三話 知らない天井 後編
ここは八百万の神が住まう高天原にございます。
八百万の神とは太陽や月、風などの自然はもちろん道具や衣服、果ては便器に至るまですべてのものに宿る無数の神々のことでございます。
その神々が暮らしますのが天上界に位置するここ、高天原なのです。
その高天原を統べる最高神が貴方様、天照大御神なのですよ。
天照大御神は太陽や光、慈愛に真実、それに秩序を象徴する最も尊い神でございます。
高天原は、始祖・天照大御神より代々そのご意志を受け継ぐ方、すなわち魂を受け継ぐ方により引き継がれ統治されております。
まぁ、例えるなら魂の子孫でございましょうか。血縁ではなく、魂の繋がり。それを<魂の縁族>というのです。
ざっと説明を終えた萬奉はにこにこと琴音を見つめた。
(天照大御神って、たしか岩戸にこもったので有名な神じゃなかったっけ)
そういえば卑弥呼説もあっただろうか。
「神様の魂の子孫? って言われても意味わかんないけど、なんで私?」
なにをもって天照大御神の意思を継いでいるというのか。琴音はそう言われるほど慈悲深く聖人君子のように生きてきた覚えはない。
「それはもう〜、貴方様が三百十一代目の魂のご縁族だからでございますよ〜!」
「いや、だから……」
「魂のご縁族は魂のご縁族でございます。親族に『なぜ私と貴方は親戚なのか』と聞くようなものですな」
また萬奉はにこにこと琴音を見つめる。
琴音の口角がぴくりと引き攣った。
「じゃあ、私はどうやってここに来たの?」
ここが天上界だというならどうやってあの六畳洋間のワンルームから移動してきたというのか。
「八百万の神により新神としてお招きされたんでございますよ〜」
そして、またにこにこ。
琴音は額に手を当て項垂れた。
(だからぁ……)
この小男、どうやらこれで説明した気になっているらしい。
このままでは蛙顔を踏みつけてしまいかねない。琴音は遠い目で天井を仰ぎ忍耐力をかき集めた。
「ちなみに夢オチだったりは……」
「いたしませんな〜! まぎれもなく現でございます」
(うん、そうだよね。わかってた、わかってたよ)
過去に見たどんな夢よりも感覚が現実的だ。自分の鼓動や息遣い、熱感がこれは夢ではないと伝えてくる。
「そもそも神様に魂の子孫とかありなの? 神様はひとり、天照大御神は天照大御神でしょ?」
信奉されし神が実は人間で中身がコロコロ代わってました〜なんて、日本中の神主が腰を抜かすんじゃなかろうか。
「やや! いくら神とはいえ不老不死ではございませんからな〜」
「そうなの?」
「はい〜。ですから、その位が魂のご縁族に脈々と引き継がれているのでございますよ。神の不在は天地両界に絶大な影響を及ぼすことを意味しますからな」
「絶大な影響って?」
「そうですな〜」
萬奉は少し考え、指の代わりに扇を立てた。
「では、例え話をひとつ。太陽が消えてなくなると何が起こると思われますか?」
「は?」
唐突な壮大な質問に琴音はきょとんとする。
「なにって……何が起こるの?」
「この世からすべての光と熱が消えるのでございますよ〜。阿鼻叫喚の中、地上界を未曾有の食糧危機と急激な気温低下が襲います」
「はい?」
「一週間もすれば、ほとんどの植物は死に絶えるでございましょうな〜」
物騒な内容なのに変わらない笑顔が恐怖だ。
「太陽を司る神である天照様は天地両界にとっての希望の光。まさに太陽そのものとも言えるご存在なのです〜。位を継承することがいかに重要かおわかりいただけましたでしょう〜?」
「はぁ……」
琴音は無神論者だ。神は人間が作り出した想像上の存在だと思ってきたのだが───。
(当事者……だもんなぁ)
目の前で微笑む蛙顔を見る。
そういえば、萬奉は琴音を「三百十一代目」と言った。
「ねぇ、そんなに天照が重要なら先代はどうしたの?」
「先代様でございますか? まぁ、一言で言うとバックレですな」
萬奉がハッハッハッと笑う。
「バックレ!?」
「やや〜、ですから大急ぎで三百十一代目となる貴方様をお招きしたのでございますよ〜!」
(なんじゃそれ!!)
先代天照、なんと迷惑な御仁であろうか。つい先程あんなに大袈裟な例を引き合いに神の重要さを語っておいて、代替わりがそんなんでいいのか。いろいろと突っ込みたいところだがバックレが可能というならば──。
「私帰っていいかな」
昨夜飲み散らかした部屋がそのままだし、転職活動もしなければならない。一年半の間に職を三つも転々としていれば採用のハードルは高いだろう。
「やや~、おすすめはいたしませんな〜。神位の拒否や逃亡はこれまでに幾人も例はございますが、まぁその先の生に幸福が訪れることはございません」
「え?」
「天照大御神は天地両界で祀られる神々の最高位に位置するお方です。逃亡はもとより、その神位を拒絶することなど言語道断とお考えの神は多くおられるのですよ」
ここは八百万の神が住まう高天原。神々の怒りを買っては恐ろしいということらしい。
琴音の背中に冷たいものが一筋流れる。
まだ二十代前半で人生これから。この先一切の幸福を辞退した人生を歩むと思うとぞっとする。先の幸福は願いたい。
(あれ? 待ってよ?)
琴音ははたと気づいた。
「私もしかしてもう一生帰れないってこと?」
神位の拒否や逃亡が許されないとはそういう事ではないのか。
しかし、萬奉はこれには首を振った。
「やや〜、そのようなことはございません。八百万の神がお認めになれば譲位は可能でございます」
譲位後は再び地上界に戻り暮らせるという。
(う〜ん……)
ここでしばしの間働くか、生涯の幸福を失うか───首を捻り頭を悩ますこと数十秒。
琴音は大きなため息をひとつ吐き、目の前の小男を見据えた。
「わかった、やるよ。私はどうすればいいの?」
「はい〜! ではさっそく、三百十一代目天照大御神として高天原の統治をお願いいたします!」
萬奉は勢いよく扇を広げると咳払いをひとつし、声高に言った。
「天照大御神の最も大切なお勤めは、天地の安寧守護でございます」
日夜高天原で起こる出来事や下された決定は地上界に多大な影響を与え、地上界の人間の行いや八百万の神々を拝し捧げられた祈りは高天原の政に直結する。そうやって両界は影響を及ぼし合い、対のように成り立っている。
だから、神々のほんの諍いすらも地上界の綻びに直結しかねない。
よって、公正に統べる者が必要なのだそうだ。
「天照大御神は古より八百万の神の最高位に位置し、所願成就の神として天地より祀られております」
太陽神である天照は太陽のごとく万物すべてに光を与え包み込む存在であるとされ、所願成就といってあらゆる願いを聞き届けることを求められるのだという。ここ、高天原においても。
(重い……)
小学生の頃に学級委員を務めたことはあるが、みんなのリーダーなんて大役琴音にはてんで経験がない。それに、社会の厳しさを前に転職を重ね、どんどん同世代に引けを取っていく空っぽな人間だというのに……。
天地を統べるなど大それた役割など務まるわけがなかろう。
(こちとらどんだけ自信喪失中だと思ってんの)
けれど。
「これからは貴方様の番なのですよ」
琴音を見つめる萬奉の目はすでに、仕えるべき主への熱情で満ちていた。