悪魔「なんでも願いをかなえよう」社畜「有休ください」
今日も、つかれた。
時計の時刻は夜の12時すぎ。毎晩走っては終電に飛び乗っていた。
ホームで息を整える男をレールの向こうから近づいてくる明かりが照らした。
ここに立つといつも思うことがあった。今一歩踏み出せば明日は会社に行かなくてもいい。その思いは日々強くなる。だけど、そのたった一歩を踏み出すことができないでいた。
車内にのりこむと、終電だというのに席は埋まっていた。つり革をつかむとバッグの重さがずしりと肩にのしかかる。電車が滑り出し、揺れるたびに両足をふんばった。
『終点です。みなさまお忘れ物のないようにお気をつけください』
車内にアナウンスが流れる。いつもの時間いつもの場所で電車を降りた。
自分の人生こんなはずじゃなかった、なんてことは言えない。それは挑戦したことのある人間だけが口にしていいセリフだ。
アパートの一室に明かりが点る。
そこはまるで屋根と壁しかないような部屋だった。彼にとってはただの寝起きするための場所でしかない。
晩御飯を食べようかと、テーブルにおいたコンビニの袋を見た。
だけど、手がのびない。
一歩も動きたくなかった。できるのは床に座り込みながらぼんやりするぐらい。
それでも、少しだけ仮眠をとったらすぐに会社に向かわなければいけない。まだ手をつけていない仕事はたくさん残っている。
その後のことを考えれば考えるほど、男の思考は鈍磨していく。もう何も考えたくなかった。眠いのに眠くならない頭はぼんやりとしている。
不意に気配がした。
ほかに誰もいないはずの部屋だった。
男が顔をあげるとそこには見知らぬ男が立っていた。
彼の姿をぼんやりと観察する。目が行くのは頭部から生えているもの。羊のようにねじれた角だった。不自然さはなく、彼が人間じゃないんだなと男は理解した。
「驚かないのか?」
「ええ、まあ。物盗りにはみえませんし」
友好的な笑みを浮かべているが、その目は冷たい捕食者のものだった。その姿から思い浮かべる単語はひとつ。
「おそらく貴様が想像しているとおりの存在だ。強い願いを持つ人間の前に現れてその願いを叶える」
そして、その代償に魂をもらっていく。そう言って悪魔は取引をもちかける。
「それで、なにか望みはないか?」
「……ほしいもの」
「なんでもいい。巨万の富でも絶世の美女でも。生きてる限り何かしらほしいものがあるだろう」
ぼんやりと見上げていた男の口がかすかに動く。小さな声をかろうじて聞き取った。
「……有休」
「なに……? 有休だと?」
「有給休暇、ほしいです」
枯れ果て疲れ果てた男に嘘をつく余裕などない。その口からもれたのはまぎれもない彼の本心。
「本当にそれでいいのか? 休みがとれたらやりたいことがあるだろう。それを言ってみろ」
「……わからないよ」
うつむく男の目元からぽろぽろと涙があふれだす。
「もう一度聞くぞ。本当にそれでいいのだな。後からやっぱりなしというのは受け付けない」
念を押されても男は願いを変えることはなく、悪魔は納得いかないままその願いを受け入れた。
朝、目をさました男は枕元に置いたスマホに手をのばす。目覚まし機能をオフにすると、のそりと体を起こした。
朝食をとっている余裕はない。
寝不足のぼんやりした頭でいつも通りにネクタイを締める男に、たまらず悪魔は声をだした。
「待て、望みどおりに休みにしたと言ったはずだ」
「あれ? 悪魔さん」
「そうだ。まさか、昨日のやり取りが夢だとか思っているのか?」
「いえ、ちがうんです。もうお願いかなえてもらったのにどうしてかと思って」
「契約を結んだ相手の様子を見に来ただけだ。それよりも、その格好はどういうつもりだ」
「はい、有休の日だから会社いかないと」
悪魔には男のいっていることが理解できなかった。
「有給出社すると電話にでなくてもいいし、仕事が早く終わったらすぐに帰ってもいいんです。なんなら昼飯もちょっと遠出して遅くなっても気兼ねなく戻ってこれるんですよ」
昨晩は死んだようだった男の顔に感情が出ていた。その口元には幸せそうな笑みさえ形作っている。
「それじゃあ、行ってきます」
男は出社したが落ち着かなかった。悪魔を疑っているわけではないが、本当に有休なのかと不安はある。
自分のデスクに座り仕事を始めると、ドスドスと騒々しい足音がオフィスの奥から響いてきた。
男の体がびくりと跳ね上がる。
足音の方に目をむけると、パーティションの切れ目に赤いボールが見えた。男が身構えると、ボールがぐいと差し込まれる。磨き上げられたボールには目が二つあり、それがぎょろりとにらみつける。ハゲ頭の男が彼の上司であった。
「どうしてオレがここに来たかわかるか?」
不機嫌を前面に出した顔はすこしの刺激だけで豹変するだろう。
『わかりません』と答えれば説教は長引く。
『何が悪かったか教えてください』とへりくだれば、そんなこともわからないからおまえは無能なんだと怒鳴られる。
このクイズには正解した試しがない。まるで移動するゴールにシュートを打っているようだった。
思い当たるとしたら有給休暇の件だろう。
落ち着け。
強く意識して気持ちを静めていると、目の前にぐいと一枚の紙が押し出された。
「ここ、書き直せ」
太い指が有休届けの理由の欄を差していた。そこには『残業続きで疲れ果てたので』と書かれている。書いた覚えのないものだったが、確かに男の筆跡だった。
「あ……はい、すいません」
二重線で消し、同じ筆跡で“私用のため”と書き直す。
「まったく、多少体調を崩したところで本当に忙しいときは病院にいってる暇もないだろ」
不満げに男を一瞥すると、また足音を立てて去っていった。解放されてほっとしていると隣の同僚が小声で話しかけてきた。
「すごいな、有休とれたなんて。どんな手をつかったんだ?」
同僚は信じられないといった顔をしている。
以前に、別の社員が『友人の結婚式だから』と有休を申請しようとしたことがあった。そのとき『今年一日も使わないならいいよ』と言われていた。
「えっと、言いにくいのですが……」
「なんだよ、隠すなよ」
「悪魔にお願いしたんです」
男の答えに同僚は呆気にとられた顔をした後、笑いをこぼす。
「なるほど、悪魔かぁ。あの係長に申請通すなんて、神様か悪魔に頼らないと無理だよな」
それからはオフィスにはキーボードを叩く音と電話をする声だけが響いている。忙しさは変わらないがいつも通りの風景だった。今日が終われば、男は二度とこの風景を見ることはなくなる。
「おい、まずいぞ!」
鼓膜が震えるような太い声で男の名前が呼ばれた。
「本社の人間が来たらしい。隠れろ!」
男は急いでノートパソコンを抱えて、使われていない会議室に逃げ込む。長机と椅子が並ぶ広い部屋はがらんとしていた。コンセントを探してきょろきょろと視線を室内にめぐらせた。
「おい、なぜいきなり隠れたのだ?」
一人きりだったはずの部屋にいきなりもう一人の声が増えた。男は驚きながら振り返る。そこにいたのが悪魔だと知り、ほっとため息をつく。
「ボクはいないことになっていますからね。本社の人間に見られたらまずいじゃないですか」
さも当たり前といった口調で説明する男に、悪魔はため息をつきたくなる。
「人間はしがらみだらけだな。もっと欲望に忠実になったらどうだ。だいたい、この会社は貴様一人が一日休んだぐらいで回らなくなるものなのか?」
男は平社員でそれほど大きな責任を負う問題を抱えているとは思えなかった。
「基本的にスケジュールに追いついていないから一日休むと終わりなんです。年中炎上してるし、問い合わせのクレームがばんばんきます。客はこちらの有休消化なんて知らないですからね。休むってことは、それはもう仕事を放棄しているのと一緒なんです」
説明している間もキーボードを叩く音は止まらない。
「中小企業なんてどこもこんなものですよ。どうせ人間のやることです。悪魔さんにはわからないことでしょうけど」
そういうと自嘲気味に男は笑ってみせた。そんな表情を前に、悪魔は何も言うことなく姿を消した。
そろそろ本社の連中も帰っただろうとオフィスに戻り、男はさらに仕事を続けた。
時計の針が立てた音になんとなく顔を上げると0時を差していた。重なった二つの針をぼんやりと見上げると、背もたれがギシリとなった。
ふと空いた思考のすき間。
自分が何をしようとしていたのかを思い出せなかった。だから、さっきまでの自分の動きをなぞってみた。
17時、トイレにいこうとしたら定時で帰る営業とすれ違う。
20時、取引先からメールが届く。納期を早めてほしいという内容だった。
23時、頭が重たくなったので自販機に向かう。エナジードリンクは売り切れていたのでコーヒーにする。
0時…………。
「あ、そうだ。有休おわりかぁ」
ぽろりと声が漏れてしまった。
今日も終電だなと心の中でつぶやきながら、急いで会社を出た。
アパートに着くと、力尽きたように布団に倒れこんだ。
「休みにしたことは結局いつもと変わらなかったようだな」
うつぶせのまま視線を上げると、そこには悪魔。
「普通だったら、今日は有休だから今日は早く帰っていいという話になるはずだ」
「その理論ですと今日有休だから明日の分までやっていけ、となるんですよ」
のっそりと体を起こすと男は力のない笑みを浮かべた。そんな様子に、まるで話がかみ合わないと悪魔はいらついた。
「わからない。なぜ従業員の月の残業時間がぴったり45時間なのだ? もれなく全員というのはさすがに偶然ということはないはずだ」
「どうしてそんなことしってるのですか?」
「あのあと調べたのだ」
「物好きですねぇ。一応説明しますと、45時間と端数ってことですよ。うちの会社は45時間以上残業がない優良企業なんですよ」
「端数のほうが45時間を大幅に超えているではないか」
悪魔の指摘に男は困った表情を返すばかりだった。
「それにしても、悪魔さんは人間のことに詳しいんですね。道端に転がっている石ころ程度にしか見られていないと思っていました」
「そんなことはない。人間達は我々を恐れるが、別の場所では憐れんだり嘲笑ったりもする。我々を最初に受け入れたのは人間たちだった」
悪魔として、昔から人間に呼び出されてはその願いをかなえてきた。中には裏をかいておいしいところだけ持っていこうなんて悪知恵を働かせる人間もいた。そういう人間のギラギラしたところはとても好きだった。
「そんな人間が魂を狩り取られるときになると必死に命乞いを始める姿を見て、もっと人間のことが好きになった」
「悪魔さんって、本当に悪魔なんですね」
「そういう貴様は人間らしくない。働かなくていいほどの富を得れば今の苦境から脱することができるはずだ。満足したら終わりとでもいいたいのか。理想が高いのか低いのかまるでわからない。それとも、修行僧のようにつらい事に立ち向かう趣味でもあるのか?」
悪魔には悩みがあった。最近の人間といえば、なんでもいいからすぐに命を奪ってくれという者が増えていた。願いがないなら代償はもらえないと帰ろうとすると、じゃあ昔好きだったハンバーガーひとつなどといってくるんだからたまらない。
神秘が科学に追いやられた現代で悪魔に頼るものは少なくなった。だからこそ、よりやりがいのある仕事を欲していた。
「その理由を話す前にボクが子供の頃のことを聞いてもらえますか」
「いってみろ」
「学校で遠足にいったときの話です。道が二つにわかれていて、ひとつは平坦でまっすぐな道。もうひとつは起伏のあっていろんな仕掛けもあるアスレチックみたいな道。みんなが選んだのはアスレチックのほうでした。みんなが楽しそうにはしゃぐのを横目にぼくは平らな道をゆっくりとすすんでいました」
「ほう、それで」
「ボクは思ったんです。やりがいとかこだわりとかよりも安心できて楽なほうがいいって。お金をもらったとしても無限にあるわけじゃない。不安なんですよ。この会社でも、ノルマさえ達成すれば人並みの生活ができるんです」
「そんな貴様がどうして死ぬことを選ぶ。怖くないのか?」
男の顔を見ると、その表情は安らいだ静かなものだった。
今まで見てきた人間の表情を思い出す。代価をもらいに現れると多くは恐怖に顔を引きつらせていた。怯えてすすり泣くものもいた。
それなのに目の前の男はまるで雑談のような顔で会話をしている。
「そんなことないですよ、十分に怖いです。でもね、ボクは昔から死ぬときは安楽死だって決めていました。首をつったら苦しいですし、線路に飛び込んだら狂うほどの恐怖を味わうことになるじゃないですか。なにより中途半端に助かったときのほうが怖い。ボクは安心しながら死にたいんだ」
「では貴様の本当の願いは楽に死にたいということなのか?」
「そうですよ」
「……だましましたな」
「結果的にそうなりますが、悪魔さんもこだわりとかやめて楽なほうをえらびましょうよ。ノルマとかあるんでしょう」
「そんなものはない。すべては自発的にやっていることだ」
「えぇっ!? じゃあ、わざわざ人間のお願い事をきいて叶えてあげてるんですか」
男から向けられた憐れみのまなざしに悪魔はひくりと口元をゆがめる。
「おまえみたいな死にたがりもいたが、こんなことを言われたのは初めてだ。もういい、有休を終わりにしてやろう」
悪魔の白い指先がひたいにむけられた。頭の中に冷たい何かが広がるのを感じると、男のまぶたがすっと落ちた。深い暗闇に男の意識は飲み込まれた。
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ゆっくりと浮上するように男の意識が覚醒する。
目を開けたが死んだということがあまり実感できなかった。
体を起こすとふとんがずり落ちた。どうやらあの悪魔は律儀に死んだ自分を布団にねかせてくれたらしい。
日はすっかり高く上っている。幽霊は別に日中でも活動できるのだとはじめて知った。さらに意識は冴え冴えとしている。常に寝不足だった生前とは大違いであった。
幽霊になった男は何をすればいいか悩んだ。思いついたことといえば会社に向かうことだった。
ふわふわと飛んでいけないことを残念に思いながら駅に到着する。真昼間の駅前は気楽な雰囲気だった。時間を惜しんで早足になるサラリーマンの姿はなく、電車の中もほどよい間隔でみんな座っている。
会社についた。いつも憂鬱だった入口も気負うことなく通れる。
デスクがならぶオフィスの奥に見慣れたハゲ頭を見つけた。いつかそのハゲ頭を手の平でぴしゃりと叩いてみたいと思っていたのだ。
手をのばそうとしたところで目が合った。しっかりとこちらを見ている。
「おまえ、なんで……」
「え、ボクが見えているんですか? 係長ってもしかして霊感あり?」
「なにを言っているんだ。無断欠勤したとおもえばわけのわからないことを。さっさと仕事を始めろ」
それはひどいとおもう。さすがに死んでまで働きたいとは思わない。
以前、同僚が退職願を出したことがあった。『残業しすぎで死んじゃいます』と泣き出すと、『死んだぐらいで辞められると思うな』と退職届はシュレッダーに叩き込まれた。
「すいません、ボク、やめます」
「おい、ふざけるな!」
係長の顔が怒りに染まる。周囲も緊張を察して強張る。そんな中で男の顔だけ妙に余裕があった。
知らなかった。『やめたい』なんて言っちゃいけないんだって思ってた。『やめたい』ということがこんなにも楽しいなんて。
「それじゃ、お世話になりました」
軽く頭を下げると口元には自然に笑みが浮かぶ。オフィスを去る途中、自分の席の隣にすわる同僚と目が合った。信じられないといった顔をしていたので、ばいばいと手を振ってみせた。
外にでると、いつのまにか隣には悪魔が一緒に歩いていた。
「どうだ? やりたいことをやれて満足したか」
姿を現した悪魔を見て察する。
なるほど、これから彼に地獄につれていかれるのだろう。
「死んだ後のほうが楽しいなんて知りませんでした」
「バカを言うな。おまえはまだ死んでいない」
首をかしげる男に、昨日のはただ眠らせただけだと告げる。
「え……? でも、願い事をかなえてもらったら魂を持っていくって言いましたよね?」
「あんなもの願いのうちに入るか。無為に人生過ごすよりもっと有意義にすごしたらどうだ? そうすれば、もっとましな願い事を考えるはずだ」
悪魔にいわれて、こんなに心に響かない言葉があっただろうか。
「ひどい、だましましたね!」
抗議する男を見ながら悪魔は肩をすくめる。
「本当はここまで関わるつもりなどなかった。貴様はこの悪魔を辱めたのだ、逃がしはせぬぞ」
悪魔は決めた、この男から必ず願い事をききだすと。
傲慢で怠惰で、無様を晒すところを上から見下ろさねば気が済まない。
「さあ、願いを言え。何でもかなえてやろう」