side◇フェリシア
季節の変わり目でスランプ気味なのでリハビリ投稿。
生温い目で読んでやって下さいませ(*´ω`*)
前方に農夫達と一緒になって汗を流し、時々談笑する広くて逞しい背中を捕捉したら、馬上で体勢を整えて懐から取り出した手鏡に顔を映す。きつい印象を与える鳶色の瞳に充血跡はなし。くっきりとあった目の下の隈も、侍女達の手で綺麗に化粧で隠されている。
執務机で寝落ちてグシャグシャだったくすんだ金髪も、寝癖を悟らせない編み込みで完璧に決まっているわね……ということで。馬の鞍から飛び降りて一気に駆け寄り、愛しい背中に抱きついた。
ついでにがっしりしていて汗と土の入り交じった優良健康成人男性の匂いを、肺一杯に吸い込む。これぞ労働の香りね。
「ご・き・げ・ん・よ・う・グラン様」
「これはどうもフェリシア嬢。また今日も人目を憚らずにお元気なことだ」
「ああ……そちらこそ今日もわたくしに向けて下さる、その虫ケラを見る時の眼差しが堪りませんわ」
「毎回言ってることだが、眼科医にかかることを強くお勧めする」
「そのまったく歯に衣着せない辛口なところも素敵でしてよ」
「チッ……その奇妙なところをよく他人にさらけ出せますね」
ダークブラウンの髪にグレーがかった瞳という絶妙に地味な色彩が目に優しい。金髪碧眼は美しいけど近寄りがたくて苦手なのよ。
本当に虫を見る目でこちらを見下ろす彼と、そんな彼をうっとりと見上げるわたくしの攻防は毎日のことなので、周囲にいた農夫達からは「フェリシア様、あんまり堅物な旦那を刺激しちゃ駄目だぜ」「そうそう、時には引かなきゃよぅ」「あーあー、鼻の頭にシャツの泥が移ってますよ。美人が台無しですって」と口々にからかってくる。
そんな観客達に微笑んで手を振り、ちゃっかり鼻の頭についた泥を彼のシャツにお返しした。気付いた面々から笑いが上がる。
「まぁ切れのある鋭い舌打ち。玄人の成せる技ですわね。あ、そうだわ。爵位を差し上げますから結婚して下さいませ!」
「またそれですか。死んでもごめんですよ。俺の理想は淑やかな女性なので。単身で馬を駆って視察する令嬢はちょっと」
「つれないですけどそこも好きでしてよ……と、あら嫌だわ、もうこんな時間。心残りですがこの続きはまた夕方にでも。お仕事頑張って下さいませ」
「貴女も忙しい身でしょうから来なくて結構ですよ」
「いいえ、必ず参りますわ! では!」
高笑いをして立ち去る背中にグラン様の溜息の音が聞こえた。レンドール伯爵家の長女であり現当主のわたくしと、王家の密偵である彼。奇妙な監視関係になった原因を作ってくれたのは、わたくしの無能な両親なのだった。
王都の学園に口うるさい一人娘のわたくしを入れてからは、随分と好き勝手をなさっていたようで。両親とその息のかかった者達の目を盗んで報せてくれたのは、祖父の代から屋敷に仕え続けてくれた使用人達だった。
遊ぶことが大好きで、無駄遣いと自由恋愛も大好きという、向かうところ敵しかいない両親は、放埒過ぎる領地経営の果てに禁止薬物の密売に手を染めるという、とんでもない愚行をやらかしてしまったので、元々不仲だったものが血の繋がりも煩わしくなり、三年前に権限を奪い尽くして隠居させてもらった。
祖父が亡くなってからの家庭内戦争の終わりとしては、まぁいささか呆気なかったですけれど。あれだけ馬鹿をやっておいて命があるだけでも温情でしてよ。
伯爵令嬢の割に口汚いのは、将来的にスラムで生活しなければならない未来を見越して、ちょくちょく出入りしていたからなのだけど……思いのほか水が合ってしまったのよね。
戻ってきたわたくしは早速王都で学んだ領地経営と新たな農業方法を活用し、両親が使い込んだ分を上回る金額を補填したものの、返せば良いとかそんな生温いことがあるはずもなく。
当然領民達からの当主家への信頼も信用も失墜どころか消滅。戻ってくる前に王城に使者を立てられて密告されていたら、今頃この土地もわたくしの肩書きもパアになるところだったのを、寸でのところで止めてくれていたのがグラン様だった。
生真面目で融通が利かない正義感がお家芸の落ちぶれ子爵家、出世の芽なんて勿論皆無。そんなワイアット家の四男な彼は、その有能さを買われて王家の密偵をしている。うちの羽振りの良さに疑問を抱いて単身潜り込んだというのだから、もう最高に格好良いわ。下町の友人の言葉を借りるなら、尊い推せる。
彼曰く『貴女のためではなく、貴女を信じていた使用人達のためだ』とのこと。でもそれで充分だわ。悪行の限りを尽くした肉親を見ていたわたくしにとって、彼の存在は福音そのもの。冗談抜きに天使のラッパが聞こえたわ。だからこの想いは本物だけど、信じてもらえなくたって構わないのよ。
朝は五時から起きて六時には書類の整理を始め、十時に十五分休憩を挟んだら一旦二時間半ほど馬で領地の見回りに出て、昼食を二十分で食べ終えたら五時半までまた書類整理。
運が良ければ夕方の僅かな時間に彼に体当たりをしに行って、七時の夕食を食べたら十一時半まで書類整理。お風呂は石を沈めて嵩増しした湯船にパッと浸かって、二時まで仕事をしたら就寝。
こんな生活を三年続けるのも、ひとえに彼に結婚を真正面から迫るため。この国の現行の法律では女性の当主は認められていない。まして親を引きずり下ろして成り代わった令嬢など、言語道断といったところでしょうね。
いくら領民が許してくれたとしても、法を引っくり返すことなど不可能。もう実質名前だけクソくらえな肩書きになってしまったけれど、使い道ならまだ充分にありましてよ。たとえばそう、婚活とか。
「働いて、稼いで、恋をして……毎日が充実してますわね!」
伯爵家の娘が馬車馬のように働くのはみっともないと後ろ指を指されたって、止まったりするものですか。
――、
――――、
――――――、
なんて平和で素敵な毎日を彼と繰り返している間に、またも何一つ仲が進展しないで年の瀬が近付いてくる。
皆の頑張りのおかげで領地は今年も豊作。綺麗な金稼ぎは軌道に乗ればその評判を聞き付けてグングン加速するもの。弾みがついて回り始めた車輪が止まることなどないように。それ自体はとても良いことなのよ。けど……やり過ぎましたわ。
三年で農地の拡大や新市場の開拓、治水、医療、その他もろもろ。ええ。必要なことは先伸ばしにしないでその日の仕事はその日の内にがモットーですの。
「あああああ! だからって調子に乗りすぎましたわ……まさかこんなに早く国からのガサ入れ調査が入るなんて……!!」
つい今し方届いた手紙の封蝋を見て嫌な予感はしてましたけど。開けてびっくり見なかったことにしたい。情報が漏れるとしたらグラン様くらいだけれど……鬱陶しく絡みすぎてチクられたのかしら? その可能性もあり得てしまう悲しみ。
もしも役人に入られてしまったら、元当主である両親の不在と理由を問い質されるのは必至。そして奴等の悪事が露呈してしまえば娘であるわたくしは領地継承の資格なしとして、ここまで育てた領地を取り上げられて、どこかの貴族の後妻とかにされてしまう。
そんなことは断固として嫌だわ。両親はしっかり法の裁きを受けてもらうとして、何の手も打たずに大人しくここで沙汰を待つよりは、さっさと領地のこれからのことをメモして使用人に託すのが良い。
国もまさか伯爵令嬢がスラムに逃げ込むとは思っていないでしょうし、ほとぼりが冷めるまで逃亡生活をして、領地の様子を見たら国外に出るのが妥当な案ね。
とはいえ、流石にあっさりその案を遂行出来るほど彼に心残りがないわけではない。お祖父様も言っておりましたものね。
『執着も妄執も使いどころだよ、賢いフェリシア。人はこの二つの単語を聞くと眉を顰めて毛嫌いするが、ちゃんと使えばこれは己を高める非常に確かな力になる。間違ってはいけないよ』
両親の……取り分け跡取りだった父の無能を嘆いて早々に見切りをつけた祖父は、わたくしの尊敬する人物の第一位。分かりましてよお祖父様。孫娘は今日まで執着と妄執を使ってのし上がって参りましたもの。その集大成として討ち死に覚悟で参りましょう。
――ということで、メモの用意と覚悟が決まったわたくしは、いつもと同じく夕方に馬を出して、彼の借りている家へと向かった。
突然供もつけずに訪問したわたくしの姿を見て呆れた表情をしたグラン様は、それでも追い返しはせずに暖かい室内に招き入れてくれ、紅茶の用意まで手ずからなさってくれた。向かい合って座ったリビングを一瞬だけ気まずい空気が満たしたけれど、女は度胸。
カップの紅茶を一口……って、嘘みたいに苦い。何でもそつなくこなす方だと思っていたけど、紅茶を淹れるのはお上手ではないのね。ちょっと安心。気が抜けたら笑みを浮かべる余裕が戻ってきたわ。
「グラン様、本日は先触れもなく突然訪問して申し訳ありませんでした」
「いや別に。これくらいでいちいち驚いていたら、貴女の相手をしていられないだろう。ただ、訪問の理由は気になる」
「あら、嬉しいお言葉ですわね」
「どちらの言葉に対してかと問いたい気もするが……訪問の理由が先だ」
「では単刀直入に申し上げますわ。結婚して下さいませ。明日にでも」
急かすから単刀直入に言ったのに、わたくしの言葉を聞いてグラン様はいきなり不機嫌になられた。グレーの瞳が眇められる。まぁでも正直ここまでは予想通りよ。なので気がつかないふりをして言葉を続けることにした。
「別に貴男からの愛を求めるようなはしたない真似はしませんわ。貴男はわたくしを嫌っても良い。表向きの本妻は残念ながらわたくしということになりますけれど、貴男は本当に愛した方を連れてきて下さって構いません。どうです? 悪い取引ではないでしょう?」
「現在貴女が持つ伯爵家の肩書きが俺のものになり、そうまでするのに貴女は俺の愛を求めない、と」
「はい。わたくしが勝手に貴男を慕っているだけですもの」
「馬鹿げている。話にならない」
「そうですか……残念ですわね」
見事に予想は的中。惨敗討ち死に。とりつく島もない勢いでフラれてしまいましたわね。どうせなら彼の出世の足がかりになりたかった。
けれど気高いこの人は、敵から与えられた餌を一人占めしようとしたりしないと、どこかで分かっていたわ。これで彼が情報を持ち帰ればこの地には新しい領主が送り込まれて、わたくしは良くて修道院行き。悪くてどこかの後妻になるのね。
あーあ……一世一代の初恋、からの告白、そして失恋の三段跳びだなんて。でもまぁ、想いを伝えることは出来たもの。それで良しとしなくては。予行練習通りスラムに逃げ込んで行方を眩まそう。早くここから消えてしまいたい。
「では、お時間を取らせて申し訳ありませんでした。失礼しますわ」
そう言って席を立ち上がった直後、立ち上がるためにテーブルについていたわたくしの手に、彼の手が重なった。何故とは思ったものの、泣いてしまう前に立ち去りたくて引き抜こうと手に力を込めたら、今度は手首を掴まれる――と。
「貴女の奇行には慣れてきたつもりだったが、今はいつものそれとは違うように見える。一体何を焦っているんだ」
「え、この空気でお話をお続けになるの?」
「こんな時くらい黙って聞いてくれないか」
「あ、すみません。続けて下さいませ」
「先に座ってくれ。立ったままだと話しにくい」
そう言われてはそれもそうかと思ったので、素直に席につき直す。でもフラれた直後にフッた相手と相席というのは想像していたよりも辛いわね。促されるまま王城から届いた封書の内容を、今後の身の振り方は誤魔化しつつ最後まで話し終えたところで口を閉じた。
「そういうことであれば、分かった」
「はい。ではこれから色々と準備がございますので今度こそ失礼しま――、」
「予定より多少早かったが、明日簡易の式を挙げよう」
「…………ん?」
「貴女から提案したのだろう。その提案の通りに爵位ごと貴女をもらい受けたい」
「え……あの、爵位を差し上げる前提の結婚の提案したのはこちらですけど、無理はなさらなくて大丈夫でしてよ?」
嬉しいか嬉しくないかと聞かれたら嬉しいに決まっているけれど、おかしな方向に舵を切り始めた会話内容に待ったをかければ、グラン様は「次は俺の番だ」とこちらの申し出をはね除けた。
「最初は確かにこの領地の金の動きがおかしいことが気になって、使用人として屋敷に潜り込んだ。蓋を開けてみれば経営状態は破綻寸前。表向きを取り繕う腕だけは褒められたものだったよ。屋敷の至る場所に飾られる権威欲にまみれた華美な肖像画にも辟易した」
「ああ、わたくしが戻ってきた際に庭に積み上げてすべて焼き払った……あの悪趣味な肖像画?」
「そうだ。だが……俺は使用人達が口々に心配するくせに、この屋敷に一枚も肖像画のない一人娘に興味を持った。本当はもっと早く俺の方から申し込むべきだった。けれど毎日懲りずに軽々しく結婚してくれとねだる貴女の心が分からなかった」
「冗談でも哀れみでもなく、本当に愛して下さるのですか?」
「貴女がこんな狡い男を愛してくれるのなら」
「ええ、ええ、勿論ですわ。爵位のおまけのわたくしでよろしければ!」
「逆だろう。爵位が貴女のおまけなんだ」
そう言って破顔した彼がくれたのは、少し気の早い、苦い苦い紅茶味の誓いの口づけだった。
***
かくして翌日、冬の晴天の下で開かれた簡易結婚式は、直前の通達だったのに驚くほど立会人の多いものになり。
王都からやってきたガサ入れ要員だと思っていた役人は何故か彼の兄上で、王家の印が入った正規の婚姻届を持って友人枠で出席した。式の終わりにはしっかりわたくし達のサインが入った婚姻届と両親を回収して行ってくれましたけど。
どこまでが彼の職権濫用で手の内なのか分からない。でも――。
「幸せだから何でも良いですわね、グラン様!」
「貴女の目が離せない豪胆さに応えられるよう善処しよう、フェリシア。ひとまずは執務時間を早急に改善しよう。二人で」
「はい、二人で!」
そう言って抱きついた身体を抱き締め返されるのには、しばらく慣れられそうにありませんけれど。爵位を失って貴方の妻の肩書きを得られる幸せを噛み締めたいところですわ。