二十三話 八咫烏
「八咫様のご紹介と、竜神との仲介のお願いをしなくてはなりませんな〜。務めが落ち着かれましたらお声がけください」
朝の挨拶のあと開口一番にそう告げられた琴音は今、一通り予定の務めを終え、神席の朱の座布団に座り何やら準備が進む様子を眺めている。
「少々お待ちくださいませ〜。すぐに整いますゆえ」
いつも通り朗らかに言った萬奉は、下段へと続くわずか三段の階段を「ほっ、ほっ」と慎重に降りていった。
どうやら最近少し膝が痛むようで、琴音は桔梗が薬神に良い薬を調合してもらえないかとこぼしていたのを思い出す。
「海老根、良いぞ」
「はい」
萬奉の合図で上段袖に控えた海老根が開閉器を押す。萬奉の足元、一メートル四方ほどの床板が開き、随所に金彫りが施された朱漆の豪奢な止まり木がせり上がってきた。
「わぁ〜!」
「八咫様はそれはそれは古より重宝される天照大御神専属の神使でこざいます〜。こちらにお止まりになられますので、やや、天照様どうぞお呼びに」
「え? 呼ぶって……」
「はい〜」
「どうやって?」
萬奉はしばし目を瞬くと、扇を広げて一層愉快そうに笑った。
「やや〜これはこれは! 私としたことが肝心なことをお伝えしておりませんでした〜!」
ハッハッハッと体を揺らすが、琴音からすればまたである。
(なにが私としたことが、なんだか)
この様子ではまだ聞かされていないことがあってもおかしくない。
「では天照様、こちらへ〜。八咫様をお呼びする方法ですが、そちらの石笛を吹くのでございますよ〜。中央の翡翠がそうです」
縁側へと誘導された琴音は萬奉の扇が示す先、自らの首に下がる勾玉飾りを手に取って見た。たしかに中央の石には小さく丸い吹き穴がある。
「これ石笛だったんだ。すぐに吹けるもん?」
「多少のコツは要りますが難しいものではございません〜。穴に唇を合わせて息を吹き込んでみてください」
「わかった──」
「天照様!」
横から伸びた細腕に手首を捕まれ、驚いた琴音はその腕先に続く顔を見る。
海老根は大きく目を見開き、安堵の息をついた。
「天照様、練習はありませんよ。吹かれましたらばすぐに八咫様がいらっしゃいます」
「え、ぶっつけ本番なの?」
「はい。八咫様は音を聞きつけていらっしゃいますので」
琴音は小刻みに頷き理解を示す。そういうことは先に言って欲しい。やはり萬奉に主導権を任せるのは危険だ。
石笛を見つめ、軽く二度ほど鼻から深く空気を吸って吐いた琴音は改めて側近のふたりと視線を合わせる。
「じゃあ、いきます」
石笛に唇を合わせる。吹き込まれた息はたどたどしく震え、澄んだ高音が長細く鳴った。
目元に手をかざし空を見上げる萬奉と海老根に倣い、琴音も晴れ渡る空を見上げる。
ほんの少しの間の後、萬奉が声を上げた。
「や、いらっしゃいましたよ」
「え、どこに───」
あそこです、と扇の先が示したのは燦々と照らす太陽。その光の丸に黒点が見えたかと思うと急速にそれは大きくなり、まさに神速で滑空してきた。琴音の目が光に眩む間に戸口を抜け政室へと飛び込んだそれは、ふわりと大きく羽ばたいて止まり木へと降り立つ。
ぞわり、と琴音の全身の毛が逆立った。
(う……わ)
想像していたカラスとはまるでちがう。全長一メートルは優に超えるだろう巨躯には三本脚が生え、止まり木というわずかな面積でその凛々しい体躯を支えている。
しかし、琴音が驚いたのはその外見だけではなかった。
『お初にお目にかかるな、我が主よ。そなたの即位を祝おう』
(え──?)
琴音は思わずこめかみに手をやる。
八咫烏は話すがその口は閉じたままだ。なのに、声が脳内に直接響いてくる。
八咫烏はその黒々とした目で琴音を見た。
『我が主、三百十一代目天照大御神よ。何用で我を呼ばれた』
「我が、主……?」
響く声に慣れず、言われた言葉をただ反芻するしかできない。
そんな琴音を心配そうに海老根が支え、萬奉が顔の前で扇を振った。
「天照様、大丈夫でございますか〜?」
「萬奉、この声なに……?」
琴音は呆然と呟く。
「これは心声と言いまして、八咫様は心の声で話されるのです」
「心声?」
「はい〜。天照様はいつも通りにお話ください」
「わかった……」
琴音は恐る恐る八咫烏を直視した。想像を超える異形を目前にすると人はこうも体が硬直するらしい。見透かされるような漆黒の目とその巨躯に生理的に片足が引かれる、
『烏は苦手か、我が主』
「いや、そういうわけでは……」
『そうか。久しいな、萬奉。付き巫女海老根、そなたも変わりないか』
「お久しゅうございます八咫様〜」
「変わらずやっております、八咫様」
低く重みのある声で話す八咫烏が首を振り体を揺り動かす。
そんな至極鳥らしい動きにでさえ高貴な威厳が混ざり、琴音は力なく唇を開いてその様子を見ていた。
(あ……)
そこでふと、琴音は一枚の絵を思い出した。高天原に来た日の夜に読み漁った本に描かれていた、大きなカラスが誰かを先導する挿絵──。
(あの絵のカラスは八咫烏だったのか)
琴音は勇気を出して、震える声で八咫烏を呼んだ。
「あのっ……八咫って呼べば、いいんでしょうか……?あなたが描かれている絵を本で見ました」
『ああ。我らの祖先が葦原中国で天皇とやらを案内したとされる絵だろう。我ら八咫烏は導きの神であり、太陽の化身とされている』
「太陽の化身……。だから天照専属の神使なんだ……」
『そういうことだ』
八咫烏が趾で止まり木を掴み直す。艶やかな羽毛が照明を受け、美しく黒紫に煌めいた。
『それで、如何用で呼ばれたのだ。我が主よ』
「えっと……今日は」
琴音はチラと萬奉を見る。
頷きに背中を押され、琴音は胸元で拳を握り切り出した。
「八咫、神罰のことは聞いていますか?」
『ああ。耳にしている』
「実は竜神のご意向を伺うため、八咫に仲介を頼みたいと思っています。お会いしたいと伝えていただけますか……?」
『承知した。追ってまた知らせよう』
「お願いします」
八咫烏は頷くようにわずかに首を下げ、戸口の外を見る。一瞬姿勢を低くしたと思ったら両翼を大きく広げて羽ばたき、一本の羽を落として颯爽と戸口を抜けていった。
「あっ!」
琴音は縁側に駆け寄り身を乗り出すが、あっという間に天高く飛翔した八咫烏はもう太陽の黒点となっている。
「いっちゃった……」
まさしく風のように来て去っていった巨大な烏に夢でも見ているようだと、琴音は眩しさに眩んだ瞳を閉じて瞼の裏に映る赤を見た。
高天原の風が優しく頬を撫でていく。
直視した光源に目を休ませる琴音の耳に萬奉の穏やかな声が響いた。
「天照様、これを」
開いた目に皮の厚い手に乗せられた一本の黒い羽が映る。先程八咫烏が落としていったものだ。
「元来烏の羽には運気上昇の力が宿っているとされております。八咫様の羽ともなればその力は千倍、万倍にもなりましょう〜。ぜひ首飾りにお付けになられてはいかがでしょうか」
「運気上昇……」
高天原に来たのはクビ同然になったからだ。前の仕事もその前の仕事も散々で、ここに来て今度は神罰というとてつもない危機が待ち受けようとしている。
「うん、お願いしようかな」
琴音は首から勾玉飾りを外す。少しでもご利益があればいいだなんて神の身ながら祈り、手を差し出す海老根へとそれを渡した。