第7話
午後になり、マティナと合流したラクリスはある場所へ連れて行かれた。それも槍を持たされてだ。
「今からでも遅くない、考え直せ。ここがどれほど危険か、一昨日説明しただろう」
「ただの噂でしょう? もし仮に本当だとしても私たちなら問題はないはずです」
ラクリスとマティナ以外に人の気配は一切ない。やけに静まりかえっているのだ。時折風がうっそうと生い茂る木々をざわざわと揺らす以外には物音すらしない。あるいは人間の耳が鈍感すぎるのか。
「着きましたね。分かりやすくて助かります」
マティナが道の先を指さす。看板が道を塞ぐように立っており、そこには「この先、魔の森」「危険」「入るな」「命が惜しくば引き返せ」と太文字で書かれている。
行方不明事件の原因と噂されるあの魔の森である。ラクリスとマティナはその入り口に立っていた。森に入り口などあろうはずもないが、看板の先は木々の密度がぐっと増している。森と外の境界線を引くならばちょうど二人の立っているあたりだった。
「……どうしても入るのか? 俺はともかく、マティナの安全は保証できないが」
魔の森には人を食う獣が住むという。先ほどマティナにできる限りの助力をすると決意したばかりだが、昨日獣たちに同僚を殺されかけたラクリスは非常に気乗りしなかった。
「薬や魔導具といった「ものを作る」魔術師なら近場の森に何があるかは知っておかないといけません。きのこや薬草はもちろん、特殊な土や鉱石も手に入ります。それに今回私が必要とする「熊胆」も」
「また熊か」
ますます気が進まない。
「熊の胆といったが、熟練の狩人に依頼すれば取ってきてもらえるのではないか? それほど金もかからないと思うが」
「それではだめなんです。熊胆は新鮮なうちに魔術的な処置をしないと使えないんです。魔術が盛んな町なら処置済みの熊胆が売ってますが、アルヒ島にはないみたいなので」
マティナは何度か熊胆の処置に立ち会っており、方法についても知っているという。ただマティナには熊を仕留める力がないためラクリスに助けを求めたのだ。
「なるほど。そういうことなら止めはしない。だが問題があるぞ。どうして俺は狩人にならなかったと思う?」
その理由はラクリスの体が大きいからだ。自分より明らかに巨大な生き物に獣は近づこうとしない。気配を消して近づこうにも巨体故に気取られる。
ごくごく少数の例外を除いて、ラクリスの狩りは成功したことがない。
「魔の森の熊が噂通り凶暴だったとしても、俺相手に勝負を仕掛けてくるかは分からんぞ」
「もちろん対策はあります。これを」
マティナが取り出したのは見たことのないアミュレットだった。
「これは売っていなかったな。何の効果だ?」
「《かくれんぼ》(クリフト)です。ちょっと見ててくださいね」
マティナが《かくれんぼ》を自分の手首にひもを使って装着する。するとマティナの姿が曖昧になった。輪郭が消え、にじんだように揺らいでいる。例えるなら水中でものを見る時に近いか。ぼやけたマティナの姿は森に溶け込み見えづらい。
「これもすごいな。どうしてこれを売り物にしなかったんだ?」
「ちょっと事情がありまして。あ、《かくれんぼ》は一人分しかないので外しますね」
マティナの姿が元に戻った。
「こういう効果です。ラクリスさん、着けますから手首を出してください」
「頼む。……よし。どうだ、これで俺の姿も見えづらくなっているのか?」
着用者からすると特に何も変化はないように感じる。
「大丈夫です。これで獣たちもラクリスさんを怖がらないはずです。接近すれば気付かれると思いますが。とにかくこのまま歩き回ってみましょう。私が囮になります。運良く熊を見つけられたら不意を突いて仕留めてください。私はとっさの魔術が苦手なので」
「魔術攻撃は期待するなということか。分かった」
うなずいてから森の探索を開始する。
マティナは熊を探す傍ら、植物の採取も行っていた。これらも魔術に使うのだろう。マティナは毒々しい紫のキノコをかごに入れながら愚痴を言う。
「《調教》を使えば熊を探して歩き回らなくてもいいんですけど」
「《調教》が使えるのか?」
「教科書通りには。でも私のはリスや小鳥に限ります。練習をほとんどしてないので」
指輪持ちの魔術師でも専門外の魔術は不得手らしい。ラクリスはマティナが《調教》できそうな小動物にも気を配ってみたが見つかる様子はない。だが別のものを見つけた。木の幹に着けられた爪痕だ。
「熊だと思います。……多分」
「だとすればさほど大きくはないな。安全に倒せるだろう」
爪痕の主はすぐに見つかった。昨日の熊よりは小さいが熊であることには変わりない。 ラクリスは小声でマティナに問いかける。
「どうする」
「私が少し近づいてみます。こっちに来るようだったら手筈通りに。出来れば槍は使わないでください、熊胆を傷つけたくありません」
「了解、気をつけろ」
マティナが歩き出す。足音に熊が振り向いた。近づいてくるマティナに熊はまごついている。が滅多に現れない人間に好奇心が勝ったのだろう、マティナの方にのしのしと歩み出す。ラクリスは慎重にタイミングを計り、一気に飛び出した。
逃げられる前に熊の体に覆い被さり、首に手を回す。熊の抵抗は激しかったが、ラクリスが両腕に力を込めて首をへし折るとすぐに動かなくなった。あっさりとしたものだ。
「ハァッ、ハァッ……」
ラクリスの息は乱れているが、それは緊張によるもので怪我は一切負っていない。冷や汗を拭うラクリスをマティナは花のような笑顔でねぎらう。
「ラクリスさんお見事です! それにしてもよく熊と力比べして勝ちましたね、どれだけ規格外なんですか!」
キラキラ輝く瞳は陽光を受ける海のようだ。ラクリスはマティナに見られているのが気恥ずかしくなって顔をそらす。
「俺からすれば魔術の方が得体が知れん……で、熊胆は?」
「これなら完璧でしょう。その熊、運ぶことは出来ますか?」
「大丈夫だ。たしかさっき水場があったな。そこで解体しよう」
ラクリスはマティナの指示に従い、熊を何とかそれらしく解体してみせる。マティナは腑分けした熊の内臓の一つをためらいなく取り上げ、何やら呪文を詠唱する。マティナは魔術によって色が変化した熊胆を見て満足そうにうなずいた。
「これで目標達成です。帰りましょうか。いやーこんなに簡単に熊胆が手に入るなんて!」
欲しいものを買ってもらった子供のような喜びようだ。その手に握られているのは未だ血の滴る臓物という点を除けば微笑ましい。
「助けになれて何よりだ」
ラクリスは解体した熊を部位ごとに袋にしまった。熊は頭の先から尻尾まで役に立つ。二人は帰り支度を整えて、元来た道を引き返す。方角はマティナが把握していたため、迷うことなく看板まで戻ってこれた。
「無事に帰ってこれましたね」
「ああ……そういえば普通の森だったな?」
「運が良かっただけかもしれません。ですがあの熊もさして凶暴そうには見えませんでした。噂は噂でしかないんでしょうか?」
「人骨や遺留品の類いもなかった。これもただ見つけられなかっただけかもしれんが」
「少々気になりますが……まぁいいでしょう。それより早く戻らないと」
マティナと出会ってから二週間が過ぎた。
アミュレットがラクリスにもたらした新しい日常、それを一日一日全力で駆け抜けるような二週間だった。
まず変わったのは兵士としての時間だ。警備や見回りでも新しい持ち場を任されるようになった。アプロス以外の兵士と組むことも増えた。実力を認められたのだろう。また、駐屯地全体での変化もあった。魔術教練が増えたのだ。
「お忙しいところを済みませんな、エラトマ様。今日も魔術について、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします!」
「ほっほっほ、お気になさらず、ピズマ兵長。議会でもアルヒ島の魔術教育の重要性が共有されるようになりましてな。このような老骨で良ければいくらでもお使いくだされ」
このような会話が四回は繰り返された。アプロスの弁では、
「ピズマ兵長はやっぱ気にしてるんだろうなー、あの《調教》の魔術師との戦いのこと。もっと魔術をよく知っておけばまた違った作戦を立てられたのに、ってところ? 自己中だけど真面目だからなあの人」
とのことである。人ごとのように言っているが、アプロス自身もより熱心に魔術教練に取り組むようになったことをラクリスは知っている。そのためラクリスの鍛錬もより力の入ったものに変わった。行き詰まっていた時と比べてモチベーションが段違いだ。
さらにアミュレットの材料集めもほぼ毎日行っている。熊胆のように直接手に入れられる材料ばかりではなかったが、ラクリスはマティナと協力して材料を揃えていった。新しい材料が手に入るたび、マティナはぴょんぴょん跳びはねて喜んだ。それがラクリスには我が事のようにうれしかった。
ラクリスはこの新しい生活を存分に楽しんでいた。まだ「居場所」を手に入れたわけではない。少数の理解者を得ただけだ。だが希望は明日を生きる力になる。
気がつけば家の二階はすっかりマティナの部屋になっていた。給金も若干増えた。
この「気がつけば」を繰り返すうちに、きっと自分の居場所へたどり着けるだろう。ラクリスはそう信じて疑わなかった。