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一話 琴音の独白

 夢破れたのは二十歳の年。初めて飛行機に乗った時。

 雲の上には何も無かった。


 子供の頃、大きな雲を見上げる度にひとりひっそりと思いを馳せた<雲の上の国>なんてものは人に話そうものなら鼻で笑われるような夢物語だ。

 突き抜けた先にあったのは分厚くもふわふわでもない、ただの水蒸気の集まりで……本気で信じていたわけではないのに、小さな窓から見えるその景色に酷く失望したのを覚えている。


 だけど、間違いなくあったのだ。もっとずっと、遥かに高い雲の上、決して人の目の届かぬ所に。


 そこに広がるは八百万(やおよろず)の神が住まう世界。日本神話でしか語られないその世の名は──。




 ◓◑◒◐



 しとしとと降り続ける雨がガラス張りの外の日常をぼかす。


「三分間だけ話します」


 かつてそう言った校長先生の話は本当に三分で終わった。


(あの校長いつも話短くてありがたかったな。大人になるとみんな子供の頃聞くのが辛かったのを忘れるんかね)


 そんな風に意識をよそへ飛ばしながら、琴音(ことね)は閉院後の待合室で向かい合う院長の『まったくありがたくない話』に耐え続ける。


「だから、辞めてもらった方が御原みはらさんのためにも良いと思うんだよね」


 これが退職勧奨ってやつか。悔しさとか怒りとか、なんとも言い難いどす黒い感情と涙が込上げてくる。


(こんなやつの前で泣くもんか)


 パートのお局たちのあることないこと言いたい放題を鵜呑みにした院長の顔なんて見たくもなくて、俯きがちに唇を噛み締める。


 流れ続けるヒーリングミュージックがあまりにも不釣り合いで空気の異様さを際立たせていた。



 事のあらましはこうだ。


 一.新たに正社員の歯科助手として入った職場には、一軍女きどりのパートのお局たちがいました。


 二.お局たちは、自慢話やマウントの取り合いについていけない私を、輪から外すようになりました。


 三.お局たちは、ミスやクレームなどのあることないことを全部私のせいにして院長に詰め寄り、気の弱い院長はお局たちの言いなりになりました。



 俯いた先の両手を固く握りしめる。目の前では院長がぐだぐだと退職を勧める理由とやらを述べているけれど耳に入ってこない。悔しさや苛立ち、不甲斐なさが綯い交ぜになる。


 もう何を言ってもこの人には無意味だと琴音は経験から知っていた。



 自宅から十五分の歯科クリニックに務めて半年。大学を卒業してだいたい一年半。職場はここで三つ目。


 新卒で入った会社はシステムエンジニアをイチから育てると謳うベンチャー企業で、入るまでの印象はとても良かったが実態はブラックだった。

 おかげで自律神経に不調を来たし、一年もたたず退職した。


 次に入ったのは老舗の料亭。

 職場を見つけるまでの繋ぎにアルバイトの仲居として入ったその料亭は、大企業の上役やテレビでも見かけるセレブも訪れる場所で、両家顔合わせなどでもよく使われるような所だった。

 けれど実態は常に人手不足で、着物で週五日、十三時間労働。まともに休憩をとる暇もなかった。あげくなぜか若女将に気に入られてしまい、本来ならお座敷の対応を独りで任されるまで最短でも三ヶ月かかるというところをたいした教育もないまま三週間でぶち込まれた。

 おかげで胃潰瘍になり二ヶ月もたずに辞めた。


 急いで次の職場を探していた時、看護師だった母に「歯科助手は?」と勧められた。


 資格も経歴も関係なさそうで、職場の選択肢も豊富にあり、正社員での求人も多かった。

 飛びつくように数件応募し面接を終えた結果、立地も雰囲気も良さげで決めたのがこのクリニックだったのに──。



「みんな御原さんは反抗的だって。もう少しこう、受け入れてみてさ。素直な返事をした方がいいと思うよ」


(なにそれ。反抗的? こちとら精一杯サービス接待したっての)


 どうやらここではお局たちの欲しいままの返答ができないと落第らしい。


 人見知りはしないが決して人間関係に器用ではない。全力で表情筋を引き締めていたつもりだがこめかみでも痙攣してしまっていただろうか。


「みんなせっかく親切に御原さんを育てようとしてくれてたんだからさ」


(はぁ?)


 院長の無能っぷりに琴音は辟易する。

 親切に育てようとしてくれていた?そんなわけない。自分の未熟さや対応下手が撒いた種ももちろんあっただろうけれど、あれは最早いじめだ。


 確認事項のためほんの一声かけるだけでも恐怖。事情を聞くこともなく端から非難し、人間性までをもつつく。

 そんな態度を一回り以上下の新人にとっているお局たち(あいつら)がこの節穴には聖母にでも見えているのか。


(ほんと……なんなの)


 ギリ、と唇を歪める。

 ここで抗議したっていい。黙って言われるがままなのは悔しいし、今にもこぼれ落ちそうな涙と憤りそのままにこちらの言い分を吠えたっていい。どうせこんな職場はこっちから願い下げなんだから──。


 けれど、ここにはそうする価値もないと思った。


(大人になれ……)


 息を深く吸って、吐く。

 顔を上げて、できるだけ爽やかな笑顔で言った。


「わかりました、辞めます。お世話になりました」


 たぶん顔は真っ赤で、涙目だし、納得していないのがありありと見て取れたかもしれないけれど、及第点だと思いたい。






 雨の中コンビニで惣菜とスイーツと酒を調達して帰路に着く。ショックと怒りと疲労感で呆然としたまま琴音は自宅アパートの玄関を開けた。


 六畳洋間のワンルーム。ぼそっと呟いた「ただいま」にもちろん返事はない。


 買ってきたものを雑に置き手早くシャワーを済ませ、酔いつぶれて寝落ちても良いように万全の準備を整える。

 テレビの前に陣取り、ローテーブルに食材と酒をセットしたら完璧だ。


(大人のやけ酒パーティーのはじまりじゃい!!)





 あれから三時間。とにかく飲んで食った。


 動画サイトを見漁り、グビグビ。ゲームに白熱し、グビグビ。

 そして、高揚しまくって振り切れたテンションは闇モードに急降下。結果、亜空間に向かって管をまく。


「だいたいさ、いんちょーのくせになんなのあいつ! パートのばばあのいいなりになってなさけなくないわけ?」


 ねぇ?と虚空に同意を求め、またグビグビ。

 すっかりできあがったヤケ酒女が完成した。




「あなたはったいよーのこまち、えんじぇる!!!」


 歌い踊りながらフラつく足でトイレに向かう。

 部屋着のパンツと下着を下ろし、便座に座って体から出ていく温かさとそのBGMに恍惚とする。


 あ〜フワフワして気持ちいい。


 今なら誰とでも仲良くなれる気がする。シラフでもこうならお局たちとも上手くやれただろうか。



 トイレを出て、洗面所で手を洗う。

 顔を上げたら鏡の<私>と目が合った。


 目は充血し、眉は八の字に下がっている。髪はボサボサで、着崩れた部屋着がなんとも情けない。


 また、目の奥の方からツンとした熱を感じた。


(あんたをこんな顔にする職場なんか辞めて正解だよ)


 心の中で<私>に語りかける。

 鏡の<私>は潤んだ瞳で弱々しげに微笑んだ。




 飲みかけの缶を煽りつつ適当にスマホを弄る。メッセージアプリを開いて通知を消化していると、ふと手が止まった。


『ありがとう琴音ことね! まじ神』


(神ねぇ……)


 神ならどんなにいいだろう。お局と院長(あいつら)に天誅のひとつでも下せるだろうか。


 琴音は酔って上手く座らない首を揺らしながら指折り数える。


「学歴普通、顔面偏差値普通、資格なし、相手なし、新卒二年目にして退職三回……」


 片手では足りそうにない。虚しさが増すだけだと、数えるのはやめにする。いったいいつからこんな空っぽな人間になったのだろう。


(あーあ……夢っていつまであったっけ)


 酒を覚えたら夢を失うのだろうか。

 だが、実際酒の味と共に知ったのはこの社会の理不尽さだ。おかしなことが我が物顔でまかり通り、立場の弱い者は報われず、正しいことを正しいとも言えない。


 琴音は勢いよく煽った缶をローテーブルに打ちつけた。


「神様とやらは私になにをさせたいんだかね」


 誰にも拾われない呟きをアルコールに溶かし、座椅子にのけぞり天井を仰ぐ。噛んだスルメの苦さが酷く沁みた。




 外の雨音だけが響く明かりの消えた室内をやりかけのゲーム画面が煌々(こうこう)と照らす。テーブルの上も床も食べかけに、包装紙のゴミに、空き缶だらけ。


 酔いつぶれてその雑多の中に転がった琴音は知る由もない。ゴミと残飯にまみれたこの日を境になにもかもが大きく変わることになるなんて──。



 ”すべては、神のまにまに”



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