六話 一夜漬け
うず高く積み上げられた資料の山々。その山脈の頂きからまた一冊手に取り、琴音は黙々と読み込む。
あれから何時間経っただろうか。もう日はとっくに沈んだ。
琴音は政室にて詰め込み教育を受けていた。
どんと積まれた資料には高天原の成り立ちや歴史、神々のいつわや現在の役割といった内容が記されている。
(頭パンクする)
琴音は天井を見上げ、ふーっと息を吐く。欠片でも疲労をとばしたい。首をぐるぐる回し、少しでもリフレッシュを図った。
「引き継ぎ資料持ってきましたよ〜!」
静寂を破る元気な声と共に、分厚い綴をいくつも抱えた牡丹と海老根が入ってくる。
脇で資料整理をしていた桔梗が牡丹から綴を受け取り、山脈の一部を目線で示した。
「ありがとう牡丹ちゃん。とんぼ返りで悪いけれど、ここの一角は読み終えられたから戻してくれる?」
「は〜い!」
牡丹はぐるぐると腕を回し、よっせと資料を抱えてまた出ていく。
ぼーっとその様子を眺めていた琴音の鼻にふわっと柔らかな香りが届いた。
山脈を避けて盆が置かれる。
「卵雑炊です。夜食にいかがですか?」
海老根が蓋を開けると、見るからにふわふわなかき卵と三葉に彩られた上品な雑炊が湯気を放つ。
琴音は一気に張り詰めていた糸が緩むのを感じた。
「ありがとう。いただきます」
ひと匙すくって口に運んだ琴音は泣きそうになった。出汁の優しさが疲労にやられた脳に染みる。
「あ〜美味しい〜ほっとする〜」
ずっと文机に張り付いていたから、夕食をとったのももうずいぶん前になる。顔を出しつつあった小腹の空きにこれは嬉しい。
「そろそろ一息入れましょう。根を詰めすぎるのもよくありません」
土鍋の脇にそっと湯呑みが置かれた。
「こんなに勉強するの久々」
「こんなにも真剣に取り組んでいただけて嬉しいです。先代は見向きもされませんでしたから」
(今大丈夫なんだろうか……)
琴音は一切の幸福を絶ってしまったかの人を憂う。なんとなく神経は太そうだからやっていけそうな気もするが。
味わいながらゆっくり雑炊を食む間に会話を交わす。
「萬奉は教えるの上手いね」
はじめは萬奉による板書授業だった。ふっと笑える小話を挟み丁寧に教えてくれる様は生徒から人気のおじさん先生といった感じで、なんだか懐かしさが込み上げたものだ。
「萬奉様は長きに渡り代々の天照様にお仕えしてこられた侍従頭でございますもの」
桔梗の言う通り、驚くことに萬奉はかなりの上役らしい。
「三貴子様お抱えの指南役でもございますし、八百万の神との仲介に、政務長として神職の統率などそのお務めは多岐にわたります。萬奉様ほどの朗らかさがなければとても務まるものではありませんわ」
「全然そんな風に見えないのに。萬奉も苦労してんだね」
「それはもう。萬奉様なくして今の高天原はなし、ですもの」
「私たち三人も萬奉様に教育していただいたんです」
よほど萬奉を慕っているのだろう、話す桔梗と海老根の顔が可愛らしく綻んでいる。大人びて見えるふたりだが、萬奉は大好きな父のような存在なのかもしれない。
(ほんと、人は見かけによらないなぁ)
三貴子という言葉に引っかかったが琴音は流すことにする。習った気もするが、詰め込んだ情報が多すぎて帳面を繰るのも大変だ。
今は残りの資料を捌くことを最優先にする。
「ごちそうさま」
よしっと心中で喝を入れ、琴音は再び山脈と向き合った。
(え〜っと、覡が男侍従のことで……侍従は主の神に仕える者の総称。中でも政務を行う侍従は神職と呼ばれ……)
また数刻が過ぎた頃、萬奉が顔を出しに来た。
積み上げられた資料の山は丘くらいにはなっている。
「お疲れ様でございます」
今まで仕事をこなしていたのだろう。手には墨の汚れが付いている。
ちなみに使っているのは万年毛筆だ。ここでも高天原は現代的である。
「やや〜、お傍にいられず申し訳ございません。ご調子はいかがでございましょう」
「んー、読めるだけは読んだけど……」
高天原の基本事項が書かれた書物に歴史書、天照大御神の業務引き継ぎ資料などかなりの数を読み漁ったが内容を追うだけで精一杯だ。
(二割記憶に定着したら良い方だな)
琴音は伸びをして凝り固まった身体をほぐす。
「や〜、明日からはさっそくお務めでございますゆえ、そろそろお休みください」
「うん、そうする───って、待って? ん? 明日?」
「はい〜! さっそくにでもお務めいただかなければ、もうてんてこ舞いでございますので!」
この小男、相変わらず蛙顔を緩ませてとんでもないことを言ってくれる。
「ちょっと待ってよ! 一週間! せめて三日はくれないと無理だって!」
「大丈夫でございますよ〜! 私も三巫女も付いておりますから!」
(全然大丈夫じゃない!)
これではまるでブラック企業だ。先代が逃げ出したのもわかる気がする。二千年ほどの間に天照の魂の縁族が三百十一代も連なっている理由はこれなんじゃないかと思いながら、琴音は冷めた目で萬奉を見た。
◓◑◒◐
カポーン。
まさにその効果音がふさわしい雅な空間で、少し熱めの湯に琴音は溶けた。夜空に吸い込まれていく湯気と共に疲労も抜けていく。
「天照様、お湯加減はいかがですか」
「う〜ん最高〜」
「うふふ。あとでお背中お流ししますね」
戸の向こうから声がかけられる。
(このまったり空間に桔梗の声は癒しだ……)
浴室にこもる檜の香りがさらにリラクゼーション効果をもたらしてくれる。はあーっと大きく息を吐き、琴音は肩まで深く浸かった。
(濃すぎた〜)
こんなに一日は長かっただろうか。
資料の記述では、天上界である高天原と地上界は同じ時間軸にあるという。つまり、一年は三百六十五日で、一日は二十四時間。
厳密には別世界という分類でもないようで、地球という空間の中に地上界と、その遥か真上に天上界である高天原が存在しているらしい。
(萬奉が「そういう類ではない」って言ったのはそういうことか)
死んだわけでもなければ、別の世界線でもない。琴音はエレベーターで上に上がるように、ただ地上から真上に来ただけともいえるのだ。
浴槽の縁に両肘をかけ、仰け反るように空を見上げる。半露天の浴室からは星空がとても綺麗に見えた。
(まぁ、良かったのかなー)
家に独りでいたら塞ぎ込んで病み街道まっしぐらだっただろう。今もお局たちと院長への鬱憤が晴れずに泣いて怒り狂って過ごしていたかもしれない。またの転職作業も心身ともに削られるし、社会人一年半で職を転々としていてはなかなかお金も貯まらない。最後に旅行に行ったのはいつだろうか。
(下はここんとこ雨続きだし)
いつだって晴れというのは気持ちがいい。
子供の頃に夢見た雲の上の世界で趣溢れる雅やかな建造物に囲まれ、仕立ての良い豪華な衣装を着飾り至れり尽くせり───最高この上ない生活だ。いっそ快適すぎて、六畳洋間のワンルームでの独り暮らしにまた戻れるか不安になってくる。不在の間も家賃などもろもろの引き落としが続くことだけが気がかりだ。
『あんた肝座ってるわ』
ふいに母の十八番文句が脳裏に響く。
(早いとこ譲位できないと破産するなー)
琴音は呑気に経済破綻を憂いつつ、今はただ四肢を湯にたゆたわせて身を包む温かさに全てを委ねた。