邂逅
生き残ってしまった者。
一昔前というにはさらに昔、時代を駆け抜けた産業革命も今は遠く。蒸気機関が世界に満ちて、人の進歩が行き着いたそこにあったのは緩やかな停滞だった。極東の小国、この出日ノ国ですらもその波を避けられず。古き良き在り方は退廃的な埃と共に端から端から朽ちていく。
「はあ……ヤマモト、熱燗くれ。」
「あいよ。」
今酒を煽る手もきっとゆっくりと、流れ込む水の枯れた沼の様に腐りゆくのだろう。火嶋流棒術の後継者候補として持てはやされ、あちこちの大会に出はしたものの結果は振るわず。憐れみも妬みも既に貰い尽くして、後に残ったのは腐った金だけ。蒸気がいずれ空気に溶ける様に一人、片隅の泥に溶けるのだろうと思っていた。
「ほれ、ぬる燗だ。」
「ここの酒は今日も濁ってんな。ああ頭痛え。」
「今日も飛ばしてるなあ野火よ。たまには新聞でも読みやがれ。」
隣人の顔も微かに陰る夕暮れの酒場。傾いた日差しが半地下の窓に流れ込み、カウンター奥に並ぶ酒瓶を煌めかせる。安っぽい布張りのスツールに腰掛け、手酌で酒をあおる野火という名の青年の前に店主が新聞を投げ付けた。朝なら分かるが、これから夜になろうという時間にもなって新聞を読ませるのがこの男の面白いところである。
しかし安い紙と掠れたインクの幾何学模様など見たところで変わりはしない。変わり映えしない世相に変わり映えしない事件。霞んだ目で紙面を流し見る。
いつも通りの酒精に揺れるその視界に写った記事のひとつに、何故か今日はふと意識を吸われた。
「指名手配?このご時世に珍しいな。しかも顔写真すら無えとは、おかしな話もあったもんだ。」
見た目から生い立ちまで丸裸に書かれるはずの手配欄には、華奢な背格好と顔に傷があることしか書かれていなかった。
変わり映えしない灰色に何やら不可解な面白さを感じる。その単調の途切れを腕利きの店主は見逃さない。
「それ、巷じゃ結構噂になってんだわ。一月前からあるってのに情報は少ないし、罪状も何やら要領を得ない。殺人と書いちゃいるが、ここしばらくの事件をみてもそいつが犯人と言われているものはひとつもねえ。どうも不思議と思わんか?」
無精髭に覆われた口をにやりと歪ませて語る店主。名をヤマモトという彼は、この酒場を開く前は名の知れた記者だったそうだ。一線を退いた今でも、こういったネタには血が疼くのだろう。
「知らねえよ。知ったところで興味もねえさ。確かに退屈はしてたが…どうもキナ臭え予感がする。」
「素人が抜かすじゃねえか。ただまあ俺も同意見だ。今の時代、手配までするってのにそこまで情報が無いのはどうも変だものな。ひょっとしたら本職かもしれないぜ?」
カウンターに引っ込み、グラスを磨きながら格好をつけるヤマモト。口には出さないがまるで似合っていない。格の高い坊主が血に濡れた包丁を振りかざして都々逸を歌う様なものである。
「本職?警察とかって事か?」
「いんや。あれだよ。……蒸隠機関さ。名前くらいは知ってるだろ?」
「……は?」
蒸隠機関。都市伝説の名だ。
蒸気のモヤに隠れて社会の悪を斬るとか、正義の義賊だとか。何処にでもよくある与太話。全く下らない。
「あほらし。そんなこと言ってる暇があったら客の相手でもしてろよ。そら、おいでなすったぜ?」
店の前の階段を降りる音を聞き、店主に向かって首を振る。記者らしい悪戯な笑みをすぐに引っ込め、瞬きする間に皮肉屋な店主が姿を現した。軽いベルの音と共にふわりとお辞儀をする姿も堂に入ったものだ。
「いらっしゃいませ。客も居ない店ですんで、お好きな席へどうぞ。」
「…ありがとうな。なら、このお店で一番強いお酒と一番弱いお酒をいただけるかね?」
風変わりな注文を通してカウンターに腰掛けたのは、これまた風変わりに目を引く二人組だった。
煤けてくたびれた背広に中折帽を被り、伸ばした灰髪を後ろで束ねてステッキを突く中年の男。中々の男前だが、彼だけならこの出日ノ国にいくらでもいるような男だ。目を引くのは彼ではなく、連れているもう一人のせいだった。
「弱い方は旦那にやって、強い酒は私の方にくれたまえ。長旅だったものでねぇ、疲れているんだよ。」
高い生地ではなさそうだが皺の一つも無く、手入れのされた香りがほのかに漂う彼岸花の柄の小振袖にレンガ色の馬乗り袴。白絹の手袋をはめて長い髪を三つ編みに結っている少女。やたらと老成した話し方をしてはいるが、そこまではいい。
彼女の顔には、顎まで届こうかという程の傷痕がくっきりと残り、それを隠すように真っ黒な狐面を着けていた。年頃の子が背負うにはあまりにも大きな烙印だ。
「……旦那?」
「おいおい嬢ちゃん、あんたどう見ても子供じゃないか。そんなのに酒出したなんて知れたらお店取り潰しにされちまう。冷やかしなら帰ってくれや。ほら、お帰りはあちらですよお?」
「ほう、言うに事欠いてこの私に子供とな?与太をほざくにも程度があるだろうに、ねえ?」
肩を竦めて外を指さす店主に食ってかかろうとする少女を男が手で制止する。ふわりと視線を絡ませる二人の所作は不釣り合いの様でいて、しかし見事な阿吽の調和をみせていた。
「……ふふっ。面白えなあこのお二方。」
身体が勝手に動き出す。立ち上がった足は少女の右隣へ向いた。なぜそんなことをしようと思ったのか、思い返したところで分かりはしないだろう。ここで今、そうさせようとする不思議な魅力が二人にはあったのだ。
「おいヤマモト。この店で一番強い酒と一番弱い酒をくれ。俺が呑み忘れた酒を勝手に飲まれる分には、文句はねえだろう?」
「あ?……まあ、それなら問題無いが。」
どういう風の吹き回しだと目を向けてくる店主を無視して少女の隣に座る。困惑した様に礼をするその視線に首をすくめる事で答えとし、野火は二人が話し始めるのを待った。こちらから話しかけることも出来たが、そうしようと思えなかった。
きっとこの男は、安い男程度では想像も出来ない人生を送っている。佇まいは紛れも無い武人のそれであったし、視線の配り方は軍人によく似ている。それでいて、傍らの女にそつなく手を差し伸べる様子は熟練の紳士である。そんな底知れない存在は、この燃え尽きたろくでなしを見て最初に何を語るのか。それに興味が有ったのだ。