十話 兎と狸の因縁
(なにこれ)
琴音は眼前で繰り広げられる大変低レベルな争いに辟易していた。
隣の牡丹は慣れすぎて飽きたのか無線機で遊んでいる。
「海老姉ちゃ〜ん」
『なに、牡た…』
「海老姉ちゃ〜ん」
『なに、牡…』
「えへへへ、海老姉ちゃ〜ん」
『いい加減にしなさい!』
カチカチとつまみを切り替えてはおちょくるので、案の定海老根に怒られている。
現実逃避の癒しにそのやりとりを微笑ましく見つつ、琴音はもう一度火種のふたりに視線を戻した。
(私になにをしろと……)
当の火種はというと──。
「てめぇの指図なんざ受けねぇってんだよ!」
「おんどりゃ何を言っちょんかわれぇ!」
「ああん? 何度でも言ってやろうかこの狸じじい!」
「ぬぁにを!? このずる賢い兎童め!」
囲む侍従や琴音たちにはお構いましに最底辺の言い争いを続けている。
琴音はとりあえず兎侍従のひとりに声をかけた。
「あのー、なにやってるの? これ……」
「あっ、天照様……! これはお見苦しいところを申し訳ございません……!」
ふたりに気を取られていたらしく、琴音に気づくと恐縮しきりに頭を下げられる。
「なにが原因なの?」
「そのー、原因といいますか……。いつも通りの大変つまらぬことなんですが、お務めの最中に出会い、顔をご覧になったら腹が立たれるようで文句を言わねば気がすまぬと……」
(なんじゃそれ)
曲がりなりにも最高神である天照大御神がこんな喧嘩の仲裁に呼び出されるとは。外務を担うことになったとはいえ、いままではこれを萬奉がやっていたのだから同情せずにはいられない。
(大変だったんだなぁ)
蛙顔の小男も笑顔の下で苦労していたらしい。
「いつもは気が済まわれるまで皆放っておくのですが、今回は場所が悪く……」
兎侍従が伏し目がちに周りを見る。
遠巻きに腰に手を当て腕を組み、呆れ困る神職たちの姿があった。皆上下生成色の舞装束を来て、手には扇や鉾鈴を持っている。
どうやら舞習の最中に諍いを始めてしまったようだ。
ここは舞庭といって、祭儀を行う場所だ。正面の巨大なしめ縄が目立ち、まるで相撲の土俵のように俵で縁取られた円の中心には丸太が井桁型に組まれている。資料の記載によると丸太の直径は30cmは下らないはずだ。丸太の囲いの中には火焚き用の炉がある。
各々が務めのため舞庭にやってきて出会い、舞習───すなわち舞の練習中にも関わらず喧嘩勃発となったわけだ。
舞習も立派な務めである。神職は迷惑この上ないだろう。
(相手が神だから、より上神かその使いじゃないと止められないってわけね)
琴音は盛大にため息を吐き、火種に近寄った。
「あのー……兎神に狸神、落ち着いてください」
「「ああ゛ん!?」」
揃って威圧され後退したくなるが、怯んではだめだと言い聞かせる。
(私は天照……私は最高神……)
「あの、ここは迷惑になりますから……。せめて場所を変えるか終わりにしません?」
「ほぉ〜ん? 誰かと思ったら新しい天照様じゃねぇか」
ピンと立った耳にモフモフの体。平たい足で苛立たしげに地面を叩く白兎がつぶらな瞳で琴音を睨む。
途端、回し蹴りのごとき勢いで狸の尻尾が兎の顔面を強打した。
「おんどりゃ天照様に向かってなんだその態度は!不躾もいい加減にせんか!」
「んだてめぇ! やんのかこの間抜け狸!」
「間抜けたぁなんだこの阿呆兎め! 皮剥ぎ取られたくなきゃあ失せろい!」
「ああん? てめぇみたいな狸じじい丸焼きにしてやんよ!」
(もー!!)
間髪入れずにぎゃーぎゃーぎゃーぎゃーとうるさいことこの上ない。
琴音は強引に割って入り、ふたりを引き剥がした。
「うるっさい! とりあえず迷惑なので舞庭から出てください!」
「で? なんでそんなに仲悪いんです?」
双方の侍従総出で兎神と狸神を外庭へと押し出し、今は距離をとって座らせている。
琴音も石のひとつに腰掛けた。
「代々続く因縁ですよ〜! 天照様は因幡の白兎をご存知ですか?」
隣に控える牡丹が顔を背け合う二神に代わって答える。
「因幡の白兎って、たしかあれでしょ? 鮫の上を兎が走ったとかいう…」
突拍子もなく登場した神話の題名に拍子抜けするが、それなら琴音も曖昧ながら知っている。中学校の体育祭でそんなような名前の競技をやったはずだ。
「そうです、そうです〜! 兎が鮫を騙して海を渡ろうとするんですけど、うっかりバラしちゃうんですよね〜。それで、怒った鮫に皮を剥がされちゃうんですよ! そこに親切な神が通りかかって救われるっていうお話ですね!」
「へ〜」
狸神がぼそっと「信用ならん馬鹿兎め」と言った気がするが無視する。
「それですよ〜、因縁の原因!」
「は?」
「いつの代からかわからないんですけど〜、なんかのきっかけで不仲になった兎神と狸神は、神話を引き合いに『お前は信用ならん!』『いや、そっちこそ!』と代々罵りあいを続けているんですよ〜。ほら、地上界では狸は人を化かすといいますし!」
(くっだらな!)
神様がこうも世俗的で良いのだろうか。琴音は脱力して白目がちに天を仰いだ。
「こやつは代々の兎神の中でも特にタチが悪いんですじゃ」
狸神が立ち上がりヒョコヒョコとした足取りで前に出る。腰は曲がり、杖は僅かに震えている。琴音に一礼し、兎神を睨めつけながら続けた。
「はじまりは神使としての縄張り争いと聞いておりますが、なんでも狸神が兎神に謀られ貶められたそうな。歴史から学ばんと申しましょうか……っとに、こやつらには神たる自覚が足らんでいけません」
言われた兎神は足を組み鼻で笑い飛ばす。
琴音はまた聞き慣れない言葉が出てきたと思った。
「神使?」
「神のお使いをする動物のことですよ〜!」
また牡丹が解説してくれる。調子は軽いが、萬奉に巫女教育を施されたというだけあって神様関係の知識はちゃんと入っているらしい。
「お使いって、動物だって神様なんでしょ? 兎神に狸神っていうんだから……」
「なんも知らねぇんだなぁ、天照様の嬢ちゃんよぉ」
平足でペタペタと寄る兎神はいつの間にちぎり取ったのか口に枝葉を加えている。
「三百八代目の婆あは最初っからそんくらいの知識入れてたぜ?」
ニヤニヤとからかうような言葉に腹が立ち、琴音の眉間に一瞬力が入る。
それを見逃さなかった兎神の口角がくっと上がった。
「今度の天照様は青いなぁ?」
「だめですよ〜兎神の大将様! 天照様に失礼なこと言わないでください! 狸神の長老様も疲れちゃいますから座ってくださいね〜」
牡丹は姪か孫かのように二神に接する。三百八代目のお付き時に持ち前のコミュ力で懐に入ったようだ。
「天照様の嬢ちゃんが一番上にいるようにな、神にも位付っつーもんがあんだよ。俺ら動物はその下だ」
「神意を伝えるため上神に先駆けて地上界に赴いておったのが、いつしか神使そのものも神として祀られるようになったんですじゃ」
「神になった動物は、顔に紅紋が入ってるからすぐわかる。侍従らは今でも神使として出張ってるよ。特例ん時は俺らも行くがな」
確かに兎神と狸神の顔には侍従たちにはない隈取りのような紅い文様がある。それと、皆体色が白い。
(白は純真無垢で神聖な特別色)
琴音は資料の記述を思い出す。地上界では神秘的な存在とされるらしい神使に相応しい体色なのだろう。
(全然純真無垢じゃないみたいだけどね!)
「まぁ、喧嘩の理由はわかりました。けど、次からは周りの迷惑にならないところでやってもらえますか?」
こんなことで呼ばれてはこちらも堪ったもんじゃない。やらなければいけないこと、覚えなくてはいけないことが山ほどあるのだ。
抗議を込めて言わせてもらうと、狸神の長老は立ち上がり頭を垂れた。
「申し訳ない。こやつとは出来うる限り出会わぬようにしておるのですが……。さらに注意いたしましょう」
侍従が急いている。次の務めの時間があるようなので、琴音はその背を見送った。
杖を小さく震わせながら腰を曲げて歩く狸神の長老は、いったいどれほど長く即位しているのだろう。兎神との諍いはともかく、こんなぽっと出の新参天照にも敬意を持って接してくれる。
ヒョコヒョコと去りゆく曲がった背に、長きに渡り背負ってきた重責が見えた気がした。
「天照様の嬢ちゃんよぉ、即位の儀も歓迎の宴もまだだろ?」
打って変わって敬意の欠片も感じられない白兎の言に、琴音は確かにと思う。早々と務めが始まったが、特段迎え入れられるような機会は今日までなかった。
「バックレなんかでまともに続く縁族がなかなかいねぇからなぁ。ある程度落ち着いてからじゃねぇとやんなくなっちまったんだよ」
ま、せいぜい頑張んな、と言って兎神は立ち上がり背を向ける。
横暴さはまさに大将クラスだと琴音は思った。
「あぁ」
ふいに振り返った兎神の大将は不敵に笑う。
「従順な神ばかりじゃないぜぇ? 癖のあるやつはごまんといるさ。天照様の嬢ちゃんに従えられるかな?」
侍従から瓢箪を受け取り、グビグビ飲みながら立ち去っていく。
(こいつにも認められないと帰れないとか終わってない?)
丸い毛玉のような小さなしっぽを揺らして歩くモフモフな後ろ姿を、琴音は苦い顔で見送った。