十七話 雨 後編
並びい出た琴音と月読を見て、兎神は虚をつかれたように目を見張る。だが、すぐに片側の口角を釣り上げ意地悪く笑った。
「これはこれは天照様じゃねぇか。お嬢ちゃんはもう寝る時間だぜぇ?」
(やっぱりー!)
嫌な予感は大抵当たる。危惧した通りの姿を前に琴音のこめかみはすでに痙攣を始めた。
「ほんと、なんでこいつが月読の神使なわけ? 月読がもったいない!」
「はは、月と兎は日本では縁深い仲だからね。口と態度は悪いけど、大将はよくやってくれてるよ」
「ほんとに〜?」
琴音と月読が顔を寄せ合い話す様子を兎神はにやにやと見ている。
天照大御神である琴音をただの小娘としか思っていないような横暴で皮肉屋な兎神には、ぺったんぺったんと餅をつくより笑いながら人の傷口に唐辛子味噌を塗りたくる姿の方が想像に容易い。不躾にも程がある性格を思うととても大人しく誰かの下に就くようには見えないのだが、月読が言うのであれば任務はきっちりこなすということか。
(はっ! むかつく!)
琴音は強く鼻息を吐き、あくまでもすまして言った。
「ちょうど居合わせたので私も同席させてもらいます」
「ほーん? 天照様の御前で報告ができるたぁ嬉しいこったね」
(よくも微塵も思ってもいないことをいけしゃあしゃあと)
口を縫い付けてやろうか、と思うがこれでも最高神であり二十歳を超えた大人のレディだ。こちらが反応するから付け上がる。余裕を見せつけてやればいい。
琴音はふん、と鼻高々に肩にかかる髪を後ろへ払ってみせた。
(あれ、そういえばたしか神使って……)
以前兎神は言ったはずだ。神使として動くのは基本は侍従たち。神が動くのは特例だと。
(てことは、やっぱりこの話は超機密案件ってことだ)
月読は付き巫女に座布団を持ってこさせ、上段の神席へと腰を下ろす。琴音もその隣に座った。
「大将、さっそく報告を始めてくれ。姉さんはまずは聞いていて。追って説明するから」
「承知」
「わかった」
兎神は侍従に肘掛椅子を持ってこさせると、そこに足を組みふんぞり返る。どうせ毎度こうなのだろう。月読は特に気にする様子はない。
「結論から言えば、まぁ大方月読様の読み通りでしたぜ」
(月読様て! 敬語て!)
自身との扱いの差に琴音は兎神を睨めつける。最高神や神使として仕える上神を相手にここまで我を貫き通せれば、無礼も拍手ものの一級品だ。
「そうか。下の様子は?」
「気づいた国津神たちが騒ぎ始めてまさぁ。ありゃー早いとこ抑えねぇとまずいことになりますぜ」
「ふん……。出雲にも行ってくれたんだろう? あちらは何て?」
「まだなんとも。とりあえず国津神たちに月読様のご意向は伝えて回ってますが、これ以上になれば大した抑止力にはならねぇな。須佐之男様がお留守ってんじゃもっと上を出さねぇと」
そこで兎神は、態度に反して大変可愛らしいつぶらな瞳を琴音に向ける。
「私?」
しかし鼻で笑い、やれやれと演技ったらしく首を振った。
「まっ、三百八代目の婆あならまだしも、この嬢ちゃんじゃ何にもならねぇかもしれませんがね」
「大将、あまり姉さんをからかったらだめだよ」
(こいつ……!)
窘める月読を意に介さず兎神は枝葉を咥え歯をしーしーやっている。
表向き受け流した琴音は質問してもいいかと小さく手を上げた。
「ねぇ、国津神ってたしか地上の神の総称だったよね?」
「そうだよ、姉さん。地上界で誕生した神や、天孫降臨の後地上に残った神々のことを言うんだ」
「国津神たちはなにをそんなに騒いでるの?」
「うん。姉さんは最近まで地上にいただろう? ここ数年の異常気象についてどう思う?」
「どうって───」
どんどん暦が狂っていく気がするし、会話の中でも「四季はなくなった」と頻繁に揶揄が飛び出す。
特に───。
「雨の降り方は異常かなぁ」
まるで亜熱帯のスコールのように短時間での激しい降雨が年々目立つ。それによる川の氾濫や土砂崩れなんてニュースもよく見るようになったし、数年ですっかりそれに慣れた感すらある。
「そうだよね。ここで姉さん、さっきの質問の答えだよ。神司共鳴って言えばわかる?」
(あ……!)
先程の質問───神は自然を操れない。なのにどうして天岩戸神話が成り立つのか。
読んだ書物の記述を思い出した琴音は、点と点が繋がる感覚に鳥肌立った。
「国津神たちが騒いでるのって……『神がお怒りだ』って、そういうこと?」
兎神が「なんのこった」という目で肘掛に頬杖を付き琴音を見ている。
「そうだよ、姉さん」
月読は射抜くようにまっすぐ琴音を見つめる。瞳の奥に焦燥が顔を覗かせていた。
「神罰が下ろうとしているのかもしれないんだ」
神司共鳴───神と司る対象が互いに強く作用し合う事象をそう呼ぶ。天岩戸神話で言えば、悲しみ荒び岩戸に籠った天照の心理状態が太陽に作用し、地上は闇夜に包まれた。神は司る対象と同一ではないが、一方の状態はもう一方に多大な影響を与えるのだ。
(神罰……)
月読の放った言葉に琴音は息詰まる。それは文字通り神が与える罰だ。古代より人間は降り注ぐ不幸や自然災害などの制御できない強大な力を<神の怒り>として恐れひれ伏してきた。
「自然現象が先か、竜神の精神不安定が先か……ここ数年の天候や竜神の様子を見るに、相互作用が高まり合いすぎてしまった結果と読むのが正しいかな」
「竜神は何をそんなに───」
琴音がぽつりと零した言葉に兎神の耳がぴくりと動く。
「何をそんなに怒ってんのかって? 他人事だなぁ人間様の嬢ちゃんよぉ」
「大将。僕も人間だよ」
立ち上がりかけた兎神を月読の一声が制する。
舌打ちをしふてぶてしく座り直した兎神は、不貞腐れるようにそっぽを向いた。
「信奉心の衰退に人間の愚行……<神の怒り>の多くはそういったものへの神罰なんだよ、姉さん」
「人間の愚行?」
信奉心の衰退は容易に想像がつく。年々無神論者が増え、神仏の扱いは粗雑になっている印象だ。だが、人間の愚行とは───。
「月読様。俺ぁ竜神の旦那の怒りもご最もだと思いますがね」
頬杖をつき、よそを向いたままの兎神が口を挟んだ。
「人間共の声は届くのにこっちの声は届かねぇってんじゃ平等じゃねぇ。神は人間のお抱えじゃねぇんだ。俺もそうですけどね、虫神や魚神にしても、俺たちには本来人間共よりも聞いてやりてぇ声があるんでさぁ。人間の過ぎた我が物顔には神罰のひとつやふたつ下っても甘めぇもんだと思いますがね」
兎神はぴょんと立ち上がる。枝葉を咥えたまま数秒じっと月読を見て、また口を開いた。
「ま、とにかく早いとこ手は打った方が良い雲行きなのは間違いねぇぜ月読様。三貴子様出揃ったところで太刀打ちできねぇなんてことになりかねねぇからなぁ」
そう言い捨て、礼のひとつもせずに背を向けて兎神は扉口へと向かう。
外で控えていた兎侍従が慌てて飛んで来ると琴音と月読に頭を下げ、椅子を抱えて足早に主の後を追っていった。
「清々しいなぁ大将は」
月読は可笑しそうにその背を見送る。琴音に向き直ると、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんね姉さん。何も知らせずに動いていて。姉さんは即位間もなかったし、ここのところ天照の引き継ぎが不安定だったから、確証を得られるまでは何も伝えない方がいいと思ったんだ」
「うん……」
「これから忙しくなるよ。大変なのは姉さんだ。頼ってね、僕たち弟を」
(たち?)
「ああ! そういえばもうひとりいたね、天照の弟」
「うん。さっきの話にも出ただろう? そのうち会えるよ」
言葉を切った月読は真っ直ぐに前を見据える。
琴音は横目に眺めるが、月白のごとく青白い美しい横顔からは何も読み取ることができなかった。
「……」
「……」
互いに黙ったまま一体何分が経ったのか───。
「あーあ、参ったなぁ」
月読は天井を仰ぎ、ぽそりとぼやく。鼻から長く息を吸い吐くと、立ち上がり透き通るような白手を差し出して琴音に向かって微笑んだ。
「そろそろ姉さんは休まないとね」
「……そうだね」
琴音はその手を取り、月読に続いて政室を後にした。
格子越しに月光が降り注ぐ月宮の廊下をふたりして静かに歩く。
(神罰か……)
大変なのは姉さんだ、と言われても今後が全く想像つかない。
幼い頃から度々耳にしてきた「神がお怒りだ」の台詞。窓の外を見て、新聞を見て、テレビ画面を見て人々はその台詞を口にしてきた。その視線の先はどんな光景だっただろうか───。
飛車雲が待機する乗り場が見えた時、呟くように月読が口を開いた。
「姉さん」
月夜の凪いだ海のような落ち着いた声は、その時ばかりは暗い海の底の唸りのように聞こえた。
「神罰が下されるとしたら、きっと未曾有の大災害になるよ」
◓◑◒◐
琴音を見送り主殿へと戻った月読はふらりと寝台へ倒れ込む。腕で目元を覆い、照明の暖かい光を遮った。
(ふぅ。心労、かな)
今日は比較的調子が良いと思ったが、極秘で動いてきた日々と今夜の帰結がじわりじわりと祟ってきたようだ。重く鼻息を吐き、敷布団に体を沈める。
妖しく美しい月光にあてられるのか月読命の魂の縁族には体の弱い者が多いといい、例に漏れない月読も寝台に起き上がって政務を行うことが多い。さすがに来神の際は政室へと赴くが、本来執務の場である政室を留守にしがちなのは情けなくなる。
「少しお休みになられますか。ご無理はお体に障ります」
水差しと薬神より賜った妙薬を盆に乗せてきた付き巫女が静かに声をかけた。
「そうさせてもらうよ。一刻ほど経ったら起こしてくれないか」
(調査結果をまとめて、資料に起こさないといけない)
話は想定の最悪解の見通しだ。これ以上は正式な報告のうえ各政務部総出で対処するべきだろう。
「ごゆっくりお休みください」
付き巫女の凪いだ声と扉が閉じる音が遠く聞こえる。
この後の動きを練りあげようとする思考を強制的に遮断して、月読は目眩に揺らぐ意識を深淵へと沈めた。




