side◆グラン
高笑いを上げながら遠ざかっていく馬を溜息混じりに見送っていると、ふと視線を感じて振り返る。するとそこには何か言いたそうな領民達が立っていた。正確には何かの予想はついているものの、一応違う場合も考慮して答えを待つ。各々が目配せをしあった結果、一番若い顔見知りの農夫が口を開く。
「あのー……ご無礼を承知で申し上げますが……グラン様はいつになったらフェリシア様に、先々代様同士が取り決めた婚約者だとお伝えになるんです?」
痛いところを突かれた。正直それは俺も自分に問いたい。とはいえそれを告げるには完全に時期を逸してしまった。
「まぁ、そのうちにな……」
「そのうちそのうちって、そう言い続けてもう三年目でしょう。むしろどうして毎回さっきみたいなどさくさに紛れて、結婚のお話を受けないんですか。フェリシア様のことはまんざらではないんですよね?」
「あれは向こうも悪くないか? 伯爵令嬢のそれじゃない。勢いがありすぎてついこちらも反射で言い返してしまう」
咄嗟に口をついて出た言葉に、年嵩の農夫達が「お貴族様はこれだからよぅ」「積極的な娘の何が気に食わないんで?」と反論する。
それも確かにその通りではあるのだが……この領地の領民は、三年前に悪政の限りを尽くした領主の娘である彼女に対し、最初は懐疑的であったものの、今ではすっかりシンパだ。
特に年齢が上がるにつれそれは顕著になる。先々代が生きていた幼い頃には、彼の人と一緒に領地の様子を見に来ていたらしい。だから彼等、彼女等は一様にフェリシア嬢を孫娘のように扱っていた。
「グラン様~……。あの方は先々代様が直々に領地経営を叩き込んだんです。最初の頃はオレたちも知らんで辛く当たってしまいましたけど、謝ったら『むしろこちらが悪いのだから、頭を下げたりしないで下さる?』って。優しい方なんですよ」
「分かった分かった、善処する。それにしても最近やけに彼女との結婚話に口を挟むな。半年前はそうでもなかっただろう?」
気になってそう問えば「結婚を考えてる恋人の祖父母がお嬢様過激派で。お嬢様の結婚が取り決まるまではお許しが出ないんですよ」と、明らかに私情を打ち明けられた。余計なことを聞くのではなかったと幾分後悔した。
その後は二、三十分立ち話をして別れたが、この後も仕事はある。むしろ今から着手する仕事が本業だ。この地を本来治めるレンドール伯爵とその夫人は、あまりに無能であるがゆえに実の一人娘である彼女と、屋敷の使用人達の手によって屋敷の地下に軟禁状態となっている。
だが彼等に会いに行くというのは俺の仕事の管轄外。彼等は然るべき時期がくればその罪状に相応しい刑を陛下から賜る。それはまだ先の話だ。
「今月は父上に出す報告書にまだ追記出来そうなものはあったか……?」
一応将来的に結婚することになっているとしても、あまりこの地に関する情報を流すのは本意ではない。あれだけ努力する彼女の行動を穿った見方をされたり、警戒されたりといった形で阻害したくなかった。
まぁ現状は存在を忘れられた男でしかないのだが。そもそもこの婚約話も、元を辿れば学生の頃から友人同士だった祖父達が酒の席で勝手にした口約束。しかもその席で二人が書いた誓約書の写しが見つかったのは、うちの祖父が死んだ三年前だった。要するに当の祖父達も深酒をした席でのことを忘れていたのだ。
祖父の遺品整理をしていなければ、俺と彼女は婚約状態であるという書類を受理されたまま、他の誰かと婚約する書類を新たに作るまで知らずにいた可能性があるということで。厳密にいえば幼い頃に彼女と面識はあった。
愚息の愚痴を話す度にうちの屋敷を訪れた先々代と、つれられてきた彼女。歳が近かったこともあり、俺が遊び相手をするようにと言われたのだ。
当時俺は六歳で、フェリシアは四歳。二歳下の彼女は普通の女児とは違い、恐ろしく行動的で変なことに興味を持つ子供だった。
屋敷の庭の中にあるクモの巣でどこに一番獲物がかかっているか。ナナフシの節は本当に七つなのか。池にいる巻貝に右巻きと左巻きがいるのは何故か。こちらが懸命に一つの謎を解決すれば二つ謎を持ってくる。そういう子供だった。
答えを導き出す度、垂目な目元をさらに下げて『グランさまはものしりね!』と言っていたのに、三年前十年ぶりに再会したら欠片も憶えられていなかったが。あの年頃の二歳差は記憶力に大幅な違いがあるから仕方ない。
それに彼女は頭は良いはずなのだが、とにかく妙なところが世間知らずで隙がある。この三年間俺がここにいるのに、王城からの命を受けていないと思い込んでいるところもそうだ。聞かれないなら敢えて否定もしないものの、時折少しは人を疑えと言いたくなる。
頼りない実の息子に見切りをつけた先々代が、かなり早くから学ばせ始めた帝王学のせいで他の一般的な常識要素が入りきらなかったのか。
「そうでも思わないと説明がつかないな……」
思わず零れた呟きと虚しさに溜息をつきつつ、王家にこの領地にまだ手を出さないでいてもらえる対価を用意すべく、前当主の悪行と客筋を暴く作業に奔走する。結婚を前に彼女の風評被害を取り払って膿を出しきらなければ。
――、
――――、
――――――と、人がそう思っていたというのに。
慌ただしいまま季節が変わり、今年も年末の足音が聞こえだしたある夕方、彼女は単身俺が借りている一軒家にやってくるなり――、
『別に貴男からの愛を求めるようなはしたない真似はしませんわ。貴男はわたくしを嫌っても良い。表向きの本妻は残念ながらわたくしということになりますけれど、貴男は本当に愛した方を連れてきて下さって構いません。どうです? 悪い取引ではないでしょう?』
――と宣った。最初は多少腹立たしかったが、らしくもなく焦る彼女に理由を問いただせば、先日先に手に入れておく必要があるからと思って届出を出しておいた、王家の印が捺された婚姻届入りの封書が届いたのだ。
冬場には時々ある郵便物の配達手違いで。彼女の屋敷に。
内心で大いに焦った。しかし不幸中の幸いか、彼女は封書の内容のすべてに目を通していたわけではなかった。王家の封蝋に驚いてその足で馬を出したらしい。彼女の直情径行で愚直な様は、実家の家風に良く馴染んだ。
何より先に惚れた弱味か。幼い頃はライアット家の者と懇意にすると出世が出来ないと噂され、あまり茶会にも呼ばれなかったせいで、六歳ながらに貴族社会に嫌気が差していた俺にとって、やや世間擦れしていない素直なフェリシアの存在は救いに思えた。
「子爵家と伯爵家の婚姻には陛下の許しが必要だというのに……相変わらず妙なところで世間知らずだな」
知らずポツリと零した独り言に「何か仰いましたかグラン様?」と、書類から顔を上げる妻に笑いかけて。
「幸せだなと、そう言ったんだ」
嘘をつくなと家訓で教えられた俺の一生に一度の嘘に、フェリシアは場が華やぐような微笑みを浮かべて「わたくしもそう思いますわ」と言ってくれるから。この初恋の思い出と嘘は、いつか彼女と入るだろう墓場まで持っていこうと思う。