十六話 雨 前編
夕餉も入浴も終えあとは寝るだけとなった琴音は萬奉の執務室へと向かう。朝が早い天照の侍従だというのにいつも遅くまで明かりが消えないようだが、一体何時間寝ているのだろう。
「萬奉! 飛車雲手配して!」
勢いよく開いた扉に飛び上がった小男は舞い散る書類を飛び跳ねるように拾い、目をまん丸くして琴音を見た。
「やや、天照様! 突然いかがされたのでございますか〜!」
「月読のとこに行くの。聞きたいことがあって。萬奉にも着いてきて欲しいけど───忙しいよね、見るからに」
机にはなぜかまた高々と書類の山が築かれている。
「減ってきてなかったっけ?」
「ややや〜! それがここにきて各政務部からの報告書やなんやらがどっと増えまして! 一体どうしたものやら〜」
相変わらず疲れた顔は見せないものの、蛙顔には苦笑が滲む。
どこか取り繕うようなその笑みに琴音は違和感を覚えた。
「ふーん? 海老根に言って割り振り見直してもらう?」
「やや! 大丈夫でございますよ〜! 一時的なものでございますゆえ〜」
「わかった。あんまり無理しないようにね? じゃ、行ってきます!」
「はい〜、お気をつけて〜」
萬奉の執務室を後にした琴音は侍殿へと足を運ぶ。
当直の巫女に海老根へと取り次いでもらい飛車雲の手配を頼んだ琴音は、主ひとりでは行かせられないと引かない海老根にそのまま月宮へも同行してもらうことにした。
◓◑◒◐
「やぁ、姉さん」
「お疲れ様。これ今日の交替報告書ね」
「ありがとう」
停車場に海老根を待たせ宮の主の寝室へと通された琴音は、書類を渡す際に触れ合った指の冷たさと月読の青白さに顔をしかめる。
「体冷えてない? 今日は寝てなくていいの?」
「冷え性なんだ。平熱も低いしね。今日はそこまでじゃないんだよ、気圧にやられてるだけなんだ」
「気圧?」
「また地上界は雨なんだよ。最近ずっとこうなんだ、竜神がご立腹でね」
(ご立腹って)
ここに来た目的を早々に切り出してくれたのでありがたい。勧められた椅子に腰掛け、琴音はさっそく月読に尋ねた。
「なんで?」
「え?」
「なんかあるの?」
月読は目を瞬かせ、その顔に微苦笑を浮かべる。
「何か聞いた? 姉さん」
「聞いたってわけじゃないの。ちょいちょい神から竜神がどうの雨がどうのって言われるから気になって」
「そうか。姉さんは竜神とはもう会った?」
「ううん、まだ」
機会がない以上に、竜神は姿を現すことをあまり好まないのだと聞いた。宮である岩山の洞穴にいることが多く、出てきても常に雲がかかる岩山上空を飛翔するか滝壺深くに潜っているようで、遠くから姿を拝むことすら難しいのだ。
「そうだろうね。少し気難しい神だから」
「気難しいって?」
「うーん、古き良き考えの持ち主ってところかな。神としてその考えはとても大切なんだけど───」
戸が叩かれ、付き巫女が盆を抱えてくる。お礼を言うように軽く手を上げた月読に付き巫女は盆を預け、去っていった。
月読は側卓に盆を置き、紅茶茶碗へとお茶を注ぐ。
「今日は僕が入れるよ」
「?……ありがとう」
月読は蜂蜜壺からとろりと流れる黄金色の蜜をすくい、紅茶茶碗に入れた匙をゆっくりとかき混ぜてそれを溶かす。
その動作ひとつひとつが甘く儚い色香を放ち、今日も今日とて目がくらみそうになった琴音は思わず目を擦った。気のせいか背景にダイヤモンドダストのような無数の煌めきが見える。
「姉さん?」
「あっううん、なんでもない。今夜もお美しい限りで……」
「はは、何を言ってるの姉さん」
置かれた茶碗を手に取り、琴音は紅茶をひと口含んだ。
(もしかして今、さりげなく立ち入らせなかっ……た?)
軽く上げられた月読の手は入室を制したように見えた。海老根や桔梗、牡丹ら三巫女を見ていればわかる。付き巫女が主に来客の給仕を任せて離れるなどありえない。神に仕える者としてあってはならないことだ。
ということは───。
(聞かれたら困る話ってこと?)
口元に留めた紅茶茶碗で怪訝な顔を隠し、琴音は話の先を促した。
「それで、なんで竜神はご立腹なの?」
微笑んだ月読は自身も向かいの椅子に掛けて紅茶で喉を潤す。
「姉さんは竜神が何を司るのか知ってる?」
「え。んー雨を降らすから、そのまんま雨?」
「惜しい、水だよ。神にも序列があるのは知ってるだろう? 姉さんも僕もそうだけど、自然を司る神は高位に位置するんだ。だから、竜神の神位は僕たちに近い。かなり上なんだよ」
「うん」
「竜神はかなり長く在位してる神でね。もう何百年になるかな。気難しいって言ったのは、長く即位する高位な神ほど天地を愛し、秩序や礼節を重んじるからなんだ」
「へぇ。……つまり?」
「昔から言うだろう? 『神がお怒りだ』って」
(んんん?)
的を得ない話に琴音は首を傾げる。
だが、月読は優雅に茶碗を傾げて微笑むだけだ。
(んー?)
この遠回しな口ぶりは話すつもりがないのか、それとも───。琴音は押せる線を探るように次の質問を口にした。
「その『神がお怒りだ』は地上の雨続きとどう繋がるの? だって竜神の意思で雨を降らせてるわけじゃないでしょ?」
そう、高天原の雨は降雨申請のうえ竜神によってもたらされるが、地上の雨はちがう。天照大御神である琴音が太陽を操ることができないように、神は決して自然そのものを操るわけではないのだ。
そこには神と司る対象は同一ではないという絶対の真理が存在する。
「その通りだよ、姉さん。けれど、それだと始祖・天照の<天岩戸神話>が成り立たなくなるだろう?」
「あ。……けどまぁ、そこは神話だから」
「だめだよ、姉さん。高天原において神話は実際にあった歴史だ。とはいえ、始祖神の頃には口伝しか手段がないからね。地上の歴史と同じく推測や事実とは異なる伝承もあるだろうけど」
月読は視線を外す。色素の薄い瞳は戸口の方を見ていた。静かに紅茶茶碗を置き、再び琴音を見る。
「姉さんにひとつ問題。天照は太陽を操ることはできないのに、どうして天照が岩戸にこもったら世界から光が消えたのでしょうか?」
そのいたずらな表情はどこか商神の挑発を彷彿とさせた。
(えーっとなんでだっけ……読んだ気がするんだけど……。たしか、きょ……ちがう、し……しん……)
琴音は頑張って頭の中をほじくり返すがもはや出だしすら曖昧だ。やはり一夜漬けであの量では二割も定着してくれない。
琴音が考える間に月読は立ち上がり、戸口へと向かう。
諦めて音を上げようと開かれた琴音の口は、月読が唇にかざした人差指によって閉ざされた。
月読が扉を開けると、ちょうど戸を叩こうと軽く握った拳を所在なく上げた驚き顔の付き巫女が立っている。
二言三言言葉を交わし、月読は琴音に向き直った。
「図ったようなタイミングだね。姉さん、少し付き合ってくれないか」
◓◑◒◐
「答え合わせをしようか、姉さん」
「え?」
琴音は月宮の廊下を月読に付いて歩く。ゆっくりと歩を進める足に反して月読の口調はどこか急いているような気がした。
「さっき姉さんが言いかけたことだよ。実はずっと探らせてたんだ」
「探らせてたって、竜神を? 誰に?」
「僕の神使だよ。今から会える」
主殿から続く廊下の先に扉が見えてくる。政室の上段へと続く扉だ。この辺りの造りは天宮とさして変わらない。
なぜか嫌な予感を感じ、琴音は月読へと尋ねた。
「ねぇ、月読の神使って誰なの?」
月読は立ち止まり、夜空に浮かぶ白銀を指した。
「月といえば、の動物だよ」
そういえば今夜は満月だ。さすがは高天原、近く大きい月は模様まではっきりとよく見える。それはまるで───。
(まさか……!)
「どうぞ」
扉を前にした琴音は襟元を直し、前髪を撫でる。
(今度は言い負けないんだから)
憎たらしさに歪みかかる表情筋を全力で抑え気持ちを作った琴音は、月読に促されるままに扉を抜けた。