未来
エッジワースシティの中央にそびえる高い塔の、一番上の屋外展望室のテラスに、人影があった。
時刻は6時ちょうど。遥か彼方の地平線から、ちょうど今、春分の陽が昇ってくるところだった。
下から吹き上げてくる風に、甘い花の匂いが乗っている。眼下に広がる街のあちこちを彩る、ピンク色の花の匂いだ。古代の実物のサクラには匂いはなかったとのことだが、この世界で好まれているサクラには、ベリーのような甘い香りがつけられている。エッジワースシティでは、気温を人工調整しなくても快適に過ごせる期間は極めて短い。その極めて短い時期に咲くようにとプログラムされている花だ。
「何見てるんだ? ミライ」
花の香りをいっぱいに吸い込んだところで、背後から声をかけられた。
「レインさん? どうしてここが?」
「お前の居場所など、お見通しだぜ」
「あ! それってもしかして、職権乱用ってやつじゃないですか!?」
「この街を防衛するのが俺の使命だ」
「それと僕のプライベートな居場所を監視することとは関係ありません!」
ミライが口を尖らせる。
「お前も、この街の一部だ」
ゆっくりと歩いて来たレインが、ミライの隣に並んだ。
この1年でミライの身長も20センチほど伸びたが、それでもレインとの身長差はまだ30センチ以上はあった。
「それよりも」
何か言いたげなミライの前に、双眼鏡を差し出した。
「フローレンス隊が来る。お前らのクライアントも一緒だが、ユグドラシルの実をふたつ抱えてな」
ミライは、双眼鏡を慌てて顔に当てた。
「右に、30度の方角だ」
レインの眼は、遠距離を見るのに特化した機能拡張がされている。
双眼鏡の先を言われた方向に向けてめいっぱいズームすると、水平線の少し手前に、砂塵が巻き上がっているところがあった。
「あれ、見えるんですか? レインさん」
「まぁな」
「300、いや、400キロメートルはありますよ?」
「動いているものなら、1000キロくらい先のものでも判別できる」
レインはすごいことをさらっと言い、胸ポケットから取り出したシガーに火をつけた。
酒はともかくシガーは、吸える場所が限られているので、嗜む人はごく少数だ。しかも、この街では生産されていないため、価格も高い。
「なんだか、羨ましいです」
「これがか?」
口に溜めた煙をフゥッと吐き出して、レインがミライを見下ろす。
「違います。レインさんの眼です」
濃い色ガラスのはめ込まれたレインの眼は、どこを見ているのか正確にはわからない。
「羨ましいかどうかは、来年、この街に戻って来た時にまた考えろ」
「え?」
レインの大きな手が、ミライの髪をグシャッと撫でた。
「フローレンス隊と旅に出るんだろう?」
「いや、それは……親方に反対されています」
ミライは首を横に振った。
『キャラバン隊と共に街を巡る経験をしてみたい』
最初にそう口に出したのは、去年の今頃だ。ジェットが、ヒトとしての穏やかな最期を迎えた2ヶ月くらい後だ。それから何度か嘆願してみたが、良い返事は聞けなかった。
「それで、諦めたのか?」
「いえ。まだ諦めてはいません。また今度、お願いしてみるつもりです」
「キャラバン隊の面々は、日々命を削ってる。ドームの外は、危険な場所だ。鬼孔虫はじめ、得体の知れない危険な生物がたくさんいる。それに、強力な宇宙放射線が降り注ぐ中を旅することになるんだ。薬で簡易銀化すればある程度は防ぐことはできるが、それだって万能じゃない」
「はい」
「覚悟は、あるのか?」
「もちろんです。例え命が短くなったとしても、僕は、一度外の世界を見てみたい。僕がこの先何になるか、僕自身で決めてみたい。でも、」
ミライが最後の言葉を飲み込んだ。
「親方の後継者として期待されているから、その役を、果たさないと……」
弱々しく言って俯いたミライの前に、レインは、ポケットから封筒を取り出して差し出した。中央庁のロゴが入った封筒だ。
「?」
「早く戻って支度をしろ。帰り際に、中央庁の薬事部に顔を出して薬を受け取るのを忘れるな」
「え? もしかして?」
ミライはレインの手から封筒を受け取り、慌てて封を開けた。
「先週アンジーが、承諾書にサインして提出しに来た。ついさっき許可が下りた」
封筒の中には、キャラバン隊に同行して街を巡る許可証と、薬事部での銀化薬投与の処方箋が入れられていた。
「レインさん! ありがとうございます!」
「礼ならアンジーに言え。あいつは、お前のことは諦めて、新しい後継者を育てるそうだ」
「それってまさか!?」
「ユグドラシルの実のひとつは、アンジーが受け取って育てるらしい。もう一つはロードとライトが引き受ける」
いきなり、ミライがレインの体に抱きついた。
その背中が小刻みに震えている。
「早く帰れ。アンジーが待っている」
ミライは、顔を伏せたまま、思い切り走り出した。展望室のデッキの縁で振り返り、おでこが膝につくくらい深々と頭を下げて、そしてそのまま、階段に消えた。
「いい子に育ったな」
独り言のように、レインがそう口に出した。
「えぇ」
と、それに応じる声があった。埋め込み型の通信ユニットは、通話モードになったままだ。
「俺たちも、もうひと頑張りするか、アンジェラ」
「そうね」
レインの長靴がデッキの床をカツカツと叩く音が響く。
塔の壁面を螺旋状に這い上がるようにして、下から一際に大きな風が吹き上がってくる。
小さな旋風が硬い木目鋼板の板の上を転がるように動き、はらはらとピンク色の花びらを降らせていく。
その風が通り抜けた後の屋外展望室には、もう、動くものはなかった。