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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

幽霊弁慶御成敗

作者: 藤あじさい


 墨汁を染み込ませたような、真っ黒な夜だった。天高く昇る月は三日月で、街頭の少ないあたりでは十分な視界は確保できない。

 この町で、南北を隔てる大きな川を渡るには、大橋を渡るしかなかった。昔ながらのこの橋は、大人三人が手を広げてようやく歩けるほどの大きさで、車の通行はできない。そして街灯の設置は極端に少ない。大きく道を迂回すればきちんと車も通行できる橋はあるのだが、近隣の住民はもっぱらこの大橋を利用している。

 川を渡す橋の長さはおよそ、十五メートル。昼間はともかく、夜はこの間をわずかな灯りで渡り切れなければならない。ただでさえ、大人でも心細くなる夜の大橋。ちょうど真ん中に設置された、街灯が小さく辺りを照らす中で。


「――橋を渡りたくば、それを置いてゆけ」


 立ちはだかった大男。

 ギラリと鋭い目を光らせた彼は、天を突くように背の高く、橋が狭く見えるほどに体格が良い。時代錯誤の僧兵姿、手には大きな長刀。


「置いてゆけ。逆らうならば、勝負をしろ」


 低く威圧感のある声が、闇の中を響く。


「負ければそれは、置いていってもらう――」




 夜の大橋に現れる怪人の話は、この頃、周辺住民の間で噂になっていた。実際に遭遇した者や、それを奪われたと語る者はいながらも、あまりに夢現な状況に警察沙汰にはならないままだった。

 しかし住民たちは、自分の家族に口酸っぱく言い聞かせる。夜の大橋を通るな。あちらに行くのならば日が昇っているうちにしろ。

 幽霊弁慶に、食われてしまうぞ――……と。



◇◇◇


 オダマキ堂は、このあたりでは一番美味しい食事処である。昼間は昔ながらの定食屋、夜は雰囲気のある飲み屋と二つの顔を持つ店で、もう何百年も昔から代々続いている店なのだ。

 看板メニューは、季節の魚を使った焼き魚定食、それから秘伝のタレが使われたしょうが焼き定食。地元野菜がふんだんに使われた小鉢や、釜炊きの雑穀米もおいしいと評判だ。

 

 近隣では世代を跨ぐ常連客が多い。昼間は気軽に学生たちが多く利用し、夜は仕事終わりの勤め人が羽を伸ばしにくる。どの客も店主と、店主の妻である女将をよく慕っていて、料理に舌鼓を打って帰っていく。

 この店の昼のアルバイト――吉乃は、そんなオダマキ堂が大好きだった。だから厨房の入り口で、今日も台拭きを片手に熱弁を振るっている。


「女将さん、この店もったいないですって!こんなに素敵なお店なのだから、もっとお客さんが来てもいいのに!」


 吉乃は産まれも育ちもこの近くで、昔からこの店には馴染みがあった。幼い頃から、ちょっとしたご褒美での外食といえばオダマキ堂であり、女将の優しい笑顔に憧れていたものだ。だからアルバイト募集の話を聞いてすぐ、このオダマキ堂に押し入って面接の予約を取り付けたものだ。

 その時の女将は随分驚いて目を丸くしていたが、「ヨシちゃんみたいな明るい子だったら、楽しそうね」とにっこり笑って採用してくれたのだ。吉乃は改めて女将のことが大好きになった。でもだからこそ、オダマキ堂の今後の話になると、吉乃の熱弁は止まらなくなる。


「この辺りも、だんだん人が少なくなってるでしょ。私の同級生たちも、進学や就職で都会に出て行く人が多いし、人が少ないとオダマキ堂のお客も減っちゃいます。私、どうにかしてオダマキ堂へ市外からも人を呼びたいって思っているんです!このお店を、この先もずっと続くお店にしたいって思うんです!」


 吉乃の訴えは決して、的外れではない。過疎化による客足の減少は、オダマキ堂だけでなく、近くの客商売は皆が感じていることだった。だが、感じていても、どうにか出来る手立てが簡単に見つかるとも限らない。


「ヨシちゃんの言うとおりだけれど……でも、こんな片田舎だしねぇ。細々と成り立っているから、とりあえずは、今のままでも満足なのだけど……」

「だめですよ、女将さん!そんなんじゃ、あっという間に経営難になってもおかしくないです!」


 吉乃はここぞとばかりに、提案を押しつけた。


「女将さん、やっぱりメシコメですよ!あれで高評価をもらえれば、更なる繁盛間違いなしです!」


 メシコメというのは、グルメ店専用の口コミサイトである。近年、全国の大小ジャンル様々なグルメ店はこぞってこのサイトに登録し、客からの評価を求め、自店の宣伝へと役立てるようになっていた。

 オダマキ堂も最近、このサイトに店舗情報を載せたのだ。そこそこの反響はあったし、評価も低くはない。だが、いまいちぱっとしないまま今に至る。その理由のひとつが店主も女将も機械にめっぽう弱いことで、メシコメ登録に至るまでも、吉乃ともうひとりのアルバイトがどうにか協力して漕ぎ着けたという経緯がある。

 そのメシコメで、高評価を得るのは簡単ではない。常連客が良い評価をしてくれても、結局来客数によりコメント数が限られるからだ。だが、少し考えればやりようはいくらでもあった。

 メシコメは一度登録さえしてしまえば、店側が情報を出す頻度が少なくても、口コミで話題になればそれだけで集客に繋がる。つまり話題性のあるコメントさえ得られれば、大チャンスなのだ。


「実は最近、隣町に伝説のメシコメライター、食堂破り侍さんが出没したらしいんですよ」

「えっ、食堂破り侍……?」

「そうなんです。その人がコメントを残した店はもれなく、大繁盛が約束されます」


 これは噂でも誇張でもなく、事実だった。正体不明のメシコメライター「食堂破り侍」。その人の投稿するコメントには、熱狂的なファンが何人もついている。今まで食堂破り侍は、全国どこへでもふらりと現れて、コメントを残している。もちろん知れた有名店へのコメントもあったが、中には誰も知らない秘境にある隠れた店や、出来たばかりで歴史の浅いラーメン屋などもあった。しかし、そのコメントは的確かつ文学的でありいつも人々の食欲を掻き立てる。結果、食堂破り侍がコメントを残した店には、客が殺到するのである。


「オダマキ堂の料理には魅力があります!ちょっと宣伝が下手なだけで……料理の良さにさえ気づいてもらえれば、一発逆転ありますよ!」


 しかし女将は、困ったように首を傾けた。


「こんなところまで、来てくれるかしらね。ホラ、このあたり何もないし……。隣町は辛うじて、温泉があるでしょう?」

「この辺には、山もあるし川もあります!」

「見て楽しい山でも川でもないわよ。せめて、何か特産品でもあればねぇ」


 女将は吉乃の言葉を笑って流す。

 吉乃はそれを、もったいないと思うのだ。事実、オダマキ堂の料理は、都会の名店に引けをとらないくらい美味しいのだ。吉乃は春先に、親戚を訪ねて東京へ出た。そのときに有名なレストランへ連れて行ってもらったが、オダマキ堂には及ばなくてがっかりした覚えもある。


「それより、ヨシちゃん。お使いお願いしたのはどうだった?」

「あっ、これですよね。ちゃんと買ってきましたよ」


 吉乃は、戸棚から紙袋を手渡す。女将は受け取るなり中身を確認し、嬉しそうに声を上げた。


「お茶請けはやっぱり、六波羅亭(ろくはらてい)じゃないと。六波羅亭の和菓子は最高なのよ」

「女将さんったら、本当にここのきんつば好きですよね」


 そのとき、吉乃の背後から声が掛かった。


「おねえさん、それって橋の向こうにあるお店?」


 ぱっと振り返った先は厨房の外、客席である。伝票を片手にニコリと笑う青年に、吉乃は慌てて背筋を伸ばした。

 まだ常連というほどではないけれど、この数日、毎日のようにオダマキ堂へ食事を取りに来る青年だ。年齢は吉乃とあまり変わらないように見えるが、この辺りには仕事で来ているらしい。少し歩いたところの民宿に滞在しているとかで、いつも食事がてら、ぽつぽつと会話をして帰っていく。


「ごめんなさい、話が聞こえてしまって」


 ニコニコとした彼の愛嬌の良い表情のせいか、はたまた連日顔を合わせているから、すっかり顔馴染みだからか。吉乃も女将も、会話に加わろうとする青年をにこやかに受け入れる。

 なんなら吉乃は、温和なこの青年のことが最近ちょっとお気に入りだった。働いてるにしてはあまりにラフな服装で、どんな仕事をしているかは検討がつかなかったけど。


「あらやだ、聞こえてましたかお客さん」

「賑やかな話し声が楽しそうだっだから、つい。その店ーー六波羅亭?有名らしいですね。俺も行ってみようと思っていたんだけど」

「まぁまぁ、そうだったんですの!六波羅亭はおすすめですよ!数十年来行きつけにしてる私が保証しますとも!」


 ぱあっと顔を輝かせた女将が、勢いよく食いついた。彼女は、甘いものに目がないのだ。


「本格和菓子も素敵ですけど、ドラ焼きとか、おはぎとか、最中とか。おやつにぴったりな定番品も美味しいですよ。あとは、今年に入ってから洋菓子も始めて……」

「洋菓子ですか?和菓子屋なのに?」

「そうなんですよ。なんでも、可能性を広げる挑戦だとかで。私はまだ洋菓子は食べたことがないんですけれどね」

「ますます気になってきたなぁ。この後、行ってみようかな。何時までやってるお店ですか?夕方くらいには向かえると思うのだけど」

「六波羅亭は結構遅くまでやってますよ」


 でも、と声を潜めたのは吉乃だ。


「お客さん、気をつけたほうがいいかもしれないです。最近、夜は出るので」

「……出る?」

「幽霊弁慶ですよ」


 青年が目を瞬いた。


「ユウレイベンケイ……?」

「ここから六波羅亭に行くには、どうしても大橋を通らないとならないんです。大橋には街灯が少なくて、橋の両端とちょうど真ん中あたりに一つずつしかないんですけど……その中央の街灯の下で、夜に怪人がでるって噂なんです」


 吉乃は真面目だったが、あまりに突拍子もない話だったからだろうか。青年は、くすくすと笑って手を振った。


「うーん、お化けか。あんまり俺、そういうのは信じてないんですけど」

「単なる都市伝説じゃないんですよ!実際かなりの目撃情報がありますし、なにより……」


 吉乃は、ぐっと両手を握りしめて訴えた。


「六波羅亭帰りに出会ったら最後、せっかく買ったお菓子、取り上げられちゃうんです!」


 そうなのだった。噂の怪人・幽霊弁慶は、夜に大橋を渡る者に勝負を挑む。そしてその結果、戦利品として六波羅亭の菓子を取り上げてしまうのだった。というのも、この大橋を渡った向こう側にあるのは六波羅亭くらいだ。店の裏は山になっていて、登ろうと思えば県外に抜ける道もあるにはあるが、日が落ちてから山に入る者なんていない。だから必然的に、夜の大橋利用者は六波羅亭の客になるのだった。

 とはいえ、真実はわからない。吉乃も女将も、幽霊弁慶に遭遇したことは、ないからだった。


「真偽はともかく、気をつけるに越したことはないと思うんですけど――……」


 カラン、と扉の鐘がなる。

 目を向けると客がやってきたところだった。背の高い大柄の男性客は常連で、ちらりと女将と吉乃に目を向け、定位置である壁際の席に座る。青年の会計を始めた女将に促され、吉乃は常連客に水を運ぶ。


「……いつもの」

「塩サバ定食ですね!かしこまりました!」


 入れ替わりに、会計を終えた青年は店を後にした。



◇◇◇


 そんな話をしていた、翌日のことである。いつもより客足が少なく、早々にアルバイトを切り上げて良いと女将からの勧めがあった。

 折角早めに上がれたのに、すぐ帰るのはもったいない。吉乃の足は自然と川を隔てた先、六波羅亭に向いていた。


(昨日話していたら、私も食べたくなっちゃったんだよね)


 やはり疲れた身体には、甘いものだ。手提げ袋を見下ろし、吉乃はにこにこしてしまう。存分に悩みに悩み、選別したいくつかの菓子が入っている。

 六波羅亭は、老舗の和菓子屋。この地域で同じ食品を扱う店として、オダマキ堂よりも頭一つ格上である。地元育ちである吉乃は、もちろん六波羅亭も昔からよく知っていた。オダマキ堂と同じく老舗の名店だが、手土産品の和菓子は品によっては日持ちが利く。数年前からは発送での販売もしており、県外でも名が知れ始めている。


(オダマキ堂も、六波羅亭に続いてどうにかできないかなぁ……)


 そんなことを考えながら、何となく六波羅亭のメシコメのレビュー欄を眺めていた吉乃は、あっと大声をあげた。


「え!? 六波羅亭に食堂破り侍さんのレビューがのってる! しかも、昨日?!」


 隣町のうどん屋のレビューがあがっていたのは、先週である。近くまで来ているらしいのは気づいていたが、六波羅亭は目と鼻の先だ。


(これは本当に、もしかしたらがあるんじゃ……?!)


 興奮する吉乃の頭からは、すっかり危機管理能力が消えていた。

 気づいたときには日がほとんど沈んでおり、代わりに街灯がつき、そして例の大橋の上へと差し掛かっていたのである。

 橋の下からは川のせせらぎが聞こえる。闇に覆われた橋の上、向かう先にひとつだけ灯った街灯。そこへ、ぬっと現れた黒い影。


「その袋、置いてゆけ」


 はっとした時には遅かった。大男の影に、吉乃は凍り付いた。脳裏に、ひとつの名前が浮かぶ。


(幽霊弁慶……!)


 わずかに残っていた日が落ちる。薄闇の黒が増していく。橋の中央にひとつ灯る明かりが、大男を照らす。

 それはまさに、噂に聞く姿だった。どっしりと、橋を塞ぐように立つ姿。右手に持っているのは、長刀か。時代錯誤な僧兵姿。背が高く体格は良いが、明かりが十分ではない為に顔の造りまではわからなかった。ただ向けられた眼光が鋭いのは、わかる。

 吉乃は威圧感に、身体が凍りついていた。怪人どころか、このような殺気を向けられることが日常においてない。問いかけられているのは分かっているけれど、うまく思考もまわらなかった。


「命が惜しくば、それを寄越せ」


 再度投げかけられた言葉に、やっとのことで首を横に振った。身を護るように、紙袋を胸の前で抱きしめる。

 どうしても渡したくないというよりも、どうしたら良いのかわからなくなっている。冷静であれば、さっさと菓子を置いて逃げたかもしれない。

 大男は動かない吉乃と、彼女が拒否する様子をじっと見つめた。それならば、と長刀を構える。


「ならば、勝負だ。我が勝ったらそいつはいただく」


 言いながら、こちらに向かって歩いてきた。ガチャガチャと長刀が鳴る。大男の視線は、真っ直ぐ吉乃を射抜く。

 今度こそ、微動だにできなかった。このまま気絶してしまいたいとさえ思う。もちろん吉乃は戦えやしないし、命乞いをする勇気すらない。

 もうだめだと思った、そのとき。


「丸腰の女子に突然勝負をけしかけるのは、礼儀にかけていると思うが?」


 響いた第三者の声。同時に一陣の風が吉乃の背後から、大男へ向かって吹き抜ける。

 ざあっと通った風に吉乃の髪が靡く。思わず目を細めながら吉乃は大男の方を見て、驚いて目を見張った。

 それは、小柄な一人の人物だった。黒衣を纏ったその人は、風と共に走り抜けた勢いそのままに大男へとぶつかっていく。

 ガチン!と、何かがぶつかり合う鈍い音が響いた。見れば大男が振り上げた長刀を押し返すようにして、刀ーーいや、木刀が打ち付けられていた。得物同士が弾きあったそのままに、くるりと後ろ向きに器用にに宙を回う。ひらりと地面に着地した。それから、大男に木刀を差し向ける。


「そんなに勝負がしたいなら、私が相手になろう」


 間髪入れずに大男が、ダン!と足を踏み込んだ。力任せの容赦のない打撃。しかしそれは当たらず、紙一重のところでひらりと躱された。

 まるで体重を感じさせない動作。その黒衣の姿は、大男に比べてひどく小柄に見えた。どう見たって大男には敵いそうにないのに、実際は互角に見えた。不利などころか、小柄な身体を利用して立ち回る姿は、舞のように綺麗だ。


 突然始まった戦いに、脳内処理がついていかない。でも今目の前で繰り広げられている光景から、吉乃は目が離せなくなっている。

 

「武蔵坊弁慶……」


 吉乃のつぶやきに、大男と対峙している黒衣の恩人が、僅かに目を細めたような気がした。



◇◇◇



 その見事な身のこなしに見惚れていた吉乃は、大男の視線が自分から外れたからか、気が抜けてぐらりと体勢を崩した。そのまま後ろに尻餅を付きそうになったが、実際はそうならなかった。後ろから、支えてくれる人がいたのだ。


「武蔵坊弁慶って、やっぱりあの、源義経の部下の?」


 同時に声を掛けられた吉乃は、吃驚して飛び上がった。慌てて振り向き相手を認識して、更に驚いて声を上げた。


「お、お兄さん?!」

「大丈夫?店員さんも、六波羅亭に行ってたんだね」


 それは、オダマキ堂にやってきているあの青年だった。彼は吉乃には目を向けないまま、大男と黒衣の人物が対峙する様子をみている。

 落ち着いた声で、彼は言った。


「実はあの小さい方、俺のツレなんだ。店員さんたちに聞いた幽霊弁慶の話をしたら、食いついてね。試しに来てみたら、先に店員さんが捕まってたってわけ」

「……お連れさん、すごいですね。牛若丸みたい」


 吉乃も二人に目を向ける。そして現実感がないままに、ぽつりと呟いた。青年はその言葉に、やっと吉乃に視線を移した。


「なんで弁慶なんだろう? 確かに弁慶と言われても違和感のない姿だけれ、大男の怪人だったら他の名前でも良いような気がする」


 青年の疑問は最もだった。武蔵坊弁慶はそれなりに名は知れているが、誰でも知っている人かと言われればそうでもない。でもそれは、彼がこの辺りの出身ではないからそう思うのだ。


「この町の人だったら、誰でも弁慶だって思いますよ。僧兵姿の大男には、馴染みがあるんです」

「不思議だな。ここは別に、弁慶に歴史的に縁がある地ではないのに」

「それが、そうでもないんです」


 首を傾げる青年の方が、吉乃には不思議に思える。でもそれは、吉乃がこの町で生まれ育ったからたま。この話は近隣の住人ではないとピンとこない。それを知識としては分かっていても、突きつけられると認識の違いに、吉乃も戸惑った。


「この辺では有名な昔話です。信憑性は全くないんですけど……義経北上伝説って知ってますか?」


 義経北上伝説は、この国の各地で語られる伝説だ。有名な伝承の地は何ヵ所かあるが、基本的には北陸中心に分布している話である。


 武蔵坊弁慶の主――源義経は、鎌倉幕府を立ち上げた源頼朝の弟。彼には天賦の戦の才があったとされ、そのカリスマ性と行動力で、それまで政治の中心にいた平氏を滅亡にまで追い込んだ歴史上の人物である。そこに至るまでの戦いは源平合戦として知られ、平家物語などが有名だ。


 義経が生まれたのは、源氏が平氏に負けた平治の乱の頃。義経は父義朝が討たれた後、幼少期を鞍馬山で過ごす。その頃に生涯の忠臣である武蔵坊弁慶と出会い、そして奥州平泉ーー今の岩手県あたりの大豪族、藤原氏を頼って京を後にする。義経は成長すると、兄頼朝の挙兵を機に鎌倉に駆けつけ、平家を滅ぼす。そのクライマックスは壇ノ浦の戦いとして知られている。


 しかしその後、義経を待つのは悲劇だ。兄に叛意を疑われ、追われる身となった義経が最後に頼ったのは、かつて身を寄せていた平泉だった。しかしそこで裏切りにあい、遂には討たれてしまう。――義経北上伝説とは、更にその後を語る伝説だ。


「義経北上伝説……。討たれたと思われていた義経が、実は生きていた。生きて、平泉から更に北へ逃げ延びたという伝説だよね。義経一行が立ち寄ったとされる、ゆかりの伝承が残されているんじゃなかったかな」


 とはいえ、そこに史的な根拠はない。けれど当時から義経は多くの人に慕われていたらしく、生きていて欲しいという人々の願いから、そのような伝承が生まれたとされている。果てには蝦夷に辿り着いて暮らしたとか、そこから大陸に渡りチンギス・ハーンとなったとか言われるのだ。


「この辺りも、その義経北上伝説がある地のひとつなんです。平泉の難を逃れた義経一行は、各地を転々とした後で、このあたりに辿り着いたんですよ」

「意外だな。ここは、他の北上伝説の地とは随分違うような気がするんだけど……」

「立地ですよね。不思議に思うのも当然です。北上伝説があるのは勿論、平泉より北。でもここは、平泉からは関東寄りですから」


 そうなのだ。一応北陸ではあるけれど、義経が北へ向かう足取りとしては不自然なのである。


「でも、それには訳があって。このあたりにだけ伝わってる、言い伝えがあるんです」


 それは、こんな話だった。

 平泉から逃げ延びた義経一行は、そのまま北へと逃げていこうとした。実際は一度北へ向けて出発し、そのまま蝦夷を目指したらしい。しかしほどなくして、彼らは方向を変える。一度ぐるりと迂回し、再び南へ向かったのだ。


「京に居た頃の義経の恋人であった静御前が、義経を追って既に近くまでやってきていたんです。義経が平泉で襲撃される前日には、本当に目と鼻の先まできていて。彼女を案内してきたのは、奥州藤原氏の家臣の中でも義経に心酔していた者だったといいます。藤原泰衡が義経を討ち、そして鎌倉に討たれた一連の流れで身の危険を感じ、静御前と家臣はこの辺りの集落に身を隠すことにしたんです」


 運良く、静御前と家臣は鎌倉からの追手をやり過ごすことができた。そして、伝手を辿ってようやく義経にそれを知らせることができた時に、義経一行が向かう先を変えたのだ。


「この町の――ちょうど、この大橋を挟んだ対岸で、やっと静御前と義経は再会することができたんです。当時はこの橋はなかったので、川越しに二人は互いの姿に涙したって言われているんです。それで弁慶が、近くで木を倒してきて、川に急ごしらえで橋を渡したって言われているんです」

「思いのほか、ロマンチックな伝説だね」


 吉乃は、そうでしょうと頷いた。吉乃はこの伝承が、なかなかにお気に入りなのだ。


「義経一行はそのままここを隠れ里として、生きたみたいですよ。町の色んなところに、謂れのある場所が残されています。そして、事あるごとに義経一行の話を聞かされるんです。私にとって長刀持ってる大男は弁慶以外には思いつきません」

「なるほどねぇ。そりゃあ弁慶だって思うわけだ」

「……まぁ、あそこにいるのは、普通に考えて弁慶を気取って騒ぎを起こしてる、迷惑な人なんでしょうけど……」


 吉乃は、未だに対峙している二人を見つめる。暗がりではっきりとした容姿はわからない。でも、吉乃が想像していた弁慶そのものだ。――そもそも、今回の幽霊弁慶の騒ぎも、ただ容姿だけで弁慶だと騒がれたことではない。

 橋を通る者に立ちはだかる大男。勝負を持ち掛け、戦利品を獲る。それは、ちょうど義経が幼少期、牛若丸と言われた頃の弁慶との逸話そのものだったからだ。だから、盛り上がった。弁慶の幽霊が蘇り、人々を脅かしているのだと。弁慶はああやって、再び牛若丸が自分の前に現れるのを待っているのだと。


「いいや……あれは弁慶だ。弁慶として生み出されている」


 青年がぽつりと呟いた。吉乃がその意味を聞き返すよりも先に、彼は誤魔化すように言った。


「それにしても、橋を渡る者に絡むなんてね。五条大橋の焼き増しだ。京の五条大橋で、弁慶は平家から刀を奪っていたんだよね。千本集めるって豪語して、その時に牛若丸に会った。でも、ここの幽霊弁慶は刀を狩る代わりに菓子を狩るのか。……ん? 待てよ。菓子、弁慶、六波羅……」


 顎に手をあてて考え込んでいた青年は、はっと目を瞬かせて吉乃に尋ねる。


「店員さん、今日買ったのって何のお菓子だった?」

「え……どらやきと、きんつばと……あ、あと焼き菓子です。最近始めた洋菓子、試して見たくて。残念ながら、そこで全部潰れてますけど」


 襲われた時に落として、挙句に自分で踏んずけてしまったのだ。もう食べれない。がっかりして肩を落とす吉乃に、青年は真剣な顔だ。


「洋菓子って、六波羅亭が最近始めたって言ってたやつだよね」

「そうです。春先から販売開始してます」

「あー、そういうこと。みえてきたな」


 なんだか納得したらしい青年は、にっこりと吉乃に笑いかける。


「安心して。実は俺たち、あの大男を捕まえるためにやってきたんだ。それで、ちょっとだけ協力してくれるかな」

「は、はい! 私で良ければ……!」


 爽やかな青年の笑顔に、思わず吉乃は顔が熱くなるのを感じた。そういえば、まだ抱き留められた体勢のままである。急にそれを意識してしまい、吉乃は心拍数があがっていくのがわかった。

 けれども青年は気づかないようで、向こう側にいる連れのその人へと声を掛けた。


「おーい、わかったぞ!時間稼ぎはもう必要ない!」

「了解」


 短く声が返ってくる。その時に、吉乃は気づいた。


(あの人、女の子だったんだ……!)


 黒衣の人は確かに華奢であったけれど、まさか女性だとは思わなかった。あの軽々とした身のこなし。木刀を手にした姿は堂々としており、様になっている。


(か、かっこいい……)


 つい吉乃は見惚れた。それにしても本当に、牛若丸のようだった。弁慶と牛若丸の五条大橋の出会いが再現されれば、まさに今の二人のようになるのではないかと思わされた。五条大橋では、弁慶は牛若丸に敵わなかった。そして心酔して、忠臣となるのだ。


 黒衣の少女は、大男を嘲笑うかのように攻撃をことごとく躱していく。

 でも、大男も引かない。隙を一切見せずに振り回す長刀のせいで、少女は大男に近づけない。

 実力は互いに互角に見える。しかし、持久戦に持ち込まれれば少女の方が不利かもしれない。ひらりひらりと舞う少女の方が、圧倒的に動かされているからだ。

 それを本人も自覚していたらしい。一度大きく距離を取り、大男から数メートル先の欄干へと着地する。そして青年の方へ一瞬視線を送り、鋭く叫んだ。


「そろそろ頼む!」

「うん、そうだな……今回は、義経にあやかろうか」


 青年は少女の声に頷いて、立ち上がる。吉乃の前に立ち、青年は口を開いた。


「兵法の基礎たる物は迅速なり、戰場の勝利を掴むは包囲なりーー武の真髄、ここにあり」


 青年が朗々と唱えたそれは、詩のようだった。吉乃は意味を理解することができない。ただ、対峙する二人の反応は違った。

 青年の言葉を聞くなり、大男は目を剥いた。そして少女は、口元に笑みを浮かべた。


「……きたッ」


 呟き、強く欄干を蹴って飛び出す。向かう先には大男。飛び込んでくる少女を落とそうと、容赦なく長刀が振り下ろされる。それを彼女は、真正面から木刀で受け止めた。


「互角……?!」


 大男と少女。どちらの力が強いかは、考えるまでもない。だが少女の木刀と大男の長刀は、拮抗した力で押し合っていた。そう。先程と比べて、明らかに少女の力が増しているのだ。


(さっきの……あの詩の力……?)


 一体、どんなカラクリなのかはわからない。でも恐らく、青年が口にしたあの言葉がトリガーなのだ。あの詩を聞いた少女は、まるでスイッチが入ったように大男を圧倒する。

 大男も少女の変化に気づいているのだろう。先程とは異なる力に、焦るように唸る。

 ……でも、もう一歩届かない。互角まで上り詰めたのは良いものの、その先は足りないようだった。幽霊弁慶は、強い。このままでは少女も、圧し負けるかもしれない。

 そのとき、青年が吉乃の肩を叩く。顔を上げた先の青年の笑みを見て、吉乃ははっと我に返る。そして息を吸い込むと、先程教えられた通りに叫んだ。


「常連さーん!いつも塩サバ定食、おいしいですかー?!」


 吉乃の声に、ギクリと一瞬動きをとめたのは大男だった。一瞬の緊張の緩みに、僅かに大男の腕が揺れる。

 その隙を、彼女は見逃さなかった。少女が、一歩身体を引く。急に拮抗していた力のバランスが崩れ、大男が前のめりになる。大きく振り上げられた木刀。

 そして大男が防ぐ間もなく、少女は腕を袈裟切りに振り切った。


「幽霊弁慶、成敗!!」


 木刀は、まっすぐ大男の脳天に直撃した。その衝撃で、どうっと巨体が倒れ込む。振動で、橋が揺れた。

 それから、彼は起きあがることはなかった。


◇◇◇


「ありがとう、君の協力のおかげだ」

「い、いえ……大したことしてないです……!」


 頭を下げる青年に、吉乃はとんでもないと首を横に振る。

 実際吉乃が青年に頼まれたのは、本当に簡単なことだった。つまり大男に声をかけることである。吉乃は青年から、大男の正体がオダマキ堂の常連であることを知らされ、声をかける内容は何でもいいが、オダマキ堂を思い出させるようなものがいいと言われた。そして飛び出たのが「塩サバ定食」である。


「まさか、幽霊弁慶が本当に常連さんだったなんて……」


 大男が起きあがらないことを確認して、そろそろと吉乃は青年と共に、少女と大男に近づく。

 確かに背の高さや体格は似ていた。けれども、あの常連客は人を襲うようには思えなかった。いつも優しい顔をしていて、吉乃にも丁寧だった。


「見かけでは判断できないことは、多いよ。あちらでは良い顔をしていても、こちらでは何をしているかわからない。誰も彼もそんなものだ」


 少女は呟きながら、どこかから取り出した縄で意識を失った大男を手早く拘束していく。その手際の良さに目を奪われながら、考える。

 そんなものなのだろうか。幽霊弁慶は、人々を脅かしていた。だから、その正体である常連さんは悪。吉乃に優しくしてくれたことも、良いお客さんだったことも、関係ない。……そうなのだろうか。

 思わず考え込み俯く吉乃の肩に、そっと青年が触れた。


「店員さん。……このことは、他言無用でお願いしたいんだけれどね」


 前置きして、青年が切り出した。


「実はこの男、とある組織によって超人的な力を持つように生み出された存在なんだ。それこそ、弁慶のようにと望まれてね。でもその組織から逃亡して、行方が分からなくなっていた」

「私たちは、それを成敗する為にやってきた正義の味方ってわけ」


 少女も青年に同意するように言う。

 驚く内容だが、二人は嘘をいっているようには思えない。なにより、吉乃は今まさに人並みはずれた戦いを目にしたばかりである。納得せざるを得なかった。


「あなたたちも、何か特別なんですか……?」

「さて、それは教えられないな。企業秘密だから」


 にっこりと笑って、青年は誤魔化した。吉乃は深く追求せず、地面に転がる大男に目を向ける。


「常連さん、どうなってしまうのでしょう」

「彼は少し先の町まで噂されるほど、迷惑をかけてしまったからね。一旦俺たちと来てもらって、そこから反省してもらうことになるのかな」

「そうですか……」


 もうオダマキ堂には来られないのかもしれない。そう思うと、残念な気持ちだった。


「でもこの男、していたのは悪いことばかりではないから。手段は良くなかったけどね」


 意外にも、フォローを入れるように口を開いたのは少女だ。


「六波羅亭の菓子だよ。幽霊弁慶が取り上げていたのは、あの店の菓子ばかりだろ。しかも昔ながらの和菓子ではなくて、洋菓子の方」

「あっ……」


 吉乃は地面に放り出された手提げ袋を見た。すっかり潰れてしまって食べられたものではないが、その中には確かに、洋菓子が含まれている。

 そういえば、今まで吉乃は幽霊弁慶に遭遇しなかった。六波羅亭には何度も通っていたし、時には日が暮れた後に橋を通ることもあったのに。……それは、吉乃がずっと買っていたのが和菓子だったかららしい。


「あの店も、なんとなくきな臭いと思ってたけどね。どうやら幽霊弁慶は元々、六波羅亭に飼われていたみたいだな。だから、彼は気づいたんだろう。あの洋菓子には良くないモノが入ってた」

「それが何かはちょっと、店員さんには言えないけど。まぁ、摂取し続けるとそこの男みたいになる薬物ってとこかな」


 最後まで言われなくても、吉乃も薄々だが感づいた。つまり、幽霊弁慶が元々いた組織とやらの危険物なのだろう。


「まだ洋菓子販売は、始まったばかりだった。販売自体が、ちょうど夕方から夜に掛けてのみだったんだ。だから幽霊弁慶は、洋菓子を買って帰る客に勝負を持ちかけ、菓子を奪った……」

「やり方は効率悪いけどな。こいつなりに、考えた結果だったんだろう」


 幽霊弁慶が菓子を奪うものだから、結局ほとんどの客は洋菓子を口にしないでいたらしい。それこそが幽霊弁慶の目的だったのである。


「じゃあ私たちを、守ってくれていたんだ……。ありがとう、常連さん」


 思わず呟いた吉乃に、青年が優しく笑った。


「店員さんが感謝していたってことは、伝えておくよ」

「ありがとうございます」

「あ、もうひとつ。店員さんに見て欲しいものがあるんだ」


 青年はポケットを探り、なにやら細い棒状のものを取り出した。それを吉乃の目の前に突きつける。吉乃は出されたそれを見つめたけれど、なんだかよくわからなかった。


「なんですか、これ。ボールペン……?」

 

 首を傾げて青年と少女に目を向ける。すると何故か二人はサングラスを掛けている。吉乃が驚きの声を上げる前に、青年が微笑んだ。


「悪いけど、全部忘れてね」


 カチッという音と共に、ボールペンの先の方に光が灯る。あまりに目映い白い光に吉乃は思わず瞳を閉じた。……どこかの映画で見たような展開だな、と思いながら。






 ――――――そして。






「あれ…………?」


 目を開いた時、吉乃は大橋をちょうど渡り終えた位置に立っていた。日はすっかり暮れている。


「私、どうしてここにいるんだっけ。六波羅亭に買い物にいこうとして……」


 そこから先が、よく思い出せない。しかし六波羅亭に行ったのならば買ったであろう菓子は、持っていなかった。


「私、何してたんだろう……?」


 首を傾げた吉乃はそのまま、帰路に着いたのだった。


◇◇◇


「大変よ、ヨシちゃん。あの話聞いた?!」


 出勤するなり勢いよく話かけてきた女将に、吉乃は目を丸くした。


「あの話って?」

「六波羅亭の洋菓子よ!あの新規事業に関わっていた人たちが重大な資金横領していたらしくて、朝早くから警察沙汰になってるのよ」


 これには、驚いた。近所でそんな事件が起きているとは。


「あれ。そういえば、あの常連さん来ないですね」


 この時間に決まって訪れる大男だ。ほとんど毎日、欠かさず来てくれていた。それなのに姿が見えないことが、彼の身に何かあったのではないかと思ってしまう。

 しかし女将は、考えるように目を伏せて言った。


「そうねえ……もしかしたら、もう来ないかもしれないわね」

「え、どうしてですか?」

「あら、ヨシちゃん知らなかったの。彼、六波羅亭の和菓子職人さんだったのよ。でも、春先から洋菓子の方の部署に回されたとかで……」


 全く知らなかった。女将はなかなかの情報通で、この近辺で彼女が知らないことは何もないのでは、と吉乃は度々疑っている。


「横領事件は上の方の人たちだから、職人さんは関係ないでしょうけど。流石に嫌になっちゃったかもしれないわね。あれだけの腕があれば、他のお店でもやっていけるでしょうし」

「そうなんですね……」


 女将がいうのなら、きっとそうなのだろう。良い食べっぷりを毎日楽しみにしていのに残念だった。

 と、何となくメシコメサイトを開いた吉乃は、あるものを目にして悲鳴を上げた。


「た、大変です!女将さん!」

「ヨシちゃん、どうしたの?!」

「メシコメ、オダマキ堂にコメントがついてます!」

「あら、また常連さんがつけてくれたのかしら」


 のんびりと返した女将に、そうではないのだと吉乃は目を剥いた。


「違いますよ!あの、食堂破り侍です!女将さん、昨日って常連さん以外はどんなお客さんが来てました?!」

「ええ……侍の方は確実にいらっしゃらなかったけれど……」

「食堂破り侍っていう名前は、ペンネームだから実際は侍じゃないんですって!」


 勢いよく詰め寄る吉乃に圧倒されて、女将は昨日の客層を思い浮かべる。


「どうだったかしら。おひとりの男性が何人かと、ヨシちゃんくらいの男女カップルが一組いらっしゃったけれど……」

「やっぱりどんな人だかわからないかー!覆面ライターだから仕方ないのだけれど……!」


 吉乃が端末を握りしめた時、厨房の奥から血相を変えた男性が一人やってくる。料理人見習いをしている、店主の弟子だ。


「おおい、女将さん!さっきから問い合わせの電話がずっと鳴りっぱなしで……予約とかできるのかって、どうしましょう!俺も師匠も、対応しきれなくて!」


 女将と吉乃は顔を見合わせた。

 どうやらオダマキ堂の大繁盛は、すぐ側まで足音を響かせてやってきているらしかった。




オダマキ堂

評価:★★★★★

レビュー:昔ながらの定食屋で、落ち着きと風情のある名店。近隣住民からも、長く愛されている店である。看板メニューは季節の焼き魚定食と、秘伝のタレを使った生姜焼き定食。筆者が食べたのは、この季節に美味しい塩サバ定食だった。魚の美味しさだけでなく、添えられた小鉢、釜で炊いた雑穀米など細やかな工夫に料理人のセンスの良さが光る。毎日でも通いたくなる、優しい味である。

この辺りは義経北上伝説が受け継がれている。他には類を見ない伝承が口伝で伝わっており、民族学的に今後注目されてもおかしくない。中でも大橋は、かつて吉野で別れを余儀なくされた恋人たちが、再会したというロマンスに溢れる縁結びスポット。


しづやしづ しづのをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな


かつてそう詠い舞った静御前は、ここの伝承では彼女が望んだように時を戻すことができたのだろうか。

……おいしい食事に舌鼓を打ちながら、そのような歴史ロマンに思いを馳せてしまった。

(食堂破り侍)



おわり


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