第8話
月末のある日のことである。この日はある大きな予定があった。
ラクリスを含めた兵士十数人がピズマ兵長に率いられ、アルヒ島の港へと到着した。
港の開けた一角に整列した兵士たちは通常よりも重装備だ。ラクリスも熊皮の腕甲とすね当てを身につけている。熊胆と一緒に手に入れた毛皮で仕立ててもらったものだ。
兵士たちの物々しい雰囲気のせいか、港の人足たちもピリピリしているように見えた。
張り詰めた空気の中、ピズマ兵長は厳粛な面持ちで兵士たちの前に立つ。
「今日、メソンの都より視察団の方々がいらっしゃる。お前達も知るようにメソン大陸はアルヒ島とはシケナ海を挟んで離れている。そのような遠方からわざわざこんな辺境まで船に乗って来られるのだ。丁重に出迎えなくてはならん」
今日のピズマ兵長は兵士たちの中でひときわ目立つ装いをしている。特に深紅の兜飾りが目を引いた。
「アルヒ島は百島同盟の傘下にある。そしてメソンの都は百島同盟の筆頭として、この海に散らばる無数の島々を束ねる存在だ。今回の視察はアルヒ島が百島同盟にとってどれだけ有用か、それを査定するのが目的だと考えられ――」
ピズマ兵長は視察の政治的意味について言及しているが、多くの兵士たちはそんなものを気にしてはいない。
彼らにとって意味があるのは「視察官が都から来る」というただ一点のみだ。こういった視察は定期的に行われているが、そこで視察官の目にとまった人材はスカウトされ、都へ行くことが出来るというのは誰もが知る話だ。
アルヒ島を出て都に住むというのは誰しもが一度は憧れる栄達の道なのである。
「視察団の方々はおのおの各分野の専門家で、到着後はバラバラに行動されるようになっている。我々は視察団を港で迎えた後、担当ごとに分かれ視察官一人一人の警護に当たるわけだな。どの視察官が何を専門とするか、お前達が知る必要はないが……全くこのバカモンどもが。誰が我々兵士を視察するのか、気になって仕方ない顔をしよってからなに」
このままでは任務にならんわ、とピズマ兵長は苦々しげに吐き捨てる。
「……軍関連の視察官はヤニスという名だそうだ。まだ二十代だが、凄腕の魔術師らしい。己が実力ただ一つで今の地位を手に入れた正真正銘の強者だ。彼を案内するのは俺と」
ピズマ兵長が手で指し示した先には、円になって話し込んでいる集団がいた。アルヒ島の執政官たちだ。視察団への対応についてあちらでも話し合っているようだ。彼らの中にはラクリスたちが見慣れた白ひげの老魔術師もいる。
「あそこにおられるエラトマ様だ。俺とエラトマ様の二人でアルヒ島の各駐屯地を案内する。一応、お前達全員の姿を見せられるように手配はした。都に行きたければせいぜい気張るがいい。まぁ、都のエリートから見ればおまえらなんてゴミだろうがな」
「ぐぅ、ピズマ兵長もゴミとは言うじゃんかー」
「だが事実なのだろう。 アプロス、実際兵士として都まで行った男を何人知っている?」
「た、たしかにここ十年いないって話だけど……」
「しかも過去の例でも選ばれたのは常備兵ばかりだと聞くぞ。俺たちのような日雇い兵士がいきなりエリート街道に、などといううまい話はないと思うが」
「常備兵の方が優秀とは限らないじゃんか。もしかしたら俺の中に眠る、自分でも気付いていない才能を視察官が見抜いて! ……なんてこともあるって信じたい」
「信じるのは自由だ。好きにしろ」
アプロスは元々こういう男だからラクリスもあえてたしなめる気にはならなかった。
「だがそのヤニスという視察官を最初に警護するのは俺たちだと聞いた。浮かれる気持ちも分からんではない」
「あれ? ラクリスって都に興味あったんだ」
「つい最近、都出身の人間から話を聞いてな」
マティナのことである。マティナは数々の島を巡ってきたそうだが、生まれと育ちはメソン大陸だという。アルヒ島を出たのは二年兵役の一度きりであるラクリスが気になって聞いてみたところ、思わぬ話を多く聞けた。
「都には多くの人間が集まるという。中には俺のような巨人もいるのだろうかとふと思ってな。とはいえ当分島を出るつもりも、出る方法もないと思うが」
「そうか? 流石の都でもラクリスほど大きな奴はいないだろ。けど、都行きを諦めるのは早いと思うぜ。何せラクリスは目立つからな、視察官の目にもとまるかも」
「でかい分粗も目立つと思うが……アプロス、見ろ。あれではないか?」
ラクリスは海のある一点を指さした。最初は麦粒ほどの大きさだったそれは、すぐに船の姿に変わる。メソンの紋章が染め抜かれた帆一杯に風をはらみ、船体から突き出た何十本もの櫂をバタバタ動かしながら港へと近づいてくる。
「一同、敬礼!」
敬礼する兵士たちに迎えられ、船が港に接舷する。視察団は停泊後すぐに下船してきた。
「あれがそうか」
「すげぇな……なんか服装もいけてる気がする」
ひそひそと兵士たちが品評するが、流石に視察団の面々は堂々としている。壮年の人間が多いようだからこういった経験も豊富なのだろう。
「ヤニスって人はどれだろ。おじさんおばさんばっかで若い兄ちゃんはいないんだけど」
すでに視察団とアルヒ島の面々が挨拶を始めている。
「下船に手間取っているのか?」
挨拶もほとんど終わりに近づいた頃、その男は現れた。
「ふぁああああ、ったくあいつらペコペコし合うだけにどんだけかかってンだよ。どいつもこいつもマジメぶりやがって」
眠たげな目つきで甲板に出てきたその男は奇抜な外見をしていた。
着ているのは魔術師用のローブ、の袖をまるごと切り落とした別の何か。その下に着用しているのは胸当てだが、細い鎖が何本も取り付けられ、じゃらじゃらと音を立てながら無意味に揺れている。極めつけの異常は頭髪だ。若葉のような緑色をベースにビビッドなピンクの房が数本混じっている。髪を染める、という未知の概念にラクリスは絶句した。
「も、もしかしてあの前衛的なファッションの人が?」
「他にヤニスらしき姿は見えないな。おそらくは……ん?」
男と目が合う。男はラクリスを見て口をすぼめた。離れていて聞こえなかったが口笛を吹いたのだろうか。だとすれば巨人に対してたいした度胸である。
男はラクリスから目を離すと、しなやかな身のこなしで船を飛び降りた。下船した男の元へピズマ兵長とエラトマが向かっていく。あの男はヤニスで確定のようだ。
三人は何事かを話し終えると、ラクリスたちの方へ向かってくる。
「一班集合!」
ピズマ兵長の号令を受け、ラクリスにアプロス、他の班員たちが一歩前に出る。兵士たちに向かって、ピズマ兵長が顔を引きつらせながら
「あー、その、ゴホン。紹介しよう、こちらがメソン軍魔法兵隊所属のヤニス様だ。アルヒ島の軍備状況を視察にいらっしゃった。お前達、ヤニス様の期待を――」
「長ぇよオッサン」
ヤニスは傲岸にピズマ兵長の言葉を遮る。ピズマ兵長は顔をしかめつつも口を閉じた。
アルヒ島に四人しかいない兵長をぞんざいに黙らせたヤニスは嘲笑を浮かべながらラクリスたちをねめつける。
「それにこんなド田舎に期待なンかハナっからしてねぇよ。どーせ平和で退屈な毎日にたるみきってるんだろ? そんなとこの兵士なんか使えねぇに決まってる。だがまぁ気にするこたぁねぇ。俺も視察なんてかったるいことマジメにやりたくねぇからな。お利口さんにしてれば上の方にも適当に言いつくろっておいてやる。だから面倒だけは増やしてくれるなよ、ゴミども」
ラクリスたちはヤニスを第二駐屯地まで護衛することになっていた。馬に乗ったピズマ兵長、エラトマ、ヤニスを取り囲むようにしてラクリスたちは駐屯地へと歩く。
その間、空気は最悪だった。ピズマ兵長とエラトマがアルヒ島の現状について説明しているが、ヤニスは「あー」「はいはい」などと気のない風に聞き流している。
気性が穏やかなエラトマはともかく、ピズマ兵長の額には青筋が浮かんでおり、不穏な様子だ。兵士たちも待ちに待った視察官がコレであることに大きく落胆していた。
「この様子じゃ今年も都行きはゼロかな……」
「どうしてメソンはこのような男をよこしたのだ……」
だがラクリスの感想は少し違っていた。馬上のヤニスを見下ろせるラクリスは、ヤニスの指に印章付きの指輪がはまっているのに気付いたのだ。マティナが着けていたのと同じ、メソン魔術学校の成績優秀者の証である。
メソン魔術学校のレベルの高さはマティナのアミュレットの効果を体感していれば分かる。そしてヤニスは魔術師であると同時に軍人であり、戦闘の魔術が専門のはずだ。となると以前戦った《調教》の魔術師を遙かに凌駕する実力を持っていると考えられる。
「一度くらいは彼の魔術を見られないものか」
今後魔術師を相手にする上で参考になるはずだ。《抵抗》を上手く活用するためにも、ラクリスは自分自身を高めなくてはいけないのだ。
そうラクリスが決意を新たにしたところで、ヤニスが相づち以外の声を発する。
「おいボンクラども。なんか来やがるぞ」
「はい? 特に何も感じ……おっと!」
ヤニスを肯定するように、馬たちが一斉にいななきはじめた。浮き足だった兵士たちにピズマ兵長が一喝。
「総員警戒!」
兵士たちが慌てて周囲に気を配ると、異変の正体が明らかになった。
「ピズマ兵長! 道脇の茂みに何かいます!」
「こっちに向かって来るようです!」
「せ、接敵するっす!」
ガサリと草むらから灰色の獣が飛び出してきた。狼だ。しかも一匹ではない。最初に出てきた個体に続き、狼が続々と現れる。狼たちはみるみる間に数を増やし、兵士たちの行く手を群れとなって塞いだ。
「なんて数だ、十匹をゆうに超えているぞ!?」
「一体何が……こんなふうに狼が襲ってくることなんてなかったのに!」
「ピズマ兵長、これは」
「ああ。あの犬ころども、どう見ても様子がおかしい」
狼たちはガクガクと体を震わせ、よだれを垂れ流しにしている。足取りもどこかぎこちないが、こちらへの敵意だけはむき出しだ。
突然のトラブルに兵士たちは槍を構え、エラトマは顔を青ざめさせる。緊迫した空気の中でヤニスだけは好奇心を隠そうともしない。狼たちをしげしげと眺め、
「魔術の残滓があるな……ハハァ、読めたぜ。《調教》か。強すぎる《調教》は解けたあとでも後遺症が残るって校長のジジイがほざいてたな。魔力でラリっちまって頭がおかしくなるんだとよ。ンだよ、田舎のくせにおもしれぇのがうろついてるじゃねえか」
「ヤニス様、エラトマ様、お下がりください、ここは我々が! お前達、打ち合わせ通りだ! お二人を守りながら狼たちを撃退するぞ、戦闘開始!」
兵士たちが槍を構えて突撃する。士気は高い。
「あの視察官サマに俺たちの実力を見せつけてやれ!」
「速攻で蹴散らすぞ! さもなきゃ、手柄を全部取られるぜ、あいつにな!」
兵士の言葉通り、ラクリスは先陣を切って剣を振り下ろし瞬く間に狼を仕留める。
「まずは一匹! だが、やはり妙な動きをする!」
こちらにまっすぐ飛びかかってくるような個体はごく少数で、ほとんどの個体は急に棒立ちになったり、いきなり狙う相手を変えたりなど不自然で不合理な挙動が目立つ。
そのおかげで数で劣る兵士たちが護衛対象を守り切れているのだが、なかなか狼の数は減らない。攻撃が当たらないのだ。
護衛に専念するため攻撃に参加していないピズマ兵長は歯がゆそうに檄を飛ばす。
「このバカモンども! すかすか攻撃を外し隙ばかりさらしやがって! 狼の姿をした別の生き物だと思え! 柔軟に対応しろ!」
それでも兵士たちの攻撃は当たるようにはならなかった。
だがラクリスだけは例外だった。
「ヌン!」
狼たちの様子を見て攻撃方法を変える。剣で斬りつけるのではなく、腕や足を大きくなぎ払うように振り回す。熊皮の防具のおかげで可能になった戦い方だ。一撃必殺とは行かないが、手足を振るうたび狼たちの体が宙に舞った。
「ハッ! バケモノめ、どんな馬鹿力してやがる!」
下品な声で品評するヤニスは無視して、ラクリスは狼を殴り続ける。ラクリスの攻撃によってダメージが蓄積した狼たちの動きは次第に鈍り、
「よっしゃあ、倒した!」
「三匹目だこの野郎!」
兵士たちの槍も次第に狼の体をうがつようになる。このまま行けば押し切れるだろう。
しかしそこで予想外の事態が起こった。
「まー、こんなモンだろ」
狼が全滅しないうちにヤニスが馬を進ませ始めたのだ。
「なっ! お、お待ちくださいヤニス様!」
「そうですぞ、まだ狼は残っております! 今行くのはあぶな――」
当然ピズマ兵長とエラトマはヤニスを引き留めようとする。だが、
「てめえら、誰に向かってものを言ってやがるンだ? つうか、時間かけすぎだ。一分は立ったぞ」
「な、何だと!?」
ヤニスの台詞は戦っている兵士たちにも聞こえていた。彼らの間に怒りが広まる。
一分は経った、だと? それではまるで自分ならもっと早く倒せたとでも言いたげではないか。無論戦いの最中だ、わざわざ反論する余裕はない。だが、兵士たちの反感はヤニスにも伝わったようで
「おーおー、ナマイキな反応をしやがる。身の程を知らねぇクズどもの顔だ。……まぁ、途中まではおもしろい見世物だったしな、せっかくだから俺の魔術を見せてやンよ――」
ヤニスは馬上で詠唱を始めた。
「赫々たる柏手、三の灼と四の裂を以て粉砕するものなり、即ち汝ら――」
早口言葉めいた適当な詠唱に反して、今まで感じたことの無いような魔力がうごめく。
「《七連発破》(ヘプタ・ピリティダ)」
ぱん、と乾いた音が七つ重なって響いた。
「――――な、に?」
目の前の光景を受け入れるのに時間がかかった。
煙が上がっている。狼たちがいた前方の七カ所の地面から、視界を覆いかねないほどの煙が立ち上っている。いや、地面からではない。煙は火から発生するものだ。煙の根元にチロチロと燻る赤い炎が見える。そして、その炎の下には――
「……狼だ。狼が燃えている」
誰かが呆然と呟く。数秒前まで生き残っていた狼たちは一匹残らず炎によって黒焦げにされていた。しかも死体が強い衝撃を受けたかのように激しく損壊している。
「火薬爆発を再現する中位魔術《発破》(ピリティダ)。それを七つ同時に発動させるとは……」
魔術師であるエラトマはヤニスの魔術を頭では理解したようだが、心までは追いついていないのか、何度も何度も目をこすっている。
魔術師ではないラクリスにもヤニスのとてつもなさは知れた。
例えば《子守歌》、《速駆け》のような魔術は比較的習得が容易だ。魔力を使って生物の生理現象を変化させるというのは基礎的な技術なのだ。その意味では《告死》ですらも単純な魔術と言える。
だがヤニスがやって見せたように、魔術で物理的な破壊力を生み出すとなると難易度が跳ね上がる。この手の魔術を使える兵士はアルヒ島には一人もいない。
だからその場にいた誰もがヤニスの魔術に打ちのめされるような衝撃を受けていた。ヤニスは馬上から兵士たちを睥睨してせせら笑う。
「ざっと七頭を三秒ってとこか? じゃあ十秒あれば皆殺しに出来たな、俺一人で」
その当てつけがましい台詞を聞いて、ラクリスは羨望を禁じ得なかった。
もし自分に魔術が使えたなら、いつかはあの領域に到達できたのだろうか。なんと強大な力だろう。これに比べれば自分の体など大したことはない。たかだか人より二倍の体格で、人の三倍くらいの力を出せるだけ。
別に今更魔術に憧れているわけじゃない。ただ、あれぐらい力があれば、自分の「居場所」など実力で無理矢理にでも手に入れられるのだろうな、と思うだけである。
そんなことを考えてしまうくらい、ヤニスの魔術は鮮烈だった。そう、それはまるで目眩のするような、目眩のするような――
「グッ……!?」
「ら、ラクリス!?」
突如視界がゆがんだ。たまらず膝をつく。駆け寄るアプロスを大丈夫だ、と手で制止するが、目眩は止まらない。この症状には覚えがあった。ラクリスは胸元の《抵抗》を探る。
「壊れた、か」
おそらく魔術の余波のせいだ。規格外の魔力に壊れかけの《抵抗》は耐えきれなかったのだ。いきなり守りを失いこの場に残る魔力に晒され体調が悪化したというところだろう。
「も、う、大丈夫だ……」
ラクリスはふらつきながら立ち上がる。
「ンだよそれ……興ざめだ。おもしれぇ奴がいると思ったのによ」
とヤニスが独りごちたのには気付くことなく。
狼たちの襲撃の後は特に何事もなく駐屯地に到着する。
「やっと着いたか。こちとら長旅で疲れてンだ、まともな部屋は用意してあるンだろうな」
「もちろんです。ささ、こちらの方へ……」
ピズマ兵長が客室へ案内しようとしたが、ヤニスはそれを無視してエラトマに、
「おい、ジジイ! さっきの狼だが心当たりの一つぐらいあンだろ、言って見ろ」
「じ、実はですな……」
エラトマはへこへこしながらラクリスたちが逮捕した《調教》の魔術師について話す。
「おそらくその魔術師が手なずけていた獣の生き残りではないかと」
「ハァッ? 二週間前だぁ? そんだけ時間があって何の手も打たなかったってのか?」
「申し訳ありませぬ、何分その魔術師の《調教》は今まで聞いたことのない性質でして」
「言い訳してンじゃねぇよカス。どんな魔術だったとしても魔力残留を疑っておくのは常識だろ。アレンジ入った魔術ならなおさらだ。てめぇ何年魔術師やってんだ? 無能かよ」
「いやはや返す言葉もない……」
頭を下げるエラトマに、ヤニスはつばを吐きかけた。
「クソ、つまんねぇ話だ。聞いて損した。行くぞ、オッサン。部屋まで案内しろ」
「り、了解しました」
ヤニスはそのままピズマ兵長に連れられ客室へ引っ込んでしまった。
「あんの若造は……!」
客室から戻ってきたピズマ兵長は怒り心頭だ。
「実力は認めるが態度が悪すぎる! 何だあの口の利き方は! 軍人で階級的に下の俺にはまだしも、執政官でおられるエラトマ様にあのような所業を……」
その気持ちはラクリスたちにもよく分かったが、だからといってあの状態のピズマ兵長に近づくほど命知らずではない。今この場でピズマ兵長にものを言えるのはエラトマだけだ。ラクリスたちは離れたところからピズマ兵長とエラトマの会話を見守る。
「まぁまぁピズマ兵長落ち着いて。あなたが怒ることではありませんよ。それにヤニス君が私に言ったことは一理あります。わしは執政官であると同時にこの駐屯地における魔術の相談役でもある。《調教》と聞いた時点で今回の事は予想してしかるべきだったのです」
「そんなことはありませんぞ。エラトマ様はお忙しいのによくやってくださっています」
「よくやった、ではダメなのですよ、魔術師は」
その時のエラトマの表情をなんと表現すればいいだろう。諦観か、絶望か、憤怒か。エラトマが長年の人生でため込んできた何かどす黒いものがどろりと漏れ出してくるかのようだった。ラクリスたちはもちろんピズマ兵長でさえもたじろいだ。
「わしは十歳の時から魔術を学び続けてきた。目指すものがあり、そのために努力は惜しまなかった。そのつもりでいた。だがわしには才能がなかった。……ああ分かりますよ分かりますよ。たしかにわしは魔術師になれる才能はありました。ですが、それはわしの目的に届くようなものではなかったのです。挙げ句、あの年の若者に未熟をたしなめられる始末だ」
エラトマが今まで見せてこなかった感情を唐突に語り出した原因は言うまでもない。あの傲慢だが超人的な魔術師に羨望を抱いたのはラクリスだけではなかったのだ。
「師匠はわしに魔術とは贄を捧げて力を得る技術だと教えた。才能とは少ない贄で大きな力を得られる素質のことを言うのだとも。……たしかにわしは「よくやった」のかもしれん。だがそれは才無き者が支払う贄としては不足だったのだ。人生を捧げて、残るものが「よくやった」。非才の魔術師のなんと虚しいことか」
エラトマははっきりと妬みを持ってヤニスのいる客室の方を見た。
「詮無きことを申しましたな、すみませぬ。ですがピズマ兵長。あのヤニス君の実力は保証しますよ。都でも有数の才を不断の努力で磨き上げた、そんな若者だと思います。言動の割に周りをよく見ておりますし、視察官として遣わされたのも頷ける。どうか非礼のないようにしてくだされ」
ヤニスを駐屯地へ送り届けた後、ラクリスは他の兵士とともに狼に襲われた現場の検分を行ってから帰宅した。
家に帰るとちょうどマティナが外で作業をしていた。外に台所を作る、と言いだしたのが四日前。着々とレンガでそれらしきものが出来上がっているのが見えた。
マティナはラクリスに気付くと玉のような汗を拭いながら振り向いた。
「おや、お帰りなさいラクリスさん。都からの船が来たそうですが……あれ? 何かありましたか?」
この二週間でマティナとの会話も増えた。その多くはたわいない話だったが、ラクリスは誰かと雑談できるのがうれしかった。ラクリスは今日あったことを話した。
「そうですか、破落戸のヤニスがアルヒ島に」
「有名なのか?」
「はい。数年前にメソン魔術学校の戦術学科を次席で卒業した、すごくガラの悪い先輩がいるという話を聞いたことがあります」
「何!? たしかにすさまじい魔術だったが、次席だと?」
「ええ。実技も座学も飛び抜けていたそうです。しかも、彼は学校内では本気を出したことがないという噂もあるそうです」
「下手をすれば首席以上の力を持っている可能性もあるわけか」
何というか、人は見かけによらないものだ。ラクリスは自身の境遇もあってできるだけ他人に偏見を持たないようにしてきたが、それでもヤニスへの評価は不足だったらしい。
「それより《抵抗》がまた壊れてしまったとか。体の方は大丈夫ですか?」
「今は何ともな――」
「ああ、何も言わなくても結構ですよ。今から確認しますので」
マティナは有無を言わさずラクリスの手を引き寄せた。そしてラクリスの手のひらにぴとっと小さく柔らかなほおを押し当てる。
一体何を、と抗議の声を上げかけたラクリスは体に何かが流れ込むような感覚を覚える。その何かは体内をまさぐるようにラクリスの全身を満たしたが、不快な感覚はない。
「えーと、魔力残留度は規定値以下、偶発術式、悪性術式の形跡もなし。魔力中毒の可能性は否定されます。つまり本当に問題なしですね」
何かの検査だったのか、マティナはそう診断を下すとラクリスの手を離した。
「だからそういっただろう。まぁ安心はしたが」
「ほんとですよ。ラクリスさんほど魔力耐性の低い人はそうそういるものじゃありません。ここまで耐性が貧弱だとある日突然訳も分からずぽっくり、ということもあり得ます」
「それは分かっているが……」
ラクリスは言葉を濁す。魔術耐性の低さを楽観したことは一度もない。だが気にしても無駄だと割り切っていた。こうして改めて心配されると妙な気分だ。
「……ん? マティナは俺を心配してくれたのか?」
「ええ、もちろんです。だってラクリスさんが死んじゃったら一体誰が私に貢い……もとい、支援してくれるんですか? 材料も一人で集めなきゃだし、ご飯もロハ(ただ)じゃなくなるし……あ、でもこの家は私のものになるのかな?」
「今更だが損得でものを考える奴だな」
ラクリスは呆れたが、驚きはない。共同生活を通じて、マティナの表面的な人間性は理解できていたからだ。
丁寧な物腰に社交的な性格。ただし行動原理は「アミュレットを作ること」に限定されている。アミュレット制作に進展があれば喜び、上手くいかなければ不機嫌になる。アミュレットを作るために、冷徹な計算の上で行動し、時には自分の身も駒として扱う。例外的に食事に関しては異様な執着を見せる。
とはいえあくまでこれは表面上そう見えるというだけのこと。
「時々妙に演技くさい時もあるからな……」
「? 何か言いましたか?」
「何も」
謎多きマティナの内心は気にならなくもないが、ひとまず保留する。
「とりあえず壊れた《抵抗》はまた応急修理しておきます。でも、もうすぐこれが完成するのでそうなったらお役御免ですね」
マティナはそう言うと金属製の円盤をラクリスに見せた。
「もしかしてこれが……!」
「そう! 現在制作中の新しい《抵抗》です!」
「見てもいいか?」
マティナに断ってから慎重に作りかけのアミュレットを検分する。
大きさはラクリスの手のひら大でアミュレットとしては大型。刻み込まれた彫刻はこれまでに見たことがないほど繊細で複雑だ。
「構造をラクリスさん用に最適化したことでこれまで以上の耐性が期待されます。それ以外に大きな改良点があって……ここです」
マティナはアミュレットに穿たれた五つのくぼみを指さした。
「ここに特殊な石珠をはめ込むようになってるんです」
「それには一体どんな意味がある?」
「魔術無効化の負荷を石珠に肩代わりさせます。無効化しきれない魔術を受け続けると、この石珠が一つずつ壊れていきます。この仕組みによりアミュレット本体が壊れることがなくなるんです」
「つまり石珠が残っている限り《抵抗》の効力は持続する。石珠の数を見ることで後どれだけ魔術を受けられるかが分かる、ということか」
そしてすべての石珠を失ってしまっても補充すればまたすぐに使えるようになる。
「理論上はそういうことです。もちろん未完成ですし試験運用もまだ出来ていません。ですが期待していただければと」
マティナの自信ありげな顔を見て、ラクリスは期待を高まるのを感じた。
「もちろんだ、頼りにしている」
「ですからラクリスさんもこれが完成するまで元気でいてくださいね? あんまり危ないことすると、怒りますよ」
「分かった」
と、ラクリスは何気なくうなずいた。
だがこの時のラクリスはマティナの言葉を表面的にしか理解していなかった。マティナという人間を表面的にしか知らないラクリスは、隠された内心にたどり着くことはない。
故にラクリスは後にこの時のことを後悔するだろう。だが今はそれを知らぬまま、一日を終え眠りについた。