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魔王の後追い

作者: Qoo

 

 強欲の化身、厄災の王、終焉の怪物。

 この世で最も悍ましい、惨憺たる醜さの本性を持つ正真正銘の化け物。今現在最も人類に恐れられ、最も人類に憎まれている人類の敵。

 今代の魔王メフィロスは、けれどかつて、たった一人の人間の少女を愛したことがあった。


 ずっと昔のことである。

 今から数えて五百年は前のことだ。まだ魔族が人型をとることを知らず、まだ魔族が文明を築くということを知らなかった頃。

 辺り一面の焼け野原が続くような不毛の地。魔族の領土に、その人間は唐突に現れたのだ。


 この世界では随分と珍しい黒い色の髪。柔らかな色の肌をしていて、何もかもが小さかった。身長だって、メフィロスの手のひらよりも少し小さいくらいだっただろうか。

 そんな小さくて力のない生き物が、どこまでも続く乾燥した大地を宛ても無く彷徨っていた。それを見つけたのがメフィロスだったのである。


 メフィロスはそれを拾って自らの巣へと持ち帰ったが、それは何もその人間に慈悲をかけたというわけでは無かった。

 メフィロスは親切な心を持つ魔物というわけではない。別にその場でその人間を食ってしまったって良かった。だけどメフィロスがそうしなかったのは、言ってしまえばただの気まぐれで、ある種の興味でもあったと言えるだろうか。


 自分と同じ黒い毛並みが珍しくて、自分を見ても泣いて逃げようとしない人間ははじめてだったのだ。だから人類を滅ぼすまでの短い間を、側に置いて飼ってみようかなどと考えた。

 今になって思えば、あれが泣かず逃げようともしなかったのは、単にそんな体力も残っていないだけだったのだろう。それとも長くを彷徨う内にすっかり諦めて、恐怖にすら心が動かなくなっていたのかもしれない。

 だけどそんな些細なきっかけでその人間は生き延びて、そんな些細な気まぐれから、メフィロスはやがて最愛となる少女と出会ったのである。


 巨大な体躯、鋭い爪。裂けた口と幾つもの目がびっしり並んだ顔のつくり。

 メフィロスは正真正銘の化け物であったけれど、しかし知性がないというわけでは無かった。物事を考えられるだけの頭は持っているし、人の言葉を理解出来る程度の能力もある。


 だからメフィロスは、人間がどのようにして生命活動を行なっているのかも何となく理解していた。

 何度か人里を襲ったことも、行軍する軍隊の様子を観察して、食事中に奇襲をかけたこともある。正面から襲うよりも奇襲をかけた方が、人間達が慌てふためくから楽しかったのだ。

 メフィロスは当時、まさかそうして見た光景がこんな風に役に立つとは思ってもみなかったけれど。とにかくそのお陰で、メフィロスは人間の生命活動に何が必要かを何となく知っていたのである。


 遠く遠くまで飛んで、焼け野原の魔族の領土を越えて、人里近い川から水を汲んできた。

 巨木の森の巨大な葉を折って、あの人間がすっぽり収まるくらいの器を作ったのだ。


 遠く遠くまで飛んで、小さな小さな小鹿を摘んで持って来た。

 爪先でそっと摘んだつもりが力加減を誤ったせいで首のところが千切れたけれど、それでも何とか持ち上げて持って来た。


 そうしてメフィロスは巣に連れ帰った人間に肉と水を与えたのだ。

 すると人間は戸惑うようにメフィロスとそれらを見比べて、それからやがてそっと手のひらに水を掬って、恐る恐ると飲みこんで。

 一口飲めば、あとは早かった。人間はどんどんと渇きを癒すように水を求めて、おかしなことに目から水を流しながら水を飲んでいた。

 メフィロスは何度だって恐怖して泣く人間を追い詰めたことがある。だから流れるそれが涙だと知っていたけれど、その涙は何だかメフィロスの知るそれとは丸きり違っているような気がして、随分と不思議な感覚になったことを覚えている。


 わんわんと声を上げて、ひぐひぐとしゃくり上げて、顔も服もあちこちを濡らしながら、人間はそれから暫くの間を泣き続けた。

 あまりにも泣くものだから、メフィロスはその内この人間は干からびて死ぬのではないかと思ったくらいだ。だから指先で、差し出すように葉っぱの器を人間の方に押し込んだら、人間は気が付いたようにメフィロスを見上げて。


 泣いていた顔を、きょとんとさせて。かと思えばまたくしゃりと顔を歪めて、そうだ。「ありがとう」と言ったのだ。しゃくり上げて碌に言葉になっていなかったけれど、声は泣いて震えていたけれど、「ありがとう、ありがとうございます、ありがとう」と、何度だって少女は言った。


 メフィロスに。ただ人を滅ぼす為だけにこの世に生まれ、人類の敵であれと、そうあれかしと望まれて作られたメフィロスに。

 この世で最も悍ましい、惨憺たる醜さの本性を持つ正真正銘の化け物に。


 情け無い話だけれど、メフィロスはその瞬間指先一つも動かせないようになったのだ。

 ただそんな風に泣く人間を見下ろすことしか出来なくて、幾つもあるメフィロスの目はたった一人の狭小な人間から離せなくなって、多分、その時はじめてメフィロスは動揺したのだ。

 どれだけの軍隊を差し向けられても、どれだけの恨みを向けられても心一つ動かさなかった怪物が、たった一人の狭小な人間の涙一つで動揺した。


 それが二人の出会いだった。

 やがて魔王と呼ばれることになる怪物メフィロスと、後に人の身でありながら魔王の妻となる異世界人、笹倉羽衣里(はいり)は、そうして始まったのだ。









 ▪︎


「それが、この人?」

「ああ。綺麗だろう、とても」


 肩のところで切り揃えられた黒い髪。毛皮に覆い尽くされていない、白い色の滑らかな肌。二個一対の赤い瞳。

 人型を取った今代の【魔王】メフィロスは、嫌に穏やかな瞳で壁に掛けられた肖像画を見つめた。ガラス越しの絵に触れる指先は酷く優しくて、その姿を見た今代の【勇者】はグッと押し黙る。


 アレクサンダー・ペンドラゴン。

 王子であり勇者。魔王を討ち滅ぼす為に生まれ育てられた魔王の天敵。本来であればこの城に着いた時点で魔王と戦う筈だったけれど、肝心の魔王に半ば強引に会話に持ち込まれたせいで、こんな奇妙な時間を過ごすことになっている。

 魔王と勇者が、呑気に会話に興じるなんて、おかしな話だ。


 魔王を憎め、倒せと言い含められて育ったアレクサンダーにとっては、目前の魔王の姿はどうにも受け入れ難い。

 これから二人は戦わないといけないのに、化け物のはずの魔王がまるで人のようだから、困るのだ。知りたくないと思う。同時に、知らなくてはとも思うけれど。


「魔族の文明と五百年の平和は、全てハイリから始まったんだ。ハイリが居なければ、世界は今頃これ程形を残してはいなかった。私は本能のまま、そうあれかしと望まれた姿のままに人類を滅ぼして、いずれは同胞にまで手を伸ばしただろう」

「そんなの……、本当のところは分からないだろ。たとえ五百年前、お前が今みたいに人類に牙を剥いていたとしても、人類滅亡を成せたかは分からない。人類はアンタが思うほど弱くは無いんだ」

「いいや、出来たさ。何せ五百年前にお前は居なかった。……魔王の称号と能力を得た魔物は、勇者にしか討ち倒せない。そういう風に世界は出来ている」


 ふ、と微笑んだ魔王はそう言うと、名残惜しげに肖像画から手を離した。魔王と同じ黒い髪を持つ女性は、やはり絵の中で変わらない微笑みを浮かべている。

 優しそうな人だ、と思った。こんな人が魔王の妻であったのだと言うのだから、つくづくアレクサンダーの知る魔王伝説とはかけ離れている。

 もちろん、魔王が嘘を吐いているという可能性も捨てきれない。……魔王が肖像画に向けた目があまりにも優しかったせいで、あまりそうは思えないけれど。


「実際、私は一度やり遂げたよ。あの頃、世界には一つしか国がなかったから簡単だった。たった一匹の魔物相手に騎士団は壊滅して、高名な魔法使いも伝説の英雄も私の爪先一つに敗北した。残されたのは皇帝と、数人の護衛騎士だけだった」

「………は?」

「おや、歴史書には残っていなかったかな。まぁ五百年も経っていることを考えれば、どこかで紛失していてもおかしくないか。───着いておいで」


 人類が魔王に敗北したなど、そんな歴史は知らない。アレクサンダーが動揺して立ち尽くしていると、魔王は数歩進んだ先、ゆるやかな動きでアレクサンダーを振り向いた。

「さぁ」と促す姿は若々しい青年のものなのに、その仕草ひとつひとつに膨大な経験や、圧倒的な実力から来る余裕が伺える。まるで師匠のようだ、と思った。

 あの人も見た目こそは幼いのに、仕草と実力はそれに見合わない、まるで老年の歴戦の戦士のようだったのだ。


「途中まで、私はすっかり人を滅ぼすつもりだった。気が変わったのは、当時の国王が言った命乞いに価値を見出したからかな。『欲しいものは何でもやる、だから命だけは』って、言葉自体は随分と陳腐なものだったけれど」

「……それでも、お前はその言葉に価値を見出したんだろ?欲しいものでもあったのか?」

「ああ。……ハイリの靴は、出会ったばかりの頃に壊れてしまっていてね」


 長く続く魔王城の廊下。全体的に黒い色をしていて、窓枠一つをとっても随分と凝った意匠が込められている。天井からは魔法の込められた明かりが天井からぶら下がっていた。

 魔王はそこを一定の速さで歩いていた。カツカツとした靴の音が廊下に響く。それ以外には音がないから、魔王の言葉は、特別声を張り上げている訳でもないのにはっきりとしてアレクサンダーの耳に届いていた。


「ハイリと同じ人間なら、きっとハイリに合う靴も作れるだろうと思った。ただ、それだけだった。あの時人類が滅亡を迎えずに済んだ理由は、私があの時人類を滅ぼさないと決めた理由は、ただそれだけのことだったんだ」













 ▪︎


 メフィロスが人間を巣で飼いはじめて何日かが経った頃には、人間は随分とメフィロスに懐くようになっていた。

 寝起きの時などにはメフィロスの見た目に驚いて悲鳴を上げて、その悲鳴でメフィロスのことまで起こしたりもするけれど、それが自分の飼い主だと分かるとメフィロスにしがみついたりもする。メフィロスが怖くて悲鳴を上げたくせに、「びっくりしたーっ」と、まるで文句を言うみたいにメフィロスに泣きつくのだ。


 メフィロスは寝起きの頭でそれにうんざりと呆れながら、人間の背中を撫でてやるのが日課になった。指の腹だと力加減を誤って潰してしまいそうだから、折り込んだ人差し指の背で。そうしてメフィロスな人間をそっと撫でると、人間は安心したようにほっと息を吐くのである。

 化け物にしがみついて慰められてそんな顔をするのだから、メフィロスが拾った人間は、やはり随分と奇特な性質を持っているらしかった。


「おはようクロ。昨日はいい夢見れた?」


 メフィロスの手のひらにちょこんと座りながら、人間はにこにことメフィロスを見上げてそう聞いた。毎朝のお約束というやつで、メフィロスがそれにグオオと鳴いて答えてやるのもいつも通りだった。


 当時のメフィロスは人型を取るということを知らなくて、人間の言葉は理解しても、話せはしなかったのだ。

 怪物のような本性の姿では声帯というものが発達していなかったから、メフィロスは何となく鳴いたり叫んだりすることで人間と会話の真似事のようなことをしてやっていた。

 だからこの時ハイリはメフィロスの名前を知らなくて、メフィロスのことを「クロ」などと安直な名前で呼んでいたのである。


「それは良かった。私はね、たくさんの犬に埋もれて寝る夢を見たよ。クロの背中があったかかったからかな?」

 ───グオオ……

「あ、また呆れてるでしょ。単純とか子供っぽいとか思ってるんだ。分かるんだからね一応。クロって結構分かりやすいんだから」


 そう言うと、人間はムッと頬を膨らませるようにしながらメフィロスを見上げた。

 この人間は不思議なもので、メフィロスの言葉などわからないのに、時々まるでメフィロスの心を読んだようなことを言う。


「目は口ほどに物を言うって言うけど、クロの場合は更に目がいっぱいなんだもん。分かるよそりゃ」


 メフィロスの指のところを背もたれのようにしながら、人間が得意げに笑う。それから人間は「ね」と言って、幾つもある目と視線を合わせるようにメフィロスを見た。


「今日はあの森に行こうよ。木苺みたいなあの赤い実をいっぱい集めて、水浴びもして、遊んで、疲れたら日向の下で昼寝をするの。ね、良いでしょ?」


 尋ねるような言葉でありながらも、メフィロスが期待に応えてくれることを全く疑っていない音で人間は言った。

 だからメフィロスは仕方なくため息を吐いて、人間の乗った手のひらを胸元のところに持ち上げる。すると人間はメフィロスの胸元を掴んで「やった」と嬉しそうに言うので、全くやり難いことこの上ない。


 メフィロスは自らの巣である洞窟を抜けると、コウモリのような巨大な羽を背中から出して飛び上がった。辺り一面の焼け野原。人の足では出られない魔族の領土も、羽を持つメフィロスに掛かれば造作もない。


 空を飛んで雲を掴み、焼け野原を過ぎて山を越え、辿り着いたのは一年中花を咲かせる常春の場所。

 そっと手のひらを地面に近付ければ、人間はパッと顔を明るくさせて野原の上に降り立った。


「ありがとう、クロ!私先に湖の方に行ってくるけど、クロはどうする?」

 ───オオォオ……

「はーい。じゃあ、何かあったら呼ぶね。そしたら飛んできてくれるでしょう?」


「いってきます」とはにかんで、人間は野原の上を駆けて行った。メフィロスはそれを仕方のない目で見送って、ドスンと野原の上に腰を下ろす。

 ここは魔族領と違って人間を食おうとする他の魔族魔物も居ないし、人里に近い場所と違ってあれと同種であるヒトも居ない。だからメフィロスは、ここではあの人間が幾分離れることも良しとしているのである。


 あの人間はここに来ると小さな体躯で沢山はしゃぐから、大きな身体を持つメフィロスからすると、側にいるだけで大変なのだ。

 あれは一度はしゃぐとどうにも落ち着きがなくなって、巣にいる時よりも余程ちょこまかと動くようになる。気が付けば足元に居たりもするから恐ろしい。ここに来た最初の時、うっかり足で踏み潰してしまいそうになった時には、メフィロスだって本当に肝が冷えたものである。

 だからメフィロスはここに来てすぐの時間はあの人間を放流して、暫くして落ち着いたというか、ある程度動いて疲れたくらいの時にメフィロスも合流することにしている。


 そよそよと吹く穏やかな風に、メフィロスはそっといくつもある目を細めた。

 この場所はいつだって穏やかな春が続いていて、この場所はいつだって昼のままだ。非力な人間の力では決して辿り着けない楽園の場所。

 あの人間が水を浴びたいと願った時。メフィロスがここにあの人間を連れて来たのは、ここがそういう、人の足が及ばない場所だからだった。


 メフィロスはあの人間を、同種に会わせたくなかったのだ。

 あの人間はメフィロスに拾われた日、独り言のような告白で、こことは違う世界からやって来たと告げたから。この世界を、『人間のいない世界』だと誤解しているようなことを言っていたから。


 だからメフィロスはあの人間を、同じ『人間』という種に会わせたくなかった。あれはきっとこの世界にも同種が居ると知ったら、それらと暮らしたがるだろうから。

 メフィロスにはそれがとても面倒なことに思えたのだ。だからメフィロスは真実を隠そうとした。


 どの道、遠くない未来にはあの人間が思い込んでいる通りの世界になると分かっていたのもある。どの道、遠くない未来にはメフィロスがこの世界の人間共を滅ぼすから、この世界にいる人間はメフィロスの飼っているあの人間だけになる。

 だから別に、他の人間の存在なんて隠したって構わないだろうと考えたのだ。


 そうして連れてきたこの場所を、幸いにして、人間は随分と気に入ったようだった。

 誰の手も入っていない、ありのままの自然の場所。世界で唯一のとこしえの春の庭。人間はこの場所で過ごす時間が好きらしくて、最初にここに連れて来てからは何度だって「また行きたい」とメフィロスに強請った。


 人間というものは全く世話の焼ける生き物で、一度願いを聞いてやると際限がない。

 お陰でメフィロスはここ最近いきなり忙しくなって、碌に人里や他の人間を襲うことも出来ていないくらいだった。

 本当に、人間とは仕方のない生き物なのである。


「クロ〜……」


 メフィロスがそんなことを思って呆れているうちに、どうやら人間は一通り遊んで戻ってきたらしい。グル、と喉を鳴らしながらメフィロスが声の方を振り向けば、そこには、多分水浴びでも失敗してしまったのだろう。

 服ごと濡れてびしゃびしゃになった人間が、靴の踵を両手で摘んだ格好で、ぺしょぺしょとメフィロスのことを呼んでいた。ヨタヨタと歩く姿は、いつにも増して情けない。


「もうやだ、ローファー壊れちゃったぁ。靴これしかないの、にッ……!!??」

 ───ッグォオオ!!!!


 人間がその場にしゃがみ込んですぐ。メフィロスがそうして叫んだのは、その瞬間、嗅ぎ慣れた人間特有の血の匂いが弾けたからだった。

 魔族の五感は、どんな動物が持つそれよりも優れている。だからメフィロスは人間の肌に傷が付いて血が滲めば、どんなに小さなものでもすぐに気がつくことが出来るのだ。


 たった一度地面を蹴って、メフィロスはあっという間に人間の元に駆け付けた。傷の具合を見てやろうとして、けれどメフィロスの巨大な手、鋭い爪先では下手に人間に触れることが出来ない。

 だからメフィロスは結果として、オロオロと指先を人間の周りで右往左往させるようなことになってしまった。


 触れられないなら触れられないで、せめて傷の具合がどんなものか言わせたいのに、言葉が伝わらないせいでそれも出来ないのだ。

 現に今。メフィロスがどれだけ喉の奥でガゥ、グァ、と鳴いても、人間に意味など伝わっていない。


「だ、大丈夫大丈夫。ちょっとびっくりしちゃっただけ……」

 ───グオオオオ!!!!


 それだけ血の匂いをさせて、何が大丈夫なものか!!

 良いから下手に強がらず正直にどんな傷が出来たのか申告しろ、とメフィロスが叫ぶ。

 すると人間はう、と目に涙を溜めて、メフィロスはその瞬間やってしまったと一気に顔から血の気が引くのが分かった。


 我に帰ったというか、引き戻されたともいうのだろうか。

 メフィロスも混乱していたのだ。だってメフィロスは、どうして人間がただ地面を歩いていただけで血を滲ませたのか、血の匂いを吹き出させたのかが分からなかった。

 だってメフィロスは決してこの人間に牙を突き立てていなければ、爪で身体を貫いたわけでもない。ただ普通に歩いていたのを見ていただけだ。

 なのにどうして、この人間は突然血の匂いを吹き出させたのか。


 ───オオ……、グォ……

「い……」

 ───オオォオオ……

「、っ、い、っ痛いよぉ、クロ〜〜っ!!何でこんなところに石なんかあるの!?そりゃ気が付かなかった私が悪いけどさぁ〜〜〜っ!!」


 けれど、この人間を怖がらせたかと思って焦ったメフィロスに対して、人間は寧ろ泣きつくようにしがみついた。

 耐えていたのを堪え切れなくなってみたいな様子である。メフィロスの毛皮を掴んで顔を押し当て、「痛いよぉ怖いよぅ、どうしよう」とえんえん泣いていた。


 爪先立ちになった足は、どうやら随分と深く切れているようで、ダラダラと絶え間なく血が流れている。

 メフィロスが呆気に取られたような様子で、さっきまで人間が立っていたところを見ると、そこには鋭い石が草と草の間から聳え立っていた。

 まさか、いやまさか。この人間は、あんな小さな石ころ一つで、こんなに血を流すほどの怪我をしたというのか?


「しょ、消毒液もないのに〜〜〜っ!!く、腐っちゃったらどうしよう。前にテレビでやってたの、転んだ足をちゃんと処置しなかったから、結局膝から下全部切らないといけなくなっちゃった人!!」

 ───グオオオォオ!!??

「あ、洗ったら良いのかな、ここの水って綺麗だもんね?寄生虫とかいないもんね!?いや居たら居たで、もう飲んでるから手遅れかもしれないけど!!ファンタジーの世界にそういうのはないよね??大丈夫だよね!!??」


 そんなことはメフィロスの知ったことではない。人間の傷の処置などメフィロスは知らないし、人間の傷が治る仕組みも、悪化する仕組みも考えたことすらないのだ。

 けれど取り敢えず、一旦洗う必要があるらしい。キセイチュウとやらが何を示しているのかは分からないが、水の中に「居る」と表現する以上、恐らくは生き物なのだろう。


 そういうことなら、この常春の庭には存在していないはずだ。ここには生き物が辿り着区ことさえ難しいし、例え奇跡のように辿り着けても、長く定着出来ないようになっている。

 メフィロスとこの人間が特別なのだ。メフィロスはそんな因果や法則を退けられるほど強い魔力を持っていて、この人間はそんなメフィロスの魔力を纏わせられて、守られているから。


「わっ、く、クロ!?」


 手のひらに人間を乗せて、ほんの一度羽を揺らし、泉の方へと一飛びする。人間は呆気に取られたようにぱちぱちとまばたきをして、驚いた拍子にどうやら涙まで止まったようだった。

 何が解決したというわけでもないが、人間が泣いていないだけで何故か幾分ほっとして、冷静になる。メフィロスはそっと息を吐くと、今度はゆっくりと人間のことを地面に下ろした。

 人間はすると「あ、ありがとう」とメフィロスに言って、ゆっくりと足先を泉につける。


「いっ……」


 ぎゅっと顔を歪めながら、人間は泉の中で暫く傷付いた足の先を揺らして、メフィロスはそれを暫くの間近くで見ていた。

 寄り添うように側にいたのは、不安そうで痛そうな人間が、縋るようにメフィロスの黒い毛並みを強く握りしめていたせいである。











 ▪︎


 ただ素足で歩いただけで傷付くほど、人間が脆いとは思わなかった。

 幸いにしてその傷はすんなりとかさぶたになって塞がったが、それでも人間が肌一つをとっても特別弱いことには変わりない。人の身の脆さというものを知ったメフィロスは、それからずっとの間、決して人間に地面を歩かせないようになった。


 巣にいる時にも、外にいる時にもだ。常春の庭に行く時にも、人間が水浴びをする為に泉に入る時でさえ、メフィロスは人間を文字通り手放さなかった。人間が好物の赤い実を積むときも手のひらの上、人間が疲れたように眠るときも手のひらの上。


 人間が野原の上を自由に駆け回ることは出来なくなって、けれど人間も、あの時足裏を傷つけた経験から自分の脆さをよくよく分かっていたのだろう。文句の一つも言わなかった。

 ただ「クロって意外と過保護だよね」と仕方のないような顔でへにゃりと笑って、メフィロスが求める通りに、メフィロスの手のひらの上から出ないようにしてくれていた。


 そんな生活をしていれば、当然メフィロスは今まで以上に人間に付きっきりになる。

 当然メフィロスはますます人里に降りることもなくなって、というよりも、人間に付きっきりになるうちに人類を滅さなければならないことさえ忘れてしまっていたとも言えるかもしれない。


 小さく、か弱く、脆く、メフィロスを恐れずメフィロスに笑みを向けてくれる一つの命が、文字通りメフィロスの手のひらの上にあるのだ。

 はじまりは庇護のためだったけれど、その事実はメフィロスをこれ以上ない程によろこばせていたのである。


 けれど、それはつまりメフィロスが自分の役目を放棄しているとも言える事態だ。

 メフィロスは元々、人々を襲うために造られた生き物だった。だからメフィロスが人を襲わないことを良しとしない者は確かに居た。

 だからその原因がたった一人の人間だと知ったそれは、メフィロスの人間を、メフィロスの側から除こうとしたのである。


 最初の魔王。はじまりの魔族。

 人類には魔王と呼ばれる、魔族魔物を統べるもの。全ての魔の物の創造主。

 この時、この世に生きる全ての魔族や魔物は、たった一人のはじまりの魔族によって創られたものだったのだ。


 だからもちろんメフィロスも、この最初の魔王の手によってこの世に生まれ落ちた。創造主が創り上げた数多いる魔族の中で、最も醜く、最も悍ましく、最も強い力を持つ化け物。

 メフィロスは創造主に何度だって「わたくしの怪物、わたくしの最高傑作」と囁かれ、「人を滅ぼせ」と願われて生きてきたのである。


 あの女が、メフィロスの人間に手を出した、あの日までは。


「創造主……。便宜上、母とでも呼ぼうか。母は怪物そのものだった時の私よりも、余程人間らしい見た目をしていた。けれど彼女はそれでも魔族の始祖だ。当然人とはかけ離れた力を持っていてね。母はあっという間に私の手のひらからハイリを奪うと、ハイリの首に手をかけた。母の指先からは幾つもの蔦が這い出して……。きつく、きつくと首を締め上げられたハイリは、瞬く間に顔の色を無くして、やがて意識までもを失った」


 過去を思い出すように、魔王はスッと目を細めた。

 あの時のことはよく覚えている。忘れたことなど一度もない。例えハイリに害を為した張本人が死んだとしても、思い出しただけで、何度だってはらわたが煮え繰り返るのだ。


 ハイリはあの女に捕まえられた中でも、かすむ視界で、それでもメフィロスを見つめていた。

 そしてメフィロスに「たすけて」ではなく、「にげて」と言った。

 脆くか弱い生き物は、けれど巨大で悍ましい怪物であったメフィロスを庇って、逃がそうとしたのだ。


 メフィロスの創造主はそんなハイリを嘲笑って、苦しめて。その瞬間、メフィロスは視界が白む程の強い怒りに突き動かされたのだ。


「地面を歩くだけで傷付いてしまうほど脆くか弱い私の人間が、私以外の何者かに傷付けられるなどあってはならないことだ。あの時の怒りは忘れ難い。あの瞬間、私は燃え盛る怒りでもって母と繋がる服従の糸を焼き切った。母も、それを感じたのだろうね。呆然として、『何故』と呟いた。馬鹿な女だった。敵の前でそんな隙を見せたらどうなるか、そんなことは分かりきっていただろうに」

「それで、殺したのか?母親を……」

「ああ。私の爪で母の身体を貫き、ハイリを取り戻した」


 そして、メフィロスは食ったのだ。自らの爪で貫いた、自らの創造主の亡骸を。

 メフィロスが爪で貫いたまでは、あの女はまだ息を残していたからだ。そしてメフィロスは、爪で駄目なら牙を突き立てれば良いのだということをよくよく知っていた。


 全ての魔物の始祖であったはじまりの魔王は、そうして、かつて自らの「最高傑作」と呼んだ怪物に生きたまま食われることになったのである。

 何故、どうしてと、無念のように呟きながら。


「……母を手にかけた私は、ある意味、母の魔力を取り込んだような状態に近くてね。ただの魔物であった私は、そうして今の私になった。ある種の進化とも言えるだろうか」

「進化?」

「知っての通り、莫大な魔力はあらゆることを可能とする。簡単な話、より多くの魔力を得ることによって、出来ることが広がったんだ。人型を得たことも、その内の一つだった」


 そうしてメフィロスは、今のメフィロスになったのである。人の身に転じることを覚えて、言葉も得た。

 人間の言葉を理解してなお、声帯の発達していない本性のせいで言葉を発することの出来なかったメフィロスは、けれどそうして言葉を得たのである。


「人の身を得て、声を得て。私がはじめに話した言葉は、『ニンゲン』だった。あの時私はまだハイリの名前を知らなかったからね。心の中ではずっとハイリのことを人間と、そう呼んでいたんだ」


 メフィロスは、創造主を食らってすぐに人の身に転化した。やり方を知っていたわけではなかったけれど、ただ、己の鋭い爪を疎ましく思ったのだ。

 だってあんな手では、倒れるハイリを抱き起こせなかった。こんな爪など、こんな手などと自らの身体を呪った。そうして気が付けば、メフィロスはまるで人の身を手に入れていたのである。


 はじめてだったから、碌に魔力も制御できなくて、髪は随分と長かった。それに肌のところどころは毛皮のままで、目もまだ、十や二十の数ほど残っていたけれど。

 人間に触れるためには疎ましかった鋭い爪はなくなって、人間を呼ぶための声を得た。


 今でも思う。そのはじまりもきっかけも、決して歓迎されるようなものではなかった。

 けれどあの進化と共に得られたものが、他の何でもない人の身であったという事実そのものは、メフィロスにとって確かに、かけがえのない奇跡だったのだ。














 ▪︎


「ニ、ンゲ、ン……。ニ、ニン、ゲゲゲ……」


 言葉の形に声を発するということは、メフィロスが考えていたよりも、ずっと難しいことだった。

 唇は震えるし、声は掠れて碌な言葉になってくれない。気を抜くとまた唸り声や鳴き声を叫んでしまいそうで、だけどそれでもメフィロスは、何度だってやり直して繰り返した。


「ニン、ゲ、ゲン、ゲゲ……」


 気を失った人間を、慣れないヒトじみた腕で抱えて、声をかけて。何度だって何度だって、「ニンゲン」と呼んだ。

 名前を知らないということが、こんなにももどかしい事とは思わなかった。声を得てはじめて知った。だからヒトは、近しいものたちの名を、あんなに幸せそうな声で呼んでいたのかと思った。


「ニン、ゲン……ッ!!」


 起きろ、起きろ、起きてくれ。

 メフィロスは、祈るような心で何度だって人間のことを呼んでいた。


 俺を見てくれと思う。

 そうしてまた笑ってくれ、と。


 人の身を得たんだ。まだ完全ではないけれど、お前をこうして、自分から抱きしめられる腕を得た。声を得て、言葉も得た。やっとお前に本当の名前を教えてやれる。メフィロスというんだ。クロなんて安直な名前じゃない。でも、クロと呼んでも良い。お前なら。

 だからどうか起きてくれ。そしてどうか、教えて欲しい。他の誰でもないお前の名前を。

 俺は本当は、一番最初に、お前の名前を呼んでみたかった。


 その全てを言葉に出来るほど、メフィロスはまだ言葉が上手くなくて、ただただもどかしかった。

 もっと上手く話せたら、きっと人間だって喜んで、笑ってくれたかもしれないのにと思った。

 人間はずっと、「クロもお話出来たらいいのに」と寂しそうだったから。


「に、んげ……っ」


 同じ言葉だけを繰り返して、繰り返して、なのに言葉は少しも上手くならない。それどころかつかえて吃って、ますます声が震える。

 視界がかすんで、顔のところを何かが落ちて、人間の頬に落ちて、そこでようやくメフィロスはその何かが涙であったことに気が付いた。


 怪物の姿のときには備わっていなかった機能だ。おかしな機能だった。拭っても拭っても止まらなくて、息が途切れ途切れになって苦しい。心の臓のところが痛い。

 メフィロスの涙は、人間の顔のところにポタポタと絶え間なく落ちていく。止め方のわからないそれが、ずっとずっと流れている。


 その時だった。


「、く、ろ……?」

「───ッ!!」


 顔に落ちたメフィロスの涙に、ニンゲンと何度も繰り返す声に揺り起こされるようにして、人間が目を覚ましたのだ。

 かすむ視界で、中途半端な人の身を得たメフィロスを見て、それでもすぐに、まるで本能で見分けるみたいにそれがメフィロスだと気が付いてくれた。起きたばかりでまだはっきりとしない思考の中、「泣いてるの……?」と呟いて、メフィロスの頬に手を伸ばして。


「に、んげ……」


 その時メフィロスは、無性に安心したのだ。

 メフィロスが知っている人間は、素足で野原を歩いただけで血を噴き出すような脆い生き物だった。そんな生き物がよりにもよって魔族の始祖に首を絞められて、きっと死んでしまうと思った。


 だけど、ああ、生きていた、生きていた!!

 脆くか弱い人間は、メフィロスの人間は、確かに目を覚ましてくれた!!


「………というか、あれ?クロ、その身体どうしたの?あれ?うん?それにさっきの女の人は?え、夢……??」

「ニンゲンッ!!!!」

「ぐぇっ」


 押し潰すみたいに抱きしめて、すると人間は混乱した様子のままに「あっあっ夢じゃない、夢じゃないねこれ!?」と声を上げて、だけどメフィロスが泣いていたからだろう。訳のわからないことだらけだろうに、それでもメフィロスの背中に手を回して、メフィロスを落ち着かせるようにポンポンと背中を叩いてくれた。


「びっくりしちゃったんだねぇ、クロ。びっくりさせちゃってごめんね。大丈夫、もう大丈夫だよ」


 柔らかな苦笑。よしよしと頭を撫でる小さな手。柔らかな手。未だ痛々しい痕の残る首のところに顔を埋めて、メフィロスは何度だってニンゲン、ニンゲンと同じ言葉ばかりを繰り返した。


「もしかしなくてもクロ、私のことずっとそう呼んでたの?そういえば私、なんだかんだでちゃんと自己紹介してなかったもんね。はじめて会った時は死にそうでそれどころじゃなかったし、一緒に居るようになってからも、二人きりだったから苦労しなかったし……」

「ッに、ンゲ、」

「私はね、ハイリって言うの。笹倉羽衣里」

「ニ……」


 喉が震える。ただの息みたいに声になりきれなかった声を何度もこぼして、何度かはヒュ、と掠れた風だけをこぼして。


「、ハ、」

「うん」

「ハ、イ……、ハイ、」

「うん」


 嗚咽もまだ止まらないし、たとえ言えたとしても、不格好になるのは分かりきっているのに。

 それでも、だけど。


「ハ、イ……、リ。……ハイ、リ」


 それでも、メフィロスは今、ハイリの名前を呼びたかったのだ。


「ハイリ」


 幾度となく繰り返した末に、辿り着いたハイリの名前。ハイリはすると、くすぐったそうに笑って、「うん。……うん」と頷いて、嬉しそうにはにかんだ。


「名前呼ばれたの、久しぶりだ」


「ありがとう」と、噛み締めるような言葉。メフィロスはハイリのそんな言葉にそっと目を細めて、ハイリを抱きしめる腕に力を込めた。

 早く言葉を練習しよう。そうして今度はメフィロスが名前を伝えて、そうして今度は、メフィロスの名前を呼んでもらおう。


 決して遠くない未来を夢想して、メフィロスは幾つもの目を、けれど本性の姿の時よりは少なくなった瞳をそっと閉じた。

 幸福だ、と思ったのだ。




 それからは素晴らしいことの連続だった。

 日々は穏やかな幸せに満ちていて、ハイリはいつだってメフィロスのことを見つめてくれた。

 メフィロスが最初に自分の名前を告げた時などは随分と驚いていたけれど、やがて「そっか」と嬉しそうに笑って、「メフィロス」と宝物のようにメフィロスの名前を呼んでくれるようになった。


 メフィロスはそれから、殆どの時間を人型で過ごした。人型というものは本当に素敵なもので、ハイリとの目線も近ければ、誤って傷付けてしまうようなこともない。

 といっても、メフィロスは人化に中々苦戦していて、人間そのものの姿には中々なれなかったけれど。

 羽をしまうと毛皮が増えて、毛皮をしまうと目が増えて、目を減らそうとすると今度は口が裂けるのだ。相変わらずメフィロスの姿は悍ましいたまで、けれどメフィロスがそれに落ち込むことは一度もなかった。


 ハイリがそれで良いのだと言ってくれたからだ。

 メフィロスが成り損ないの人の身で過ごし始めてすぐの頃だった。まともな人間化が出来なくて、メフィロスは情けなさともどかしさで随分と苛立っていた。

 ハイリはそんなメフィロスの手を取って、「急がないで、ゆっくり行こうよ」と笑いかけてくれたのである。


「だってほら、折角また二人でのんびり暮らせるようになったんだし、時間だっていっぱいあるもん。ね?」

「だ、だが。……おぞましいだろう、俺は。ハイリも、俺がはやくヒトの見た目になれたほうが、うれしいはずだ……」

「ううん、メフィロス。そうじゃない、そうじゃないんだよ。もちろんメフィロスが、私のために歩み寄ろうとしてくれたのは何よりも嬉しいけど……」


 そう言うとハイリは中途半端に人間化したメフィロスの、裂けた口の頬を掴んで、目を合わせるように微笑んで。


「見た目なんてどうでも良いの。私はね、メフィロス。あなたがあなただから側にいたいし、大事なんだよ」


 そう、細められた柔らかな瞳でメフィロスを見つめてくれたから、甘やかしてくれたから。メフィロスはそれ以降、無理に完璧な人間化を目指そうとするのをやめたのである。

 どの道毎日のように人型になったいたら、少しずつ上達はする。必要以上に焦って完璧を目指さなくたって、ハイリはメフィロスの側に居てくれると分かったから、人になれないからと焦燥に苛立つことも無くなった。


 穏やかな日々だった。ハイリはメフィロスが本性の姿をしている時にも、中途半端な人型の時でも変わることのない親愛をメフィロスに向けてくれていた。

 常春の庭で過ごして、魔族領を散策して、時々生きたまま捕まえたうさぎを膝に乗せてやったりもした。ハイリはその度に、メフィロスが何かをしてやるたびに喜んで、「ありがとう」と言って、メフィロスの額に唇を落としてくれた。


 穏やかな日々。幸福の日々。

 それに翳りが差したのは、先代の魔王がメフィロスの手によって討たれてから数ヶ月の後。

 随分と遅れて【はじまりの魔王】の死を知った人間達が、メフィロスを次代の魔王として認識し始めた頃のことだった。


 長く人類の敵であった魔族。そしてそれを統べる魔王。

 その魔王が代替わりをしたと知って、人間達は何を思ったか、魔族領への侵攻をはじめたのである。











 ▪︎


「正直に言って、その頃には私も人類の進退などどうでも良くなっていたのだけれどね。だが、人類が敢えてこちらに向かってくるというのなら話は別だ。降り掛かる火の粉を払わない道理はない。それで、まぁ、私はもう一度人類に対して猛威を奮ったわけだ」


 紅茶にミルクを注ぎながら魔王は言った。

 勇者アレクサンダーは引き攣った頬で、なんとか魔王の言葉に相槌を打つ。「いるかい?」と差し出されたミルクは丁重に断りを入れた。


 アレクサンダーが魔王の後ろを付くようにして暫く歩き、そうして辿り着いた先は、この温室だった。色とりどりの花々に埋め尽くされた場所。

 長い旅の間にも見たことのない植物に目を瞬かせていたアレクサンダーに、魔王メフィロスは優しく笑って、「ずっと昔の花だよ」と教えてくれた。


 で、気が付けば何故か、こんなお茶会が始まっていたというわけである。何もなかったはずのところに突如テーブルやティーセットが出て、本当にいつの間にか、アレクサンダーもまたテーブルについていた。

 魔王というものは、やはり油断ならない生き物だ。いくら魔族が魔法に優れているとはいえ、こんな芸当が出来る魔族など聞いたこともない。


「私が最も恐れたことは、人間達が魔族の領土を越え、私の巣に辿り着くことだった。何せそこにはハイリがいる。万が一にでもハイリを手中に収められてしまったら、私はきっと成す術なく人に討たれるだろうと分かっていた。そうなれば、きっとハイリは悲しむだろうということも」

「だから、城を襲ったのか?当時の帝国を滅ぼして……。五百年前、帝国が三つに分かれた原因はお前なんだろう?」

「いや……。少し違うかな」

「違う?どこが」

「強いていうなら、順番がかな」


 そういうとメフィロスはひと口紅茶を飲んで、それから勇者に対してにこりと笑いかけた。

 アレクサンダーは、どうしたことだろうか。何故かそれだけで、背筋にゾッと怖気が走る。


「あの頃の私は、人間の社会生活や国の形式なんて一つも知らなかった。誰か一人が莫大な国を治めているなんて、人類にそんな知恵があるなど考えたこともなかったんだ。だから結局私が皇帝の存在を知ったのは、人類のおよそ……、何分の一だったかな。とにかく殆どの戦闘員をことごとく殺して、食い尽くした後でね」

「…………は、」

「言っただろう?『実際、私は一度やり遂げた』と」


 なんてことのない風に魔王は言った。絶句するアレクサンダーに、「そうしないと、どうしても安心できなかったからね」と笑う。

 スコーンを割って、ジャムをつけて、まるでただの世間話や思い出話みたいな調子だった。


「ほら、危険の芽は出来るだけ摘み取っておかないと。二度と私に歯向かおうなんて思えないように、武器から取り上げてしまわないと、一体いつハイリが人間共の標的にされてしまうか分かったものではないだろう?」

「だ、だからって!!何もそんなに沢山、殺さなくても……!!」

「でも、そうして人類が脅威では無くなったからこそ、私は人類を滅ぼさない選択が出来た。だから君が生まれたこの時代まで、人の歴史は続いてきたんだよ、勇者」


 牙を抜いた。敵意を追った。二度と人類は魔王に刃向かわないだろうと確信を得た。


「だからこそ、私は安心して人類の存続を許すことが出来た。……ハイリに靴を、あげることが出来た」

「お、お前は………」


 どこまでも真っ直ぐな、愛の瞳。優しい微笑み。

 アレクサンダーは項垂れるようにして呟いた。分かってしまったのだ。ほんの少しでも、人間みたいだと、魔王も人を愛することが出来るんだって気を許してしまった自分が馬鹿だった。分かり合えるかもしれないなんて、世迷言を考えた自分が馬鹿だった。


 この魔物はどこまでも人間のことなんて、自分にとってただ一つの特別だったササクラ・ハイリという人以外は、本当に本心でどうでも良く思っているのだ。


「お、お前が殺した人間だって、ハイリさんと同じ、『人間』だったのに……」

「けど、ハイリではなかった。君がハイリではないのと同じようにね。どこに躊躇う理由がある?」

「魔王ッ!!!!」

「私にとって、ハイリは全てだった。それ以外のものには、何の意味も見出せない程にね。どうでもいいんだ、本当に。生きていようが死んでいようが、喜ぼうが悲しもうが怖がっていようが。ハイリに害を為すかもしれないという『可能性』に比べれば、何もかもが瑣末なことだった」


 分かり合えない。こんなにも。この男だって、確かに誰かを愛しているはずなのに。

 この男は、この男が殺した誰かが、他の誰かにとっての『ハイリ』なのだとは考えなかったのだろうか。それとも考えた上で、『どうでもいい』などと切り捨てたのか。


 どことなく、後者のような気がする。

 上っていたハシゴを急に外されたような末恐ろしさに、アレクサンダーはグッと奥歯を噛み締めた。


「………分かった。お前は本当に、根底からして人間とは違う生き物なんだな」

「ああ。魔王だからね」

「そうか………」


 アレクサンダーはそう呟くと、ふーっ、と怒りに震える息を吐き出した。ぎゅっと一度、強く目蓋を閉じる。


 冷静にならなくては、と思う。

 魔王とは分かり合えない。そこまでは分かった、理解した。だけどそれで、じゃあ殺し合いましょう、なんて剣を抜くわけにはいかない。

 だって魔王は、何かの意図があってアレクサンダーに対話を持ちかけたはずなのだ。その理由を知る前に殺し合いに発展させるなど、そんなことは、勇者のすることではない。

 それに、気になることもある。


「………なぁ、魔王。お前は人類を『どうでもいい』と言ったな」

「ああ。言ったね」

「なら、どうしていきなり人類を攻撃するような真似を始めた?五百年間、お前はずっと、人類のことなんて見向きもしなかったじゃないか。どうして今更……」


 どうして魔王は今更になって、再び人類を滅ぼそうなどと考えたのか。

 それはハイリの話を聞きながらアレクサンダーが抱いた、一つの疑問であった。


 魔王メフィロスは、今から数えて二十年ほど前、突如人類への攻撃を始めた。人間の領分と魔族の領分。その境を侵して、多くの魔族や魔物が人々を襲うようになったのだ。


 アレクサンダーは今までそれを、残虐な魔王の気紛れによるものだと思っていた。魔王というのはそういう、残虐で残酷な存在で、自らの愉悦のためにこそ人々を襲い、きっと怯え逃げ惑う人々を見て喜んでいるのだろうと。

 けれど、いざこうして魔王の話を聞いてみれば、そんな印象はあっという間に覆った。

 魔王は確かに残酷だけれど、わざわざ人の悲鳴を楽しむほど、人間に対しての興味なんて持っていないのだ。


「どうして、あんなに沢山の村を、街を、人を………っ!!」


 血を吐くような言葉だった。アレクサンダーは爪が食い込むくらい、強い力で拳を握りしめる。

 魔王はそんなアレクサンダーを暫くの間、凪いだ瞳で見つめていた。そっと伏せられる目蓋。嫌味なくらいに長い睫毛が、青白い頬に影を作る。


「そうか。やはり君は、何も知らないか」

「何を、」

「王太子、アレクサンダー・ペンドラゴン」


 はっきりとした言葉だった。魔王はゆっくりとした仕草で顔を上げると、一対の赤い瞳で真っ直ぐにアレクサンダーを射抜く。


「はじまりは、お前の国だったよ。お前の国がハイリの墓を暴き、骨を奪ったからこそ、この戦争は始まったんだ」


 そうして魔王は、至極真面目な、真剣な顔付きで、ありえない、信じられない、あってはならないことを言ったのだ。


「───……、…………は??」
















 ▪︎


 いくつになっても、ハイリは綺麗なままだった。

 背中が曲がって小さくなっても、骨が弱って歩けなくなっても、しわくちゃのお婆さんになったって、ハイリは綺麗なままだった。


 メフィロスはハイリの一生を愛していた。ハイリはいつまでも姿の変わらない、若々しいままのメフィロスの隣にあることをどこか恥ずかしがっていたけれど。メフィロスからすれば、どうしてハイリが恥ずかしがるのか分からなかった。

 だってハイリは、ずっと綺麗なままだったんだから。


 ある晩のことである。

 ハイリは静かな声で、「メフィロス」と彼に向かって呼びかけた。ハイリのために特別に作らせた車椅子を押していたメフィロスは、それに「ああ」と答えた。


「何だい?ハイリ。愛しいひと」


 甘やかな声。甘やかな瞳。長く人型を取るようになって、とうとう完璧な人の身を手に入れるようになったメフィロスは、そう言ってハイリに問いかける。


 肩のところで揃えられた髪。二つしかない瞳。裂けることのない、形のいい唇。

 ハイリはかつてメフィロスに「あなたがどんな姿でも構わない」と言ってくれたけれど、美しいに越したことはない筈だと思って、少しでもハイリによく思われたくて、人の世界で美しいと言われる人間を集めて観察して作り上げた姿だった。


「あのね、メフィロス。お願いがあるの」

「何なりと。君が望むものは全て用意するよ」

「ふふ。メフィロスは相変わらず、私に優しいのね」


 日々成長して、大人びていくハイリにつり合うように学んだ仕草に言動。

 ハイリはメフィロスが変わっていくたびに少し寂しそうにして、けれど同じくらい、嬉しそうにもしてくれていた。メフィロスが美しくなったからではなく、メフィロスがハイリのために努力をしたからだ。それくらいハイリが好きなんだと、その言動でもってメフィロスがハイリに示すたび、ハイリはいつだって少女のような顔ではにかんで喜んでくれた。

 それこそが、メフィロスにとっての喜びでもあった。


「……お墓をね、作って欲しいの。ここではない、どこか遠くに」

「…………、ハイリ?」

「そして、私が死んだら。……どうかメフィロス、私のことを忘れて過ごして。死者に縛られないで、自由に生きて」


 ありとあらゆる臓腑を鷲掴みにされて、握り締められたような感覚だった。二人しかいない静寂の城。車椅子を押してメフィロスは、ハイリの言葉に歩く術さえ失ったように足を止めた。


「………ハイリ、それは、」

「だってあなた、きっと私が言わないと、これからの人生ずっと私のお墓の前で暮らすことになってしまうでしょう。あなたの人生は長いのに。私のせいで、あなたはきっと、何十年も、何百年も、ただそうして生きていくことになってしまう」

「っそれが私の望みなんだ!君の墓守をして、君の骨を抱きながら、ただそれだけをして生きて、それだけが、私の……」


 すっかりと白くなってしまった、ハイリの髪を震える手で掬い上げる。愛しいひとの一部。何よりも大切なもの。この世で最も尊いもの。


「なぁハイリ。お願いだ、分かってくれ。ハイリが、ハイリだけが、俺にとっての意味なんだ。ハイリが居なくなったら俺は全ての意味を失ってしまう。生きる意味も笑う意味も泣く意味も、何もかも。そうでなくとも、後を追うことさえ出来ないのに………」


 魔王は勇者にしか討つことが出来ない。魔王自身でさえ、自分の命を終わらせることができない。これは本当のことだった。だって神様が言ったのだ。

 何十年も昔、メフィロスとハイリは、この世界の神様にだって会ったことがあった。


「それでも、メフィロス。あなたはとても素敵なひとだもの。きっとたくさんの人に愛される。きっといつか、あなただって誰かを愛するかも」

「あり得ない!!俺がハイリ以外を愛するなんて、そんな馬鹿なことはない!!お前は何も知らないからそんなことを言えるんだ、お前は、俺がどれだけお前に救われて、愛さずにいられなかったか、」

「それでも、メフィロス。未来は分からないものよ。だから私は賭けたいの」


 ハイリはそういうと、柔らかな微笑みで、寂しげな笑みでそっと息を吐いた。


「私だって本当は、メフィロスを誰かに取られるなんて嫌よ。でも、メフィロスの未来が、そんな風に寂しいものになってしまうのはもっと嫌。私を思い出す度に、あなたが孤独に苦しむなんて未来は耐えられない。だから、どうかメフィロス。私を忘れて。誰かを愛して、愛されて、明るい未来を歩いて」

「……ハイリは、何も分かってない。そんなの、無理だよ」

「無理じゃないわ。だってあなた、こんなにも愛に溢れたひとだもの」


 聞き分けのない子供に言い聞かせるような声でハイリは言った。車椅子の上からメフィロスを振り返り、メフィロスの手を取って、引き寄せるようにメフィロスを目の前に連れてきて。

 メフィロスはそこで、ハッとしたように息を呑んだ。微笑むハイリはけれど、未練に満ちた目をしていたのだ。

 それでもなお、こんなにも手放したくないと願っているくせに、心から来て欲しくないと願う、メフィロスの隣に自分以外の誰かが立つという未来を、けれどメフィロスの為に本心から望んでいる。


「お願いよ、メフィロス。私のあなた」


 メフィロスは、ああ、そうだ。

 ハイリのそんな献身が、痛いくらいの献身が、とてつもなく頭に来たのだ。


「………条件が、ある」


 いっそ泣き叫んでしまいたいほどの激情に、痛みに胸を襲われながら、けれどその全部を押し込めるような、本当に小さな声でメフィロスは言った。ハイリは「条件?」と微笑むようにメフィロスを見上げて、メフィロスはそれに「ああ」と言って頷いた。


「期限を、決めてくれ」

「期限?」

「そうだ。君が決めた期間、私は君を忘れて生きる。けれどハイリ。その期間を過ぎても、私が君を諦められなかったら……。その時は君も、どうか諦めて」


 お願いだ、とメフィロスは言った。祈りにも似た言葉だった。ハイリはそんなメフィロスに困ったように眉を下げて、でも、メフィロスが決して譲らないと分かっていたのだろう。最後には「分かったわ」と頷いてくれた。


「百年では短いわよね」とハイリは言った。メフィロスは何も言わなかった。

「千年は……。長いかしら。意地悪になってしまう……?」とハイリが不安そうに呟いた。メフィロスはもちろんそれにわざと傷付いた顔をして、「千年はひどすぎる」と首を振った。

 本当は、千年でも二千年でも待てるけれど。期間が短い方が、より早くハイリのところに戻ることが出来るから。


 そうして決められた期限は、五百年。

 メフィロスはそして、ハイリがこの世を去ったその時から、指折り数えてその日を待った。


 約束通り、ハイリの墓は遠いあのとこしえの春の庭に作って、骨には何百年経とうと朽ちないように魔法をかけて。

 約束通り、ハイリの眠る墓には近付かないで。けれどハイリが愛した全て、花も絵も思い出も、全てを閉じ込めた城に眠り続けた。


 ───そして、五百年後。

 訪れたハイリの墓。とこしえの春の庭。

 厳重な守りをかけていたはずのそこは、そうでなくとも、メフィロスのような強い魔力を持つ者でなければ辿り着けないはずのそこは、けれど荒らされ掘り起こされていた。


 ハイリの骨が、盗まれていたのである。












 ▪︎


「お前の父親は随分と欲深い男だった。ハイリの墓を暴き、その骨を使うことで私を従えさせようとしたのだからね。───あれはハイリの骨で、よりにもよって、生き人形を作ろうとした」

「っ!?」


 ぱちん、とメフィロスが指を鳴らす。その瞬間お茶会のテーブルに現れたのは、白いドレスを着た少女。

 車椅子に乗せられて、まるで眠っているみたいに穏やかな顔で目蓋を閉じていた。

 あの肖像画に描かれていた姿そのままの、『ハイリ』がそこに居たのである。


「う、嘘だ、だって父上は偉大な王だった……。国を豊かにして、お前に殺されるまで、民にも慕われて!!」

「だがその豊かさの源は、そもそも戦争にあった。お前の父親はより強い力を求めて、私を服従させることを望んだ。その為にハイリの墓を暴き、骨を掘り起こし、肉を付けて骸に血を通わせた。私があと少しでもハイリを取り戻すのに遅れていれば、きっとこの身体には、人工精神が植え付けられていただろうね。本物のハイリの骨を使って、偽物のハイリが作られるところだった……」


 少女の手をそっと掬い上げやがら、けれど酷く冷たい目を細めながらメフィロスが呟く。

 アレクサンダーはガタリと音を立てて椅子から立ち上がり、よろよろと不安定な足取りで後退る。込み上げた吐き気を抑え付けるように口を覆って、そんな筈はと、そんなことがあって良い筈がないと、ボソボソと繰り返した。


「勇者。アレクサンダー・ペンドラゴン」

「っ……!!」

「私はね、勇者。君がこの城に来てくれた時、本当に、何よりも嬉しかったんだ。この城に辿り着けるほどの力を付けたということは、つまり君は、私を殺められる程には強くなったということだから。性格も、まぁ気に入った。愚かな程に自直な性格の君なら、きっと悪いようにはしないでくれるだろう」


 魔王はそして、「出来たらこの温室の花は、いくつか外に植え直して、この世界に残しておいて欲しいんだ」と言った。「ハイリの愛した花だから」と。


「な、にを、なにを、言って………」

「報復を終えてなお、魔族を人の領土に送り続けた甲斐があるというものだ。お陰で君はこんなにも育ってくれた」

「……、お、れの……?」


 それは、まさか、つまり。

 アレクサンダーの父であったかつての王。魔王にとっての報復の対象であった父が死んでなお十年続いた魔族の侵攻は、全部、アレクサンダーを育てる為だったとでも言うのだろうか。


「お、お前………」


 そうまでして、そんなに多くの人を巻き込んでまで、死にたかったのか。


「もとから、ハイリのいない世界になど用はなかった。それでも私が今に至るまで生き続けたのは、そもそも死ぬ術が無かったからだ。魔王などというものになってしまったせいで、勇者に討たれる以外の終わり方を失ってしまったからだった」


 そう言うと、メフィロスはあからさまな動きで立ち上がった。車椅子から眠るような少女を抱き上げて、ほんの一瞬、微笑んで。次の瞬間には、ボコ、と身体の一部が。腕のところの肉が、大きく盛り上がる。


「ああ。……これでやっと、私も君の後を追える」


 万感の思いがこもった言葉。「どうか上手く殺してくれ」と願う微笑み。

 ぼこ、ぼこ、と悍ましい音。ひしゃげるようにして盛り上がる肉、大きくなる身体。幾つもの赤い瞳、裂けた口、黒い毛皮に覆われた身体に鋭い爪。

 少女を喰らう、化け物。


 愛する人を辱められるくらいなら、食ってしまおうということだったのだろう。

 怪物は、幾つもの怪物の目が、凪いだ瞳がぎょろりとアレクサンダーを捉える。


 アレクサンダーは、聖剣を握った。

 手は震えていたけれど、未だ心の整理はついていなかったけれど。


 それでも、剣を握らなければ死ぬと分かっていたから。

 だってこれは自分の役目だと、勇者としての本能が強く叫んだから。


 アレクサンダーは聖剣を握った。

 向かってくる本性の魔王に向かって振り下ろし、そうして魔王の死体が塵になって空気に溶けていくのを、ただ静かに見送ったのだ。

















 ▪︎


 秋の月、27日。


 今日はメフィロスが私の絵を描いてくれた!

 今まで花とか森ばっかり描いてて、私のことを描いてくれないって正直ちょっと拗ねてたけど、「上手に描けるようになるまで練習してた」って。どうしよう、本当に嬉しい!

 人間の姿を取るようになってから、メフィロスはどんどん色んなことが出来るようになっている。最初は筆を持つのも慣れなかったのに、今じゃ写真みたいな絵を描けるんだから、メフィロスはすごい。


 でも、少し不安でもある。

 私はきっとメフィロスよりも先に死んじゃうから、絵が残ってたら、きっとメフィロスが寂しくなっちゃうんじゃないかな。

 本音を言うと、そりゃ私だって好きなひとには忘れられたくない。私が死んだその先も、十年も二十年も、百年先だって私のことを覚えててくれたら良いのになって思う。

 でも、そのせいでメフィロスを悲しませたいかというと、やっぱりそれは嫌だなぁとも思うわけで。


 私を描いてくれたのは嬉しいけど、うん。いつか、こっそり物置とかに隠すようにしようかな。

 本当は捨てるなり燃やしたりした方がいいんだろうけど、メフィロスが、好きなひとが描いててくれた絵を燃やせるほど私は強くないから、どこかに大事に隠しておこう。

 どうかメフィロスが、見つけてしまいませんように。


 ………メフィロスに、家族をあげられたら良かったのにな。

 どれだけ心が通っても、どれだけメフィロスが人の身に寄り添ってくれたって、私達はどこまでも違うから、結局私はメフィロスを一人にしちゃう。

 ただ「違う生き物だから」なんて理由で家族もあげられないまま、ひとりぼっちにしちゃうなんて、いやだなぁ。


 いっそのこと、私がメフィロスを道連れにしてしまえたら良かったのに。

 そしたら私達、いつまでもどこまでも、ずっと一緒に居られるのにね。











 ▪︎


 魔王城跡地。

 アレクサンダーは、そこに建てられた墓にそっと花を添えた。淡い水色の、五百年前の花。

 納める遺体も残らなかったから、中身は空っぽだけれど。死者を悼む場所としてなら、機能しないわけでもない。


「………ハイリさんは、結局絵を隠したのかな」


 国際議会において、魔王城を取り壊すことが正式に決まった時。アレクサンダーはたった一人で一足早くこの場所に訪れ、二人の遺品とも言えるそれらを秘密裏に処分した。

 そうでもなければ、かつて思い合っていた恋人達の遺品は、魔王の遺産などと呼ばれて好き勝手に扱われるだろうと分かっていたのだ。そして城中を探して家財道具を集め、火を付けて燃やした。

 碌に事情も知らない誰かに良いように使われるよりは、そっちの方が良いと思ったのだ。


 ササクラ・ハイリの日記の一部は、そんな遺品整理とも言える作業の中で見つけたものだった。

 黒い髪色を持つ少女。メフィロス曰く、異世界から訪れた人間。魔王が唯一愛したもの。

 魔王の最愛であった彼女は、けれど。きっとメフィロスが彼女を思うのと同じくらい、メフィロスのことを愛していた。


「隠したんだろうな、きっと。メフィロスのために」


 でも、あの絵はちゃんと城に飾られていた。決して劣化しないように保護の魔法までかけて、燃やすのだって一苦労だったほどだ。

 きっとハイリは絵を隠した。でも、メフィロスはそれを見つけ出して、五百年もの間大切にし続けたのだ。


 もしかしたら、ハイリがいつ、どこに隠してのかも知っていたのかもしれない。

 それでもきっとメフィロスは、ハイリがこの世を去るまで、その絵をあからさまに取り出したりはしなかったのだろう。

 メフィロスはきっと、この世を去り行くハイリにこそ、安心を上げたかったはずだから。


「………いいなぁ」


 魔王のしたことは、今でもまだ許せない。魔王のせいで何十万という人々が死んでいったし、その中には無辜の民も、まだほんの幼かった子供達もいた。

 魔王の愛は理解できないし、例え魔王があの後も生きていて、何度か話す機会があったとしても、アレクサンダーはメフィロスと分かり合えないままだっただろう。


 だけど、それとは別に、ほんの少しだけ思うのだ。

 その人が意味の全部で、その人がいない世界になんか用はないと本気で言えるほど、誰かを愛せるのが羨ましいと。

 いっそあの人を道連れにして死んでしまいたいと、願ってしまえるほど、誰かを愛せるのが羨ましいと。

 そんな風に思える相手に巡り会えたことが、アレクサンダーは少し、ほんの少しだけ羨ましかった。


「……また来るよ、メフィロス。今度もまた、ハイリさんが好きだった花を持って」


 ここには魔王は眠って居ない。魔王が愛した少女もいない。

 あの人は最後メフィロスに食われてしまったし、そんなメフィロスの亡骸は崩れて塵になって残らなかった。


 だけど、ここは確かに、二人の墓なのだ。

 魔王城も無くなって、二人がかつて暮らしていたという『巣』はどこかも分からない。もしかしたら、五百年も立つうちに崩れて無くなったのかもしれない。

 だからここは、この世界に唯一残る、二人が確かにこの世界に生きていたという証なのである。


 これを作ったのは、全部アレクサンダーの自己満足の為だけれど。

 そもそものきっかけであり、全部の始まりであった父の、ただ一人の子であるアレクサンダーには、そんな資格もないかもしれないけれど。

 それでもアレクサンダーは、二人に祈りたかったのだ。


 強欲の化身、厄災の王、終焉の怪物。

 この世で最も悍ましい、惨憺たる醜さの本性を持つ正真正銘の化け物。今現在最も人類に恐れられ、最も人類に憎まれている人類の敵。

 かつての魔王メフィロスと、かつて魔王が愛した、たった一人の人間の少女、笹倉羽衣里。


 どうか安らかにと、アレクサンダーは目を細めた。

 今日はいっそ眩しいくらい、とても天気の良い日だったから。


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