じっと前を見つめていた。列車に乗ろうとする流れの中で一人立ち尽くし、見えない何かをじっと睨みつける。周りを行く人の波が不思議と避けて通る彼の姿が川の流れを切り開く岩の様にも見えた頃、重蔵は頭を振って溜息をついた。
「旦那?どうかしたか?」
「……やはり遅かったか。全く間の悪い。」
「遅いって、今何を見たんだよ。」
「お前さま、終電が直ぐに出ちまうよ。早いとこ席を買っておかねば具合が悪いね。」
「うん。野火君よ、一番後ろの車両を三席分確保してきてくれ。きっちり中ノ湾まででいい。僕は少しここでやる事がある。」
「分かったが……後で精算してもらうからな。」
これら全てが手の込んだ詐欺で、着いた頃には二人とも蒸気の様に消えてしまっていたらどんなに良かっただろう。そんな事も考えはしたが、重蔵と菜穂子の纏う空気には薄く血と金属の匂いが混じり、全てが事実であると如実に語っていた。
車掌に嫌な顔をされながら三枚の切符を携えて戻れば、重蔵は階段の壁に何か白墨で描きつけている。
「手に入れて来たぜ旦那。何描いてんだ?」
「ちょっとした目印さ。それより時間が無い。言った通りの場所は確保出来たかい?」
「まあな。ちゃんと一番後ろの車両、それも一番後ろの席三つだ。」
「上出来だ。鼻緒は切れていないかい?」
不可解な確認を取ったら列車に乗り込み、硬い座席に身を沈める。寸分の狂いも無い警笛と滑る様な発進から、この列車が近頃流行りの自動操作であると理解した。
「……で。そろそろ話してくれても良いんじゃねえか?ここで何喋ろうが列車の音がかき消してくれるんだ。」
「君も中々せっかちだね。取り敢えず落ち着いて助六でもつまみ給えよ、ほら。」
「いつの間に買った?」
差し出された稲荷は甘辛く煮〆られた油揚げが柔らかく、対照的に酸味強めに仕上げられた酢飯に混ざる胡麻の香ばしさが引き立つ。こんな時でなければ熱い焙じ茶と共に昼下がりの山の上で味わいたい代物であった。
「……僕等が政府に追われている事は理解しているかな。」
「まあな。新聞に手配が載るってのはそういう事だろうさ。」
「全部わたしが原因なのさ。この人ったら責任感じて一緒に逃げてやるだなんて……良い男だよ本当に!」
頬を染めて愛しき旦那の肩を小突き回す菜穂子に慈愛の目を向け、嫁馬鹿は話し続ける。
「三月程前だったかな。帝國重工から直々に菜穂子に指名が入ったんだ。新技術の試験だと言っていた。」
「新技術……どんな代物だったんだ?」
「次世代の動力機関だそうだ。内燃機関というらしい。」
内燃機関。内で燃ゆる機関とは中々に不吉な名前だと思った。既に燃え尽きたようなこの木偶の坊にとって、それは焼け焦げる程に求めたものでもあっただろうに。
「で、その内燃機関とやらがどうなったんだよ。」
「それが……。」
「そこから先はわたしが話すよ、お前さま。」
言い淀んだ重蔵を制止して菜穂子が口を開いた。大丈夫かと聞くその視線にふわりと笑って返し、彼女は話し始める。
「兵器やら武器やらに組み込んで真価を発揮する蒸気機関と違って、内燃機関はそれ自体が兵器に成りうる。ただそれには、致命的な欠陥があったのさ。」
「欠陥?すぐに止まる、とか何かか?」
「……そんな生易しいものなら、良かったんだがね。」
菜穂子は薄く笑って呟いた。列車の照明に透かす様に掌を翳して握る、その動作に微かな機械音が混ざっていることに気付いた時、彼女の華奢な体躯が生身ではない事に野火はようやく思い至った。
昔、鍛錬の最中に大怪我を負った門下生を見舞いに病院に行った時の事。両足を太腿から義体化した患者が歩行訓練をしていたのを見た覚えがあった。
だが、これはその程度の代物では無い。
「強化手術なんて生易しい物じゃないな。腕と脚丸ごと入れ替えられてるのか。」
「顔の皮膚と脳、後は神経系の一部に肝臓と腎臓。自前でまだ持ってるのはそこだけよ。身体の中まで鎧着てるみたいなもんさ。もう……子も孕めんなあ。」
華奢な手袋を外せば、柔らかな白磁が覗く筈の皮膚は鋼鉄に輝いていた。人の香りの一つもしない、それは動かす度に歯車の動く人外の手。
「造形だけは中々のものと思わんかい?博覧会にでも出してやろうかね?」
指先で胸元を叩くと、金属の鳴る音がした。形だけの笑顔は寂しさに塗り固められ、冷え切っていた。
全身の義体化。
技術は存在してはいたが、人間の尊厳を守るなどという目的で帝國重工自体が禁止の動きを作っていた。それは新聞を読まぬ野火でも知っている事だった。
「あれは建前だった、ってことか。」
「そうだ。……菜穂子は、義体に組み込む内燃機関が抱える欠陥を解決する為の、新しい技術を検証する生贄にされたんだよ。」
「……欠陥?」
「熱、さ。内燃機関は人を喰らって燃え盛る。その熱が力であり、わたしを壊す茨の冠というわけだ。」
酒場で初めて会った時、彼女はやたらと強い酒を呑んでいた。
「身体を焼かねば動くもままならん」と言ったその真意がそこにあった。
常に燃料となる物質を体に取り込み続けなければ、菜穂子の身体に組み込まれた内燃機関は彼女自身を喰い尽くす。
「……嘘だろ。」
「それが事実さ。菜穂子の全身は華奢な義体に置き換えられ、組み込まれた内燃機関はいずれ彼女自身を喰い殺す。皮肉な事だがね、これのお陰で菜穂子は擬似的な不老不死を実現してしまっているんだよ。」
「……あっちゃ駄目な力だろ、そんなの。」
華奢な体躯の後ろに死神が見えた。
赤熱した傀儡糸で彼女の身体を縛り上げるおぞましき死神の名は、帝國重工だった。
「駄目な力さ、市井に流すにはね。それが追われている理由だよ。重工は内燃機関の功罪全てを独占する気という事だ。」
「こんな身体になったお陰で今、お前さまと一緒に居られるとあれば重工にも感謝するがねえ……。なんとも割に合わんさ。」
自嘲する菜穂子が狐面の奥で軽く笑えば、重蔵は蕩けかけた表情を瞬く間に引き締めた。隠そうとしなくても既に露呈しているのだが、指摘しては藪を突く事になりかねない。沈黙とは金である。
「それで、神代とかいう医者を探してるのはその身体を元に戻してもらう為ってことか。義体化処置を弄れるとなると随分な凄腕だな。」
「馴染みの闇医者だよ。蒸隠機関にいた頃は世話になったが、彼でも義体した身体を元に戻すなんて真似はできないさ。」
「え?それならどうして……。」
「お前さま、来たよ。案外遅かったねぇ……。」
少し柔らかくなっていた二人の間の雰囲気が、刹那にして氷のように引き締まった。漏れ出る殺気を隠しもせず、列車内に目を配るその空気は間違い無く二人が超一流の武人であることを示していた。
「追っ手か?でも列車の中だぜ?」
「野火君、君も武人だろう。得物はどれくらいの長さがいい?」
「……強いて言うなら旦那の杖辺りが理想だな。」
前の車両を睨みながら無言で投げて寄越された杖は、重蔵の物であるというのに野火の手にしっくりと馴染む。
一瞬取り戻したかつての勘を巡らせ、ようやく気付いた。駅で沢山乗り込んでいたはずの乗客が一人も居なくなっていることに。
「あいつら、何処に行った?」
「私でも気付かなかったさ。坊主が気付けんのも無理無いが……お前さま!」
「ああ。野火君、ここは殿を頼めるかい?活路は菜穂子が切り開く。」
「菜穂子がって、旦那は戦わねえのかよ!」
「僕が出たらこの列車丸ごと廃材だよ?」
「了解、分かった。頼むから動かないでくれ。」
けらけら笑いながら重蔵は後ろに下がる。入れ替わりに前に出た菜穂子は、流れる様に重心を落とし構えた。
細く長い一呼吸を挟み、華奢な戦士は朗々と唄を紡ぐ。胸先三寸の感情も感じさせないその声は、それゆえに野火の心の奥底に深く焼き付いた。
―――封神 双極 鋼の目
きらり閃き空を裂き
道を示すは焔の想い―――