指南役
彼岸花の悪魔。
「丁度良いところに来たじゃないか。百人組手も小童共じゃ退屈でね。音々ちゃんと坊主ならまだしも歯応えがあるだろうさ。」
「……野火さん。わたし急用を思い出したので帰りますねえ?」
「待て、逃げられると思うなよ。死なば諸共だ。」
菜穂子の圧力に屈し、広場に降りて来た二人を出迎えたのは死刑宣告。瞬間踵を返した音々、その逃走経路を犠牲者一号は足を引っ掛ける事で封じた。哀れなる犠牲者二号の誕生である。
「えー菜穂子さん?あなたのお仕事は動力鎧の製品試験であってですねえ……。わたしらが入っては意味が無くないですかあ?」
「蒸隠機関を舐めてもらっちゃ困る。特にわたしは武術指南役である以上に筆頭戦闘師さね。今ので組み上がった分は全て終わりだよ。」
「だったら少し御休憩なさっても良いのではあ……。」
「この程度朝飯前にも入らんわ。さ、構えな。」
菜穂子が消えかけの三日月よりも細く笑みを浮かべる。瞬間、少女の見た目をした戦士から放たれた覇気を全身に浴びた野火は反射的に足場を確かめるべく草履を滑らせていた。
その笑みが途端、猟犬の血に飢えた嘲笑へと変貌する。かくんと重心が前に倒れ、瞬く間に野火の視界から消滅した。真後ろ少し右寄り、風を切る音が微かに聞こえた時点で回避と受け流しの選択肢は消える。菜穂子の一撃は受けただけでも沈められかねない。
ならば。
「っらあ!」
「反撃に出るか。良い度胸だな坊主!」
振り向く事もせず、勘に任せて肘鉄を飛ばす。苦し紛れの反撃はしかしあっさりと払い除けられた。その勢いのまま、鋼鉄の細脚による痛烈な回し蹴りが野火の背中を張り倒す。
声も出せずに一秒半、きっちり宙を舞った身体は砂地の広場に叩き付けられた。意識が飛ぶのはほんの一瞬、それでも致命的な隙には変わりない。眼底に歪む世界を振り払い、菜穂子の断頭斧が如き追撃を転がって避けた。
「ほら、何を寝てるんだ坊主。まだやれるだろう?」
「……何を見てたら、そんな事言えんだ。」
どうにか立ち上がるが、既に足元は覚束無い。霞みの抜け切らない視界で次の攻撃を見極めようとするが、その時には既に菜穂子は動き出している。
最短距離で撃ち込まれる正拳を受け切る覚悟を決めたその時、音も無く割り込む影が一つ。
「わたしも頭数に入れておいて下さい、ねえ!」
何処から拾ったのか、細身の鋼管を拳と身体の間に突き立てた。耳障りな甲高さと派手に散る火花に顔を顰め、飛び退くと同時に反対の手で持っていたもう一本の鋼管を野火に投げて寄越す。
「これ位で大丈夫ですかあ?目算ですが、長さは合ってると思いますう。」
「太さがちと気に入らんが問題無い。これで正面張って撃ち合える。本気で動くが撹乱は任せて良いか?」
「お任せあれえ。切った張ったは専門外ですが、嫌がらせは得意分野ですからねえ。」
「作戦会議は終わりか?次はそっちから撃たせてやるよ。さ、来な。」
悪魔はお召し物の埃を払いながら言う。着崩れの一つも見受けられない立ち姿は余計な力など一切入らず、付け入る隙が無い。
つまりは無いなら作るまで、というわけである。
音々が寄越した鋼管を握り直す。太さは少し心許ないが素手よりはまともに殴り合えるだろう。だが正面から殴り合っても勝てはしない。菜穂子の強みである圧倒的な体幹、まずはそれから崩す必要があった。
「……野火さん。好きに動いて大丈夫ですよお。何考えてるかくらいは分かりますのでえ。」
「有難え。じゃ、駄目押しは任せたぜ。」
広場の地面は薄く砂の張られた石畳。野火の草履なら十分に踏ん張りの効く質である。
重心をふつ、と落として極端な前傾姿勢へ。左手は得物の先に添え、狙いの補助に。
自らの鼓動を頭で聞き取る。深く息を吸い込み、また吐き出す。呼吸の調子と心臓の収縮が完全に一致した瞬間、右足だけに溜めた発条を弾けさせる。
瞬く間に到達した最大戦速は、常人なら視界に捉える事すら出来ないはずであった。しかし、それを菜穂子は完璧に視界に収め観察している。
その程度は予測している。
搦め手は通じない事を理解している。
今のままなら。
「正面突破。」
今出せる最高速度と体重を乗せた一撃で勝負を賭ける。華奢な体躯の更に下から、鳩尾に向けて即席の得物を叩き込んだ。
人間の肉とは似ても似つかない、硬質な金属の感触が腕に響く。甲高い衝撃によって菜穂子の重心が少し、後ろに逸れた。野火の一撃は、その程度の効果しか無かった。
しかし、それで十分であった。
「やれ、根猫蛇ぁ!」
「音々でいいです、よぉ!」
野火の渾身の一撃を受け切り、僅かに仰け反ったその首にふわりと縄がかかる。実に熟達した機械的な動きで、音々は菜穂子の背後から膝を蹴り折り、その体幹を致命的に崩す。瞬間、音々の腕に首を吊られる形になった彼女は見るからに隙だらけであった。
鋼管を逆手に持ち替えて最後の一発を鳩尾に狙う時、彼は完全に菜穂子を殺す気になっていた。だからこそであろうか。一瞬後に仰向けに空を見ていた自分を認識するのには大変な時間を要した。今の姿勢をなんとか把握すると同時に襲い来る顎の激痛と、派手に咳込む菜穂子の声が無ければそのまま意識を落としていただろう。
「痛ってえ!ああ?菜穂子さん今何した?」
「……悪いが顔に入れさせてもらったよ。坊主、私を殺す気なのはいいが、後ろに音々ちゃんが居たのを忘れていただろう。」
「あんたの身体なら貫通なんかしないだろう?」
「私がもし生身だったらどうする気だい?もし貫通したら?音々ちゃん諸共串刺しになっていたよ。」
そういう所の詰めが甘いのさ、と菜穂子は笑いつつ野火に手を貸す。笑顔は既に猟犬のそれでは無く、孫を見る祖母のものであった。何一つ庇えることの無い、完全な敗北である。
「……菜穂子さん、容赦無く肩外しやがりましたねえ。これ戻すの苦手なんですよお。」
「音々ちゃんは捨て身になり過ぎね。根猫蛇を背負うにしても身体は大事にしなさいな。色々と、ね。」
「それが肩外しておいて言う台詞ですかあ……。」
唇を尖らせる音々に、菜穂子は慣れた手付きで肩を嵌めてやる。
ふらつきながら起き上がった野火は、そこで初めてここに来た大元の目的を思い出した。菜穂子だけでは無い。重蔵の仕事ぶりも見物しに行くはずなのだった。
「菜穂子さん、今日の分の仕事が終わったなら重蔵の旦那の職場も見に行かないか?暇だろう?」
「こっちの様子を見たらすぐに向かうつもりだったんですけどねえ。野火さん足腰立たなくなっちゃったじゃないですか。」
「坊主がこの程度でぶっ倒れるものかい。私もそろそろあの人に会いたかった頃だし、行ってあげようかね。」
旦那に会う為土埃一つ無い袴を軽く叩き、懐から手鏡を取り出して髪型を確認する姿はどう見ても恋する乙女である。
つい先程野火を一方的に殴り倒した戦士とは到底思えない有様に妙な気分を覚えつつ、音々と共に重蔵の仕事場に向かう。
「それで、旦那が働いてるのってどの辺りなんだ?」
「工事現場なんだっけね。視野は広いし手先は器用で力仕事に動力鎧も要らないし、ぴったりの場所だよ。」
「すぐ近くですよお。港の倉庫を改築してるんで、ここから一直線ですう。」
歩幅が広くなった旦那馬鹿には聞かないふりを貫き、足を引き摺る野火と肩を庇う音々。道行く人々が一行を奇異の目で見つめていたのはきっと気のせいであろう。
そうして歩く事十数分。中ノ湾における物流の重要拠点である港湾区画に辿り着いた三人を待ち受けていたのはあまりにも異様な光景だった。




