十二話 紙鳥
一羽、また一羽と光の中から出でた鳥は、およそ鳥の羽ばたきとは思えない羽音を響かせながら高天原の空を飛翔する。
ただまっすぐに、迷うことなく目指すは神の宮。
願いを載せて飛ぶその鳥の名を天上界に住まう神々はこう呼んだ──。
<紙鳥>と。
◓◑◒◐
「「「おはようございます」」」
「おはようございま〜す!」
高天原で迎える幾日目かの朝。
まだ太陽が昇りきらない早朝から落ち着き、穏やかで、か細く、元気な声たちに琴音は今日も起こされた。
朝の小用を済ませ、磨きあげられた水滴ひとつない大理石の洗面台で洗顔し軽く歯を磨いたら、頭の起動を待つ間に主室で鈴蘭姉妹が運んでくれた朝餉を食む。
まさに一汁三菜の垂涎ものの<ご朝食>は六畳洋間のワンルームで独り暮らしをする身にはよほど縁のない立派な御膳で、湯気立つ白米は甘く口内を満たした。具材の色彩豊かなだし香るお吸い物を飲み干し、琴音はほっと息を吐く。
再度歯を磨き主室へ戻ると、付き巫女たち五人が各々手に衣や装飾品を持って待機していた。
今日もまた優美な貴女に仕立て上げられた琴音の唇に、桔梗がさっと紅を引く。
「今日も麗しいですわ、天照様」
「さぁ今日も頑張りましょう〜!」
宝冠に意識を釣られるように琴音は背筋をしゃんと伸ばす。意気揚々と背中を押す牡丹にされるがまま政室へと歩を進めた。
これが高天原に来てからの琴音の朝のお決まりになっていた。
政室上段の定位置の神席、朱の座布団に座した琴音は、朱漆の文机に折り重なる書類と上段を囲う玉垣に止まった鳥を見るなり顔を曇らせる。
「今日も多いね」
「これが神の存在意義というものですよ〜!」
「そうだけどさぁ」
「百八某脳といいますからね」
「まぁね」
鳥たちは羽ばたき、次々にその体を開くと一枚の紙となり文机に積み重なる。まるで魔法のようなそれは紙鳥というのだと教わった。
開け放たれた政室の扉や窓からは一羽、また一羽と紙鳥が舞い込んでくる。
琴音は開かれたばかりの宙に浮く一枚を手に取った。
「……」
「ひたむきで胸を打たれますね〜!」
牡丹が横から覗き込む。
何が書かれているのかというと<祈願>だ。
「海老根、今日の予定は?」
「午前中に|視察が二件と会談が一件。午後は祈応と事務処理です」
海老根が調整してくれた予定表は今日もびっしり詰まっている。
「飛車雲は待機済みです」
(ほんと)
海老根はできる巫女だ。痒いところに手が届く仕事ぶりで、政務補佐を任せたがその働きは神職と謙遜ない。
お礼を告げ、琴音は牡丹を連れて出た。
乗り場に行く前に萬奉の執務室に立ち寄る。
効率改善のため神職の再教育が目下の課題となった小男は朝からせかせかと働いていた。
「やや〜、天照様! 今日も忙しいでございますな〜!」
萬奉は執務室に居た神職たちになにやら告げると部屋から出す。
以前見た時に比べ倒壊しそうな書類のかさは減っているようなので、無駄に回ってくる数は順調に少なくなってきているのだろう。
「午前中は出てくるから、なにかあったら無線で連絡してね」
「はい〜、承知いたしました」
「それと、昼過ぎから祈応なの。また見てて欲しいんだけど、良い?」
「わかりました。では、空けておきましょう〜」
しっかりやるのだぞ、と牡丹に念押しする萬奉に見送られて部屋を出る。
「だ〜いじょうぶですよ〜! にひひ」
扉の閉じ際、お転婆な小猿はそう言い残して首を引っ込め鼻歌交じりに琴音の後に続いた。
◓◑◒◐
「これが全部願いだなんてね…」
琴音は飛車雲に穏やかに揺られながら、脇をすり抜け飛び交う紙鳥たちを眺める。
「お〜! 次から次へと飛んで来ますね〜!」
牡丹が指す先に、遥か遠くからでも視認できるほど大きな淡い光を放つ門がある。高天原の最北端にあるそれは<祈りの門>といった。
次々と祈りの門から出で来る紙鳥たちは、散り散りになるとそれぞれの目的の宮へとまっすぐに向かっていく。祈願された神、または祈願を司る神の元へと飛んでいくのだ。
では、すべての祈願が紙鳥になるかというと実はそうではない。完全に他力本願の祈りや都合の良い咄嗟の神頼みなどは、虚しくも神には届かない。
(叶わないわけだよね)
三百十一代目の天照となって知った驚きの事実だが、都合良く神の甘い汁をいただこうとする者に加護を与えられるほど神は暇ではないのだ。サラリーマンに張り合えるほど忙しい。
紙鳥に記されているのはひたむきな努力や強い思いが見える祈願だ。そうした祈願は天へと昇り、祈りの門を通って紙鳥となる。
「天照様知ってますか〜? 『かんながらたまちはえませ』って言葉!」
「なに?それ」
「『神の御心のままに委ねます。豊かな魂へと守り、お導きください』って意味なんですよ〜! 最近はあまり見かけなくなりましたけど、昔は紙鳥のほとんどがこの言葉で締め括られていたそうです」
琴音は振り返り、天宮へと向かう何羽もの紙鳥を見る。
それらがすべて自分の御心とやらに委ねられたものだと思うと喉になにかがつかえたような、なんとも言えない感情になるのだった。
◓◑◒◐
政室の上段、座する琴音が背を向ける御扉の先に宝鏡は安置されている。
歩を進め八咫鏡の前に立った琴音は、息を吸って吐いた。
「始めて」
それを合図に鏡の両脇に立った海老根と萬奉が鏡面が琴音に向くように鏡を返す。
琴音を写した鏡面はまるで太陽光を反射するかのように光り輝いた。
琴音はその光に手を伸ばす。すると、小さな陽の欠片がその手に移った。
(これを、こう…)
琴音と鏡の間に置かれた机には祈願書が積み重なっている。その上の一枚に琴音はそっと陽の欠片を落とした。
一瞬ぽうっと温かい光を帯びた祈願書はまるで折り紙のように紙鳥へと姿を変えると、室内に備え付けられた裸木の枝へと静かに羽ばたく。
『営業を頑張った結果、大きな契約を勝ち取れました。上手くいくようお力添えください』
『8年妊活を頑張りました。もう年齢的にも経済的にも最後になりそうです。次の検査で良い報告が聞けますように』
『頑張って自分磨きしたけど玉砕しました。良い御縁がありますように』
『これから収穫を向かえます。今年は試行錯誤の甲斐あって良い実がなりました。悪天候が続いております。どうか天候をお恵みください』
祈願には願主の人柄や人生、そして苦悩の深さが滲み出る。
(この人に加護を……。頑張れ。頑張れ)
その重みに怯みそうなりながらも、琴音は応援を込めて天照大御神の陽の欠片をひたすらに落とし続けた。
机上の祈願書の山が丘になり、一枚また一枚と紙鳥が羽ばたく。
ようやく最後の一枚を終えた琴音はふーっと息を吐き、手の平で額の汗を拭った。脇にじっとりと湿りを感じる。
目の前の裸木の枝々には数え切れないほどの紙鳥が群がっている。
「いってらっしゃい」
琴音の言葉を受けて海老根が壁の開閉器を操作すると、屋根の天扉が開かれた。
紙鳥たちは一斉に羽ばたき、天扉から勢いよく飛び立っていく。祈りの門をまっすぐに目指した紙鳥たちは光の中を進むと目には見えない加護となり、願主の元へと戻るのだ。
「や、大変良くできておられましたよ」
「そう、かな」
萬奉と言葉を交わして琴音はようやく体の力が抜けた。
天照大御神としての、いや、高天原の神々の務めにおいて最も重要とされるのが祈応だ。
天照大御神の陽の欠片には、願主が未来に向かって力強く踏み出そうとする背中をそっと押す温かい力が宿っているという。
神の務めは人事を尽くした者に心を尽くして加護を授け、あとは見守ることなのだと教わったが──。
「かんながらたまちはえませ……か」
(私には重すぎる)
琴音はさっきまで陽の欠片を載せていた手の平を見つめ、握り開く。その手はじっとりと汗ばんでいた。