第4話
ドスンと巨体が地面に倒れ伏す。
「ラクリスーーーー!」
絶叫するアプロスをピズマ兵長がたしなめる。
「落ち着け、ラクリスが倒されるのは作戦通りだろう!」
アプロスに比べてニコス、クレオン、ペトルスは冷静だ。狼の死体を踏み越え、即座に魔術師を取り囲む。兵士歴が長く、ラクリスに何の好感情も抱いていないからとれた行動だが適切な動きではある。
ピズマ兵長もそこに加わる。魔術師は三人を相手に魔術で応戦していたがピズマ兵長が加わったことで均衡が大きく傾く。魔術師は走りながら完全に包囲されないよう立ち回るもすでに息絶え絶えだ。
「アプロス、敵を倒すなら今がチャンスだ! 急いで奴を倒し、あの熊公を退ければラクリスを手当てすることも――」
「ハッハッハッハ!」
ピズマ兵長の言葉を遮るように劣勢の魔術師が笑い出した。
「無駄だ! 今私が唱えたのは《告死》! ありとあらゆる生物を即死させる上位魔術! 本来ならば私にはまだ手の届かぬ魔術だが……まさか成功するとはな! どれだけ耐性が低いんだあの巨人は。ハッ、あっけなかったなぁ!」
「嘘、だろ……」
「アプロス、聞くな! すべてはコイツを倒してからだ!」
「倒す? 何を言っているんだ? あの巨人が死んだ時点でお前達は詰んでいるんだぞ」
魔術師の背後からヌッと巨大な影が立ち上がる。ラクリスが戦っていた熊だ。
「すぐにでもあの巨人のところへ送ってやろう……ああ、それと土産に教えておこうか。通常の《調教》は獣に襲え、逃げろ、などといった大まかな命令しか聞かせられず、その命令をどう実行するかは獣の知能次第で扱いが難しい。だがその熊にかけた《調教》は我が魔術の真髄、一挙手一投足に至るまで私の思いのままだ! だから剣や槍を躱すなど簡単なことさ、愚かだが強靱な獣をこの私が操るのだから。……さぁ、そろそろ終わらせようか?」
魔術師の操る熊は圧倒的だった。まずニコスが胸を殴られ倒された。クレオンの脚がえぐられた。突進を受けたペトルスが気絶した。
ピズマ兵長は流石の貫禄でしばらく持ちこたえたが左腕を折られ、武器も失い膝をつく。
「く、くそぉ……」
一人残ったアプロスの脚は震えていた。昔、熊に襲われ死にかけたアプロスは熊が大の苦手だった。その時を思い出し、漏らしそうだった。それでも歯を食いしばり槍を構える。
「ほう、見逃すつもりだったが……もう勝ち目はない、戦う理由はないはずだが」
「う、うるせぇ……こっちにはあるんだよ! みんなの仇! うわあああああ!」
悲鳴を上げながら走り出したアプロスに熊は冷酷に爪を振り上げ、首筋を狙って振り下ろす。死の恐怖にアプロスは目をつむった。だが、
「……え?」
アプロスは死んでいなかった。熊の爪は振り下ろされなかった。なぜなら大きな、大きな男が熊の腕を掴み止めていたから。
「ら、ラクリス!」
「ば、馬鹿なぁ!?」
アプロスを庇ったのは、《告死》で命を落としたはずのラクリスだった。
「な、何故だ! 《告死》は威力は低くとも発動はしたはず、お前の耐性ならば確実に死んだはずだ!」
魔術師がわめくも、ラクリスは答えを持たない。
確かに《告死》を受けた時の感覚は死そのものだったと思う。だがすぐに意識が戻った。
理由は分からない。だが今は考えるよりも、目の前の敵に対処すべきだ。
ラクリスは死を免れたが危険を脱したわけではない。まだ魔術師も熊も健在なのだ。
試しに魔術師に向けて短槍を投擲してみると、熊が魔術師を庇うように立ちはだかり、素早い反応で槍をはたき落とした。魔術師は自分を狙った攻撃に冷静さを取り戻し、
「……フン。《告死》を使ってみたのはただの戯れだ。もっと単純で、万一にも失敗しない魔術で仕留めればいい。――嬰児よ、眠りに落ちよ。《子守歌》!」
「しまった!」
熊を突破しきれず《子守歌》の発動を許してしまう。たちまちラクリスを眠気が襲う。だが、それだけだった。
「《子守歌》を防げた?」
昨晩の夢見のせいか睡魔は強い。だが抗おうと思えばいくらでも抵抗できるものだった。
「抵抗と言えば……」
ラクリスは首から下げた金属片を取り上げる。昨日マティナから買った《抵抗》のアミュレットだ。薄ぼんやりと魔術的な燐光を放っている。
「もしかしてこれのおかげか?」
つまり今のラクリスはアミュレットにより魔術耐性が向上しているのだ。その事実を受け入れられない魔術師はうわごとのような呟きとともに熊をけしかけてくる。
「何故だ、巨人は魔術に弱いって、そう言ってたじゃないか……」
魔術師の様子とは裏腹に、熊にかけられた《調教》は弱まる気配がない。熊は二本の脚でじりじりと歩み寄りながら前脚を構える。まるで拳闘士のようだ。
鋭い爪、分厚い毛皮、圧倒的膂力とそれらを十全に生かす戦闘技術を前に他の兵士たちはなすすべもなく倒された。ラクリスも一度は後れをとった相手だが、
「フッ!」
ラクリスと熊の戦いが始まった。最初こそラクリスの攻撃は躱されたが、攻防を続けるうちに攻撃がかすり始める。何度か熊の爪がラクリスの肌を浅く傷つけるが大事には至らない。一方熊は幾筋もの太刀傷を負い、また何度も殴られ弱り始めている。
「ふざけるな、他の魔術だけでなく《調教》まで破るというのかぁ!」
目の前で繰り広げられる戦いに納得がいかない魔術師をラクリスは哀れんだ。
「愚かだな」
「何だと!?」
「いかに熊の体を自由に操れても、戦い方がまずければ意味がない。それすら分からんか」
「これでも拳闘は得意だった! 私が若い時身につけた拳闘術を熊用にアレンジしたオリジナルだ、この戦法に穴などあるものか!」
「あるさ。アレンジといっても爪や牙を使うよう心がけているだけだろう。結局お前は人間の感覚で熊を操っている。それで完璧な戦いが出来るものか。だがまぁ確かに熊はあれでいて器用な生き物だ。魔術を使えば拳闘のまねごとぐらいはさせられるだろうな。ものまねの出来が悪くとも、熊の膂力ならごり押しは十分効くだろう。だが!」
ラクリスは熊の放った右ストレートをつかみ止める。
「それは俺には通じない。熊と競り合っても力負けしないからだ」
熊はラクリスの腕を振りほどこうとするも、がっちりと捕まれており逃げることが出来ない。ラクリスもまた怪力であるが故に。
「く、くそっ!」
魔術師も熊が追い込まれるのを黙ってみていたわけではない。タイミングを見計らって何度か魔術を放っていた。それも低位魔術とは違い、一般的な耐性を持っていてもダメージを与えられるような攻撃魔術だ。
「こ、こっちに来るなぁ!」
だが、ラクリスを恐れるあまり魔術師は防御、つまり熊の操作に魔力を集中させてしまっていた。そのため魔術攻撃が雑なものになり、アミュレットの防御を突破できない。
「フンッ!」
ラクリスは熊の腕をひねる。ぐらりと熊の体が揺らぐ。体勢の崩れた熊の脳天に剣を満身の力で突き立てた。
剣は熊の頭蓋をあっさり貫通するにとどまらず、勢い余って地面に突き刺さった。べちゃり、と生々しい音を立てて地面に縫い止められた熊の頭部はぐちゃぐちゃになり原形を留めていなかった。兵士たちを苦しめた強敵のあっけない最期だ。
「あ……あああああああ! 私の! 私の下僕がぁあああ!」
「さて、これで残るはお前一人だ。お前の所業を鑑みれば殺してしまっても全く問題ないのだろうが……俺の同僚は皆まだ生きているようだしな。捕縛するに留めるとしよう」
「や、やめろ……あ、赫き柏手、灼と裂を以て粉砕するものなり、故に汝――」
「遅い」
魔術師との間合いを一歩で詰めたラクリスはその剛拳で魔術師の意識を刈り取った。